明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

酒のツマミ話(59)阿武町町長は問題が良くわかってないんじゃ?

2022-06-03 13:29:00 | ニュース

1、とにかく阿武町町長には、問題認識が不足している
町長は今回の事件を「ヒューマンエラー」と陳謝していた。ヒューマンエラーと言えば全てが片付くとでも思っているかのような勢いである。例えば交通事故などでもそうであるが、大体あらゆる事故はヒューマンエラーから始まっている。所謂、信号を見落としていたとか睡眠不足でうっかり眠っていた、あるいは一時停止を怠った、または一方通行を逆走した、等々。みんな交通ルールを守っていないから事故が起きる。勿論、スピードを出しすぎてカーブを曲がれなかった、あるいはハンドルを切り間違えて対向車線にはみ出した、ブレーキとアクセルを踏み間違えたなど、そもそも運転する技能が未熟である、という例も多い。要はヒューマンエラーが起きた時に、それが事故につながらずに「未然に防ぐ」ためにはどうするか?、というのが「セーフティ・システム」の考え方だ。阿武町の場合は、この給付の仕組みに「この考え方」が備えられていなかった為に起きた事故、いわば「起こるべくして起きた」事故だと私は考える。

今回は ① 「間違った依頼書」が印刷できてしまったこと、② 間違いが分かった時に「すぐ適切な処置」を取らなかったこと(これは銀行にも問題あり)、この二つのことが問題を大きくしてしまった要因である。これは「ヒューマンエラー」とは断じて言えない。

まず ① については「システム」の完全な失敗である。システムの納入会社に損害賠償を求めることもあり得るレベルだと考える。では ② はどうかというと、これが最も重大な問題点なのだが、銀行が口座にお金を振り込んだ場合「例え間違いだったとしても元に戻せない」という法解釈が原因なのだ。大抵は「間違って振り込んじゃいました、ごめんなさい」と電話で謝れば、笑い話で済む事例である。そもそも相手にはそのお金をもらう「いわれ」が無いのだから、ちゃんとした会社や普通の人なら「気をつけてくださいよ」とかブーたれても、しぶしぶ返金に応じるだろう。返してもらった方は「菓子折りの一つでも」持って行って、そこから商取引が始まるなんてことも「無いわけじゃない」。では、今回は「相手が悪かった」で済むのだろうか?

私はこの事件がニュースに出た段階で、すぐ「誤送金の額と同額を別口座(銀行管理)に移して保全する」やり方を提案した。要は受け取る側に「受け取る正当な理由」が見当たらないのなら、送った側の「間違い」という主張が認められて、結果お金は阿武町に戻るという判断である。裁判所がこれを審理する間に受け取った側がそのお金を使ってしまわないよう、保全するのが「必要な処置」の全てなのだ。その保全依頼を、あろうことか阿武町は「郵便で送った」というから何をトチ狂っているんだ馬鹿者!、って感じである。切迫感がまるで感じられないではないか。要するに税金だから「他人事」」何だろう、ここが阿武町町民の「怒っている」部分である。まあ、問題は役場の人間が怠慢だったこととは別なんだが・・・。

で、今後の改善策としては
① システム変更
② 振込まれた側の所有権制限を立法
③ 銀行で一時保全口座開設を義務付ける
以上だ。

阿武町役場の責任については、その処置を
① 町長と町長代行、それと経理責任者及び担当上司・担当者を解雇、但し一定期間は再就職のために猶予する(一定期間後に、また阿武町に戻ることも可能)
② 解雇による阿武町職員不足分は、市または県の公務員が一定期間「応援出向」して穴埋めする
③ 町長選挙を早急に実施する(現町長も出馬可能)
以上でどうだろうか?

どっちにしろ、確定申告を「リアルタイム」で行うシステムの整備が絶対条件だ。「えっ、そんなこと無理でしょ?」って思った人は、私の過去ブログ「現金の無い社会」を読んでいただきたい(これ、PV アップを狙ってます!)。

2、ナスのコリンエステル
栄養が無いと思われていたナスだが、実は副交感神経を優勢にして血管拡張効果がある「コリンエステル」という物質が豊富にあることが分かったという。切るとコリンエステルが減るらしいから、レンジでチンするのが良いということ。なお、新鮮なものを見分ける方法は、ヘタの裏の境目が白いことや、トゲが固くて痛いのが良いそうだ。ちょっとこれからナスを使ったレシピなど考えると、食事のバリエーションが増えそうである。

3、人間の価値
人間の価値を判断するに、「美しい」はダメで、「カッコいい」が正しい、というのが私の今の考えである。まあ、ちょっと比喩的で大雑把な意見だが、簡単に言うと「美しい」は世間一般の評判のことを言っていて、それに反して「カッコいい」という判断は「自分の個人的感覚」を表しているということなのだ。よくフランス料理などに象徴される「食事マナー」など、上流階級の証みたいに考えられていて、あたかも人間のレベルが上がったかのような錯覚に陥ってしまいがちだが、要するに「正しい食事マナー」みたいな「知識」を丸覚えしていれば「できちゃう」技術なんである。別にマナーが正しいからと言って、その人間の価値が上がるわけでは「決して無い」。ところが食事マナーもマナーとしてではなく、自分の美意識で取捨選択した結果行っている「そのひとなりの食事の所作」であれば、それはそれで評価されると考える。つまり「カッコいい」という評価である。

昔、皆「論語」を勉強している時代があった。実は、孔子の教えは「理想の人間」を作るやり方なので、今のダイバーシティ重視の時代とは「相容れない」やり方・正反対の考えなのである。例えばゴルフで言うならば、他人から見て「綺麗なスイングだね」と言われるのは「美しい」という評価であり、すごい「飛ぶねぇ」と言われたら「カッコいい」のである。つまりスイングを形で見るか結果で見るかの違いだ。その典型的な例が「ミス何ちゃら」というランキングである。他人が見て美しいというのは、個人個人の個性を無視して、造作の違いだけを評価基準にしている。外見が美しいかどうかは、人間の評価としては関係ないと思う。

「美しい」という評価には、自分達と違う何か特別な感じが含まれているが、「カッコいい」という言葉にはもっと、自分達と同じ人間という「仲間意識」があると思う。何よりカッコいいという評価には、基本的に「ダイバーシティの容認」が前提なのだ。これは取りも直さず「人間の理想的な型」というのを作らないこと、という人類の知恵が含まれていると思う。

人間の価値というものは「どんな人間か」より「何をしたか」にある。強いて言えば、「何をしようとしたか」だ。結果、出来たかどうかは二次的なことだ。見た目の美醜や地位や財産を評価基準にすれば、そこには上下・優劣を比較して並べるという「諸悪の根源」が発生する。人間は、全ての個人が「大切な存在」だということを忘れてはいけないのである。例え上手に箸を使えなくても、本人がそれで不満なく食べられれば構わないではないか。そういう外見にいちいち捉われることが、「人間の可能性」を頭打ちにする悪弊である。

よって、人間の価値は「カッコいい」で決まり!(そう言えば昔、室町・戦国の時代に「バサラ」と呼ばれた一連のカッコいい人達が存在した。歴史は繰り返すと言うが、見直されて然るべきである)


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