明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

私の選ぶ新百人一首(13)阿倍仲麻呂

2024-05-06 20:42:00 | 芸術・読書・外国語

天の原 振りさけ見れば 春日なる 三笠の山に出でし月かも

これを、平城京の東にある「若草山」の事だと思っている人がいるのは事実である。歴史的には三笠山と呼んでいたのを、皇族の三笠宮と名前がかぶるので遠慮して名前を変えた、とネットには書いてあった。つまり、若草山と呼ぶようになったのはつい最近のことのようである。勿論、「春日なる」と歌にもあるように、近くには有名な春日神社もあり、春日なる三笠の山にと歌っているのは「ここのこと」だ、と思うのは無理からぬ所である。だが、〇〇から上る月という表現が人々に何の違和感も無く受け入れられるかと言うと、それには疑問もあるわけで、皆んなが知っている地名ならどこでも良い訳では無い。まず「出でし」という言葉に「相応しい場所」であることが肝要である。つまり、夜の闇から「ポコっ」と上がってくるわけであるから、地平線と夜空の境界を示すような「ある程度高い場所、例えば山のような」地名が必要であろう。もし、仲麻呂が遣唐使船に乗って唐に渡る途中に、「振り返って」夜空にかかる月を見たとするならば、彼の眺める方向には「標高642mの生駒山や487mの高安山などの生駒山脈」が聳えていて、標高342mの若草山(三笠山とされているが)は、見えなかった筈なのだ。

何より、玄界灘を航行する船から見る月であるから、遠く奈良県の「低い山」をことさら歌うというのは、少々「遠近感」がずれていると言わずにはいられない。むしろ望郷の念を表現するのであれば、距離感から言っても「大和島」といった大きな地名を使うのが妥当だと私には思われるが、まあ作者の気持ちを一方的に決めつけるのは、正しいとは言えないだろう。阿倍仲麻呂が遣唐使に選ばれた当時、どこに住んでいたかというのは記録が無くて不明だが、父親が太宰府の人だという程度で、この歌を彼の「故郷感覚」から読み解こうとするのは難しい。古代史学に燦然と輝く孤高のピラミッド・「古田武彦大先生」が指摘したように、これは福岡県の「宝満山」に上る月を唐に渡る途上に眺めて詠んだ句、と解釈するのが私にはすんなり受け入れられるように思っている。

まあ、色々と考えさせられる部分はあるが、第一の理由は、諸説の説くような「唐にあって望郷の念」に浸って仲麻呂が詠んだ句にしては、「振り放見れば」という表現がいかにも「移動中」の動作を示していて、しかも歌っている対象から「どんどんと離れて行く」雰囲気がモロ見えだという点である。私は、仲麻呂は間違いなく月を背にして「どこかに向かっている」時に詠んだ、と思う。それは716年の遣唐使で唐に渡ったという経歴からすれば、この句で思い当たる場所は大和朝廷から唐への航路途中にある、九州宗像市の「海北道中・沖ノ島」しかない。

沖ノ島は海の正倉院と呼ばれる程の歴史遺産の宝庫であり、ここに宗像三女神の「沖津宮」が鎮座していて、当時から「人々の尊宗を受けていた場所」であった。当然、仲麻呂もそれなりに敬意を払って「道中の無事を祈った」というのもありえない話では無いだろう(父親が九州太宰府の人であれば「なおさら」である)。そして何より沖ノ島には、古田武彦氏によれば、「天の原」と呼ばれる地名があるという(これは私の読書の記憶であって、Googleマップではどうしても確認できなかった)。その昔アマテラスが、孫のニニギの天孫降臨に先立って鎮座して海北道中を守った、とあるほど歴史は古い。特に岩陰遺跡などの祭祀場には、一千年以上も昔の祭祀物が野晒しのまま残っているそうだ。そんな場所を遣唐使船に乗って通過しようとした時、母国「日本」に最後の別れを告げようとして「振り返ったら」、夜空にポッカリと月が浮かんでいて、それがちょうど福岡市の「春日原」に聳える「御笠山」(現、宝満山)の上あたりに「出ているように見えた」というのである。まさに臨場感たっぷりの「リアルな歌」ではないだろうか。

8世紀初頭の日本の文化事情というのは万葉集に見られる如く、溢れる感情を「見たままの景色」にのせてシンプルに歌うのが殆どであった。新古今の時代のような「幽玄・象徴の美学」などという感覚が人々の心に芽生えるのは、仲麻呂の生きた時代よりかれこれ「200年も後の事」である。そこでこの和歌を、仲麻呂の時代に即して解釈し直してみよう。

まず「天の原」という言い方がを夜空」を表すと解釈するのには、私の乏しい知識では余り他に類例を知らないので何となく違和感があった。それが「天の川」というなら全然文句はないし、天乃河原というのでも納得はするだろう。だが、対馬海峡の海上で夜空を見上げる場合に満天の星々を表す「天の川」を抜きにしては、恐らく和歌は成立しないのではなかろうか。それ程美しく、壮麗な景色であることは、芭蕉の句に見るまでもなく理解出来ると思う(荒海や 佐渡に横たう 天の川・・・芭蕉の名句)。それが天の川でなくて天の原だというのが、どうしても私にはピンとこないのである。大体「原」という言葉の持つイメージは、広くて開けた平坦な場所を想像させる。遣唐使ということで連想するならば、「大海原」という表現もアリだ。この大海原に対比して、夜空を「天の原」と詠んだ、とも考えられなくはない。だが、もしそうだとするなら、仲麻呂は何よりもまず第一に「夜空を見上げていた」ことになる。望郷の念に涙する程の感動を催している筈の人間が、「わざわざ夜空なんか」を繁々と見上げるだろうか?

天の原と詠んで、続いて「振りさけ見れば」というのがミソである。天の原は、三笠の山に出でし月と「反対側」に見えていなくてはおかしい。つまり、仲麻呂は最初に船の向かう先「目的地の唐」の方を見ていて、その後に「振り放け見る」と月が出ていて、それは三笠山の云々だった、と続くのだ。この状況を考えれば、仲麻呂の歌には「望郷の念」とかいう感情は余り感じられない、というのが私の感想である。悪く言えば名所旧跡を尋ねてあちこち見て歩く、旅行者の物見遊山の感覚すら覚えたとも言える(ちょっと言い過ぎかも?・・・)。私は仲麻呂のこの歌に込めた想いを想像すると、自分はこれから世界の中心である唐の長安に行き、最先端の文化を吸収してくるのだ、どうだ凄いだろ!、という血気盛んな若者の「壮大な意気込み」が見て取れる(仲麻呂は当時24歳だったそうだ)。春日なる三笠の山という表現も「懐かしく思い出させる故郷」というよりはむしろ、これから向かう大都市「長安」で日々出会うであろう「日本との文化の違い=カルチャーショック」を想像して、全身身震いしている仲麻呂自身を鼓舞し・見守ってくれる守護神のような感覚で眺めていたんじゃないだろうか。「ああ、故郷の月よ。いよいよあの長安に行ってくるよ!。大丈夫だ、きっとうまく行くさ。これからしばしの別れになるが、きっと待っていてくれよな!、愛する国・日本よ!」ってな感じで、別れを告げたのだと私は思いたい。

残念ながら阿倍仲麻呂は日本に帰ることは出来なかった。何度か遣唐使の帰りに便乗して帰国しようと試みたのだが、その度に船が遭難して叶わなかったそうである。なおこの歌を、唐から帰ろうとする仲麻呂を送るための送別会で彼が詠んだものとする説もあるようだが、本人が唐にいるのに「振り放け見る」では余りに辻褄が合わないので、却下すべしだろう。第一、振り放け見るなどというフィクションを使わなくても「彼ほどの作文の技術」があれば幾らでも、その場の「状況にあった表現をする」ことなどお安い御用だと私は考える(私は無いので思いつかないが)。とにかくこの歌は、弱冠24歳の仲麻呂の希望に満ち溢れてワクワクした気持ちと、長安に行って「何か一つ、凄いことやってやろうじゃないの!」という未来への決意を、明るくサラリと表現した「若者らしい旅立ちの歌」と解釈したい。そう考えた時、仲麻呂が詠んだ月の上がる場所は「沖ノ島」から指呼の間にあり、人口密集地の博多湾から御笠川を遡った上流の春日原の、さらに奥まった首都「太宰府」と、それを鎮めている霊峰「宝満山」(古代には御笠山と言った)が最も相応しいのは、誰の目にも明らかだろうと思う。

この時の仲麻呂の心情は、前途洋々故郷の明月に送られて、遥か大唐の都に「いざ、出陣」というところだろうか。さし詰め今ならニューヨークに単身乗り込んで、一旗上げようとする若き起業家をイメージすればピッタリである。仲麻呂の逞しくも若々しい青春が、これから自分の身の上に起こるであろう奇跡を想像して真っ暗な航路に独りデッキに佇んでいたら、何とはなしに「心細く」なり、不安が勝って心が打ち震えてくる。ふと夜空を見上げたら、物静かな月が優しい顔で自分を見つめてくれているのに気がついた。・・・月は「仲麻呂よ、心配するな。お前には私がついているじゃないか、頑張れ!」と言っているように、仲麻呂には思えただろう。そんな無言のやりとりを月と交わしている状況を思い浮かべれば、シンプルすぎる歌も何だか美しい光景を描き出して余りある「ドラマチックな名歌」に見えてこよう。

和歌とは、ある状況に置かれた作者が心に浮かんだ感情を、他者と共有・コミュニケートする文学である。私は仲麻呂のこの歌を「青春の旅立ち」というワードで解釈してみた。果たして私の解釈が皆さんの心に刺さるかどうか・・・



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