見てると見てないに関わらず払わなければいけない受信料契約って、おかしくないですか?実は私はこの手の請求業務を行う人が来るたびに何だかんだと言って受信料払うのをすっぽかしてたのだが、今回は主たる契約先がJ:COMなのでほっとくのは難しいかも知れないと思っている。年間1万数千円だから月千円ちょい、面倒な断り文句で言い争うのも鬱陶しいから払ってしまおうかな、なんて弱気な虫が顔を出す。歳をとるとこういう問題は面倒くさいの一語に尽きるのだ。若い時は議論するのが暇つぶしになって相手をやり込める快感も得られ、詰まらないことだがバトルを楽しむ余裕の時期もあった。だが今日説明員がきたら、ただただ面倒くさいだけの自分を見つけて「スローな認知症」になっている可能性もあると考えるようになった。そういえばブログを書き始めて一年弱、最近は書く題材には困らないのだが気力が衰えたり内容が面白く感じなかったり、スランプ気味である。NHKの受信料なんてどうでもいいっちゃいいのだが、これも国の政策の一つ、「理解できない押し付け」と「利権絡みの騙し構造」が気に入らないと書く気になった。払っている人も払ってない人も、少しの間つまらない話にお付き合いいただきたい。
1 受信できる機器があれば、見ていても見てなくても払わなければならないという無茶苦茶な内容
放送はサービスであるから、見たら払うのは理にかなってる。しかし見てもいないのに払わなければいけないと言うのは誰がどう言ってもおかしい。昔はどうであれ、現在は「受信料を払わなければ映らない方法」がいくらでも可能だから、NHKもそうすれば良い。なにも高額の説明員を雇って勧誘などする必要はなく、消費者と映像提供者との自由契約であり、不満も面倒もなく日本人全員が幸せになれる(一部の既得権益にどっぷり浸かった人は不幸になるだろうが、お気の毒さま)。見れば払うし見なければ払わない、実にシンプルである。または広告を取って民法と同じ経営手法を導入しても良い。どちらにしても古い技術未発達の時代に出来た法律は、良い加減に改定してもらいたいものである。
2 見たいかどうかを問うのではなく、国のことを国民に通知する媒体が政府にはどうしても必要であるから、その費用を国民が負担するのは当然だ
一見もっともらしい理屈だが、政府の言いたいように言える媒体というのはある意味空恐ろしい気もして、素直に賛成出来ない。与党だけでなく野党の主張も公平に放送するというポリシーなら良いかというと、全く判断も意見もない垂れ流し放送になって実に面白くない。選挙前の政見放送を見れば分かるが、あの様な放送では何もわからない。舛添前都知事が見事に証明してくれたが、彼の功績というのは選挙という方法が如何に現実とリンクしないかということを立証したことである、とも言える。チャンネルが何十とあって、インターネットとスマホも全員持っている現代に、政府が国民に伝えなければならないことって何だろうか。いくつもあるツールを使って自分の考えを発信する、と言うことがあまり得意ではない老人達が考える「お仕着せの放送」などは不要であるばかりか有害である。必要ならお金を払っても我々は手に入れる。それが民意であり、いつまでも国に何かをやってもらう時代ではないのだ。気をつけなければならないのは、むしろ民意に紛れて主義主張を展開する「ヒトラーの様な、考えない民衆を作る」政治団体である。その意味で、テレビは格好の媒体である(それは一方向だけの、作り手に都合の良い媒体だから)。どちらにしても、テレビや新聞は既に情報を伝達する手段としては前時代的である。
3 払っている人がいるのに、払わないで済ましているのは不公平である
何で不公平かと言うと、同じサービスを受けているのにその対価を払わないからである。でも、サービスを受けないという選択肢がない以上、これは税金と同じではないか。税金を取るというならNHK職員はれっきとした公務員である。公務員であれば、お笑いや紅白歌合戦などのエンタテインメントはすべて民放に任せて公務のみを放送しなくてはならず、地方の細かい状況に合わせて「何処そこの待機児童問題は、こうします云々」といったレベルの放送も必要になる。全国47都道府県の細かい話を延々と24時間放送し続ける放送局が果たして国民のニーズをどれだけくみ上げるかというと疑問である。こういうことこそインターネットが活躍すべきではないだろうか。選択の自由があって初めて不公平という話になるので、ほとんど強制と化している受信料支払いは不公平の極みである。私も払っているからお前も払えというのでは、お上の決めたことには黙って従えっていう主権意識の欠如したネトウヨと同じではないか。別に全員が払わなけりゃならない理屈は、どこにも無い。
色々あって結果、NHKは時代遅れだからそろそろ止めたら、という結論に達した。少なくとも受信料に支えられている今のスタイルは、経営手法としては続かないと言える。テレビはCNNやFOXのようなニュース専門チャンネルや、映画やスポーツを流し続けるエンタテインメントのチャンネルか、趣味や科学などの専門チャンネルなど、いくつものチャンネルを「インターネットで見る」時代に入っている。実はJ:COMの工事が月曜日なので4日ほど間が空きテレビが見られなかった。この間、パソコンでずっと「Radico」を流して本を読んだりスマホをいじったりして時間をつぶしていたが、これも意外と「自由だな」って思った。テレビの映像を見るのは自分の自由を「使われちゃっている」という気がするが、ラジオというのは案外自由である。視界が解放されるというのはこんなにも自分の自由を取り戻す効果があるんだなって、何年かぶりに実感した。テレビを付けておいて本を読むというのは至難の技だが、ラジオを流しながら「自分の読みたかった本を読む」というのも悪くない選択肢だと気がついたのだ(遅い!)
会社の若い後輩は「俺ら、テレビは見ないっスよ」と粋がるが、それで空いた時間をスマホいじりするのではあんまり変わらないと思うのだが、、、。で、「伊勢物語」でも読み始めようかと思ってる私でありました。ありがたいことに、本棚には講談社学術文庫の上下巻が並んでいる、阿部俊子訳注の定本である。いや待て、季刊「邪馬台国」安本美典責任編集も面白そうだ。いや、兵藤裕己校注の「太平記(1)」はどうだろう、、、。
本は買いだめしてはならない、一冊読んでから次を買うのがベストだとわかっているのだが。
1 受信できる機器があれば、見ていても見てなくても払わなければならないという無茶苦茶な内容
放送はサービスであるから、見たら払うのは理にかなってる。しかし見てもいないのに払わなければいけないと言うのは誰がどう言ってもおかしい。昔はどうであれ、現在は「受信料を払わなければ映らない方法」がいくらでも可能だから、NHKもそうすれば良い。なにも高額の説明員を雇って勧誘などする必要はなく、消費者と映像提供者との自由契約であり、不満も面倒もなく日本人全員が幸せになれる(一部の既得権益にどっぷり浸かった人は不幸になるだろうが、お気の毒さま)。見れば払うし見なければ払わない、実にシンプルである。または広告を取って民法と同じ経営手法を導入しても良い。どちらにしても古い技術未発達の時代に出来た法律は、良い加減に改定してもらいたいものである。
2 見たいかどうかを問うのではなく、国のことを国民に通知する媒体が政府にはどうしても必要であるから、その費用を国民が負担するのは当然だ
一見もっともらしい理屈だが、政府の言いたいように言える媒体というのはある意味空恐ろしい気もして、素直に賛成出来ない。与党だけでなく野党の主張も公平に放送するというポリシーなら良いかというと、全く判断も意見もない垂れ流し放送になって実に面白くない。選挙前の政見放送を見れば分かるが、あの様な放送では何もわからない。舛添前都知事が見事に証明してくれたが、彼の功績というのは選挙という方法が如何に現実とリンクしないかということを立証したことである、とも言える。チャンネルが何十とあって、インターネットとスマホも全員持っている現代に、政府が国民に伝えなければならないことって何だろうか。いくつもあるツールを使って自分の考えを発信する、と言うことがあまり得意ではない老人達が考える「お仕着せの放送」などは不要であるばかりか有害である。必要ならお金を払っても我々は手に入れる。それが民意であり、いつまでも国に何かをやってもらう時代ではないのだ。気をつけなければならないのは、むしろ民意に紛れて主義主張を展開する「ヒトラーの様な、考えない民衆を作る」政治団体である。その意味で、テレビは格好の媒体である(それは一方向だけの、作り手に都合の良い媒体だから)。どちらにしても、テレビや新聞は既に情報を伝達する手段としては前時代的である。
3 払っている人がいるのに、払わないで済ましているのは不公平である
何で不公平かと言うと、同じサービスを受けているのにその対価を払わないからである。でも、サービスを受けないという選択肢がない以上、これは税金と同じではないか。税金を取るというならNHK職員はれっきとした公務員である。公務員であれば、お笑いや紅白歌合戦などのエンタテインメントはすべて民放に任せて公務のみを放送しなくてはならず、地方の細かい状況に合わせて「何処そこの待機児童問題は、こうします云々」といったレベルの放送も必要になる。全国47都道府県の細かい話を延々と24時間放送し続ける放送局が果たして国民のニーズをどれだけくみ上げるかというと疑問である。こういうことこそインターネットが活躍すべきではないだろうか。選択の自由があって初めて不公平という話になるので、ほとんど強制と化している受信料支払いは不公平の極みである。私も払っているからお前も払えというのでは、お上の決めたことには黙って従えっていう主権意識の欠如したネトウヨと同じではないか。別に全員が払わなけりゃならない理屈は、どこにも無い。
色々あって結果、NHKは時代遅れだからそろそろ止めたら、という結論に達した。少なくとも受信料に支えられている今のスタイルは、経営手法としては続かないと言える。テレビはCNNやFOXのようなニュース専門チャンネルや、映画やスポーツを流し続けるエンタテインメントのチャンネルか、趣味や科学などの専門チャンネルなど、いくつものチャンネルを「インターネットで見る」時代に入っている。実はJ:COMの工事が月曜日なので4日ほど間が空きテレビが見られなかった。この間、パソコンでずっと「Radico」を流して本を読んだりスマホをいじったりして時間をつぶしていたが、これも意外と「自由だな」って思った。テレビの映像を見るのは自分の自由を「使われちゃっている」という気がするが、ラジオというのは案外自由である。視界が解放されるというのはこんなにも自分の自由を取り戻す効果があるんだなって、何年かぶりに実感した。テレビを付けておいて本を読むというのは至難の技だが、ラジオを流しながら「自分の読みたかった本を読む」というのも悪くない選択肢だと気がついたのだ(遅い!)
会社の若い後輩は「俺ら、テレビは見ないっスよ」と粋がるが、それで空いた時間をスマホいじりするのではあんまり変わらないと思うのだが、、、。で、「伊勢物語」でも読み始めようかと思ってる私でありました。ありがたいことに、本棚には講談社学術文庫の上下巻が並んでいる、阿部俊子訳注の定本である。いや待て、季刊「邪馬台国」安本美典責任編集も面白そうだ。いや、兵藤裕己校注の「太平記(1)」はどうだろう、、、。
本は買いだめしてはならない、一冊読んでから次を買うのがベストだとわかっているのだが。
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