明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

声は時には顔よりも特徴的

2016-03-28 20:00:51 | 芸術・読書・外国語
ガリレオの3本立てを見ていたら(筋書きは割愛するが)、それまでずっと正体が不明な教授の「声を初めて聞いた瞬間」に、誰だかイメージが浮かんだ。イメージと言ったのは、年をとって名前がすぐに浮かばなかったからである。つい2時間前に久米書店という番組を見ていたので名前が浮かばないと言うのも悲しいが、テーマはそれではない。家族の声なら日常的にこういう事が起きても、何の不思議もない。或いは会社の同僚、行きつけのコーヒーショップのスタッフ、いつも電話で愛想を振りまく得意先の受付嬢、それぞれ耳に馴染んで顔が浮かぶ。

だが久米宏は週に一回程度の出会いである。人間の声は、そんなに簡単に特徴を記憶してしまうというのが驚きであった。で、声は、と言うより聴覚は視覚と比べてどの位区別がつくものだろうかと考えた。これが意外と区別がつくみたいなのである。普段は考えたこともないので気づかないが、旅行番組のナレーションなどで「あれっ、どっかで聞いた声だな」と思う事が最近多くなった。前に病院に入院していた時のことだが、カーテンで仕切られていて見えない隣のベッドに見舞いに来た女性の声がたまらないくらい上品でセクシーなのに矢も盾もたまらず、帰りがけを狙ってカーテンを少しだけ開け顔を覗いた事があった。結果はご想像にお任せするが、何事にも夢というものは必要である、ああ。

人間の感覚には5つあって、視覚が一番情報量が多い。人類の進化を考えると、餌となる動物や植物の情報はまず視覚から得る。それを集団行動の中で仲間に伝える方法は、どうやら聴覚を駆使しての言語が重要な役割を担ってきた事は間違いないと思う。映像は一枚ずつ切り取って静止画として伝える事が基本であり、動いているつまり動画も、時間軸の過去から現在・そして未来への予測として、あくまで事象の原因と結果を表す流れとして存在する。ベースはあくまでも現在である。或いはそれから派生する「過去はこうだった」という説明として付け加えられる。だが聴覚は環境のざわめきや風の音はたまた遠くのヘラジカの鳴き声や鷹の叫び声を、視覚にない「生きた情景としてトータルに伝える」事ができる。

ただし、それは生きているだけに「視覚のように固定された情報」と違い、流れて消えていく運命だ。どうやって聴覚の情報を伝えるのか、そこに言葉が発達してきた理由がある。情景描写は言葉で「周りの景色の移り変わりを表現する」技法である。さっきまで鳴いていたカジカがぴたっと鳴きやんで、恐ろしい静寂が森を支配する。それは捕食者が足音を消して近づく瞬間かも知れない。その見えない動きが聴覚の一瞬の静寂に凝縮されて、音の空白を作り出しているのだ。森や草原に佇んでじっと耳を澄ませば、豊穣な生命の奏でる音楽が聞こえて来る。駅のコンコースでも町の交差点でも、気を付けて聴覚を研ぎ澄ませば聞こえて来る情報がとてつもない量である事に驚く。

耳は音楽を聴くだけの道具ではない。我々は目から入る情報を偏って重要視し過ぎたのではないか。視力1.5は今の時代は良い視力だが、果たして聴力はどうだろう?目で見えるか見えないかと同じく、動物の鳴き声や木々のざわめきや谷間の反響音が複雑に合成された音をどこまで聞き分けるか、その分解能力で聴力を測る機械ができれば案外現代人は、江戸時代や室町いや奈良・平安の人々には遠く及ばないのではないか。その信じられないような聴力でもって「古今集や伊勢物語」を読んでみたいものである。今では叶わぬ夢、源氏物語もウィーンフィルハーモニーのように流麗な響きで私を包んでくれただろうに。

追加:おれおれ詐欺が何時までも有効なのには、ボケ以外にも耳の能力の老化が関係しているかも知れない。視力だって老化する。聴力が老化しないはずはないではないか。

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