明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

デジタル弱者の戦い(17)日常会話に劇的な変化をもたらしたもの

2024-12-26 16:14:05 | 科学・デジタル

随分前の事になるがいつもにようにゴルフ帰りに居酒屋でワイワイ飲んでいた時のこと、私とSY氏がゴルフのルールについてお互いの主張が食い違い、珍しく言い争う事態になった。私は諄々と「ルールの趣旨」を説明するのだが、SY氏は自分の知ってるルールはこうだ!と譲らない。お互いが自分が正しい筈だと言って口論になりかけたとき、黙ってスマホをいじっていたSN氏が急に割って入って「今調べたら〇〇だって・・・」と、いきり立つ二人にあっさり決着をつけたのである。まさにSN氏は、神の啓示を人々に伝え語る預言者モーゼの役割だった。

普段の会話で意見が食い違った時、スマホでサッと正解が分かるというのは「実はものすごい事」なんである。勿論、争っている内容によっては「ネットに正解が載ってない」こともあるとは思う。しかし、日常的に疑問に思った事が瞬時に一切の面倒なく、しかも無料で答えを得ることが保証されている状況というのは実は人類の歴史上「画期的なこと」ではないだろうか。

昔は長屋に一人は居たであろう学のある御隠居がこういう揉め事を一手に引き受けて仲裁してくれたもんだった。それが今では小学生でもスマホがあればササッと調べて正解を得ることが出来るのだ。人類はこのネット上の「無限の知識」をいったいどのように活用していくのか?

誰の目にも明らかな事実、例えば「フランスの首都はパリだ」から「駅前のドトールの場所」まで世の中の殆どの知識という知識は、今はネットを調べれば一発で分かるようになっている。要するに「あなたが知っているかどうか」は、今はどうでもいい事なのだ。そんな百科事典式の雑学でも、昔なら単に知っているだけで優秀・博学な人と尊敬されたし、一流会社に就職するのにも優位だったのは間違いない。しかし今ではテレビのクイズ番組にでも出ない限り「大した能力では無い」と思われるようになってしまった。知ってるだけではもう尊敬されないのである。

じゃあ何が尊敬される能力かというと(運動や商売は別として)、やはり材料=知識を調理してそこから素晴らしい味=真理を引き出す料理人=考える能力に秀でた人、となるのではないだろうか?。能力は人によって差が大きい。努力もあるだろうが天性の才能というのは争えないものと思う。それは100mを如何に速く走るかというのと同じで、一つの問題を考えて答えを出すにしても「どれだけ深く考える事が出来るか」は、人によって相当に差が出るものである。だが、こういう「考える力」を必要とする問題は、そう簡単にネットに答えが載っている訳では無い。載っているのは単なる情報かまたは「ただの個人の意見」でしかない。ネットに溢れた雑多な意見や情報などから正しい答えを導きだすには、知っているだけじゃなく「考える力」が不可欠であろう。我々は今、単に知識の量ではなく「どれだけ考える力があるか?」が問われているのだ。つまり、社会的な人物評価がその人の「コメント力」で測られる時代になってしまった、・・・難しい時代になったものである。

例えば岸和田市長の不倫問題に端を発して市長不信任案可決から市議会解散・選挙に至る一連のニュースを見てどう思うか?、これを例題に取り上げてみよう。議会の主張と市長の言い分が真向から対立して、双方「大義」を持ち出しての争いになっているわけだが、果たしてどちらの側に説得力があるか問題である。

まず感情的情緒的な判断は避けるとして、私は市長の側の主張について考えてみた。市長は不倫は家庭内の揉め事で「私的な問題」であり、公人としての市長職の信任・不信任は「その市政の成果を評価」して行うべきだと主張している。で、私の意見は

① 市長が岸和田市のことを思って市政を行っていたとすれば、不倫で市政に混乱をもたらし不信任案可決という事態を招いた事について「まず市民の意見」を問うべきである

② よって市長職を辞職し、出直し選挙を選択すべき。もし市民の意見が「市長やめろ」であれば新しい市長のもとで岸和田市は再スタートすればいいし、もし「再度市長に選ばれた場合」はその時点で議会の信任を問うのが筋だと考える

③ そして議会が2回目の不信任案を可決したら、その時は「解散して市議会議会選挙」すれば誰も文句はないだろう。何しろ市民は「市長の不倫を不問にした」わけであるから、市民の意思を無視した議会を解散するというのも止む無しである。

以上です。まあ市長選挙と議会選挙とでどんだけ費用に差があるか知らないが、問題は「市長の適性が疑問視」されているわけだからここはハッキリと市民の意思を尊重するのが妥当だと私は思う。勿論不信任案を可決した議会を解散するというのも中身を考えれば上記の「市長適性の可否」を問う事になるので結果として同じだと言えなくもない。だが市長選挙は争点が「市長としての適性を見る」とハッキリしているのに比べて、議会選挙はそもそも「議会と関係ない」ことを争点にして判断して選挙することになり、本来の意味での議会選挙の趣旨が「曖昧かつ逸脱」してしまう点で誤りである。詳しく言うと今度の選挙は今回市長不信任案を「可決した人と否決した人」のどちらかを選ぶことになるわけだが、例えば不信任案を可決したから「今回は票をいれない」とした場合、代わりに投票する人は「不信任案否決の人」となる。当然だ。だが、代わりに新しく議員になる人が「そもそも市議会議員に適した人なのかどうなのか?」という視点は無視していいのか?、という問題が浮上してくる。本来は「こっち」が大事なのだ。

つまり、市長の適性を判断するのであれば市議会選挙じゃなく「市長選挙」をするべきである。この真っ当な意見に反対する理屈は「無いだろう」と私は考えた。よって現市長は議会解散を撤回し、改めて市長を辞職。もう一度選挙を行って市民の意思を問う、が正しい選択である。議論終わり。

情報をひとつづつ検討して演繹すれば、答えは自ずから導かれるものである。ワイドショーも単にニュースとして起きた事柄を単に伝えるだけでなく、それを飲み込んだ上で「考える」所までやって初めて見る価値があると言える。そうしないと「オールドメディア」との批判も止む無しであろう。猛省を促したい。



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