明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

私の選ぶ新百人一首(7)恋三番

2020-09-29 10:50:27 | 芸術・読書・外国語
今回は、成就するまでの悶々とする諸相を描いて出色の出来栄えを示した3作を一気に紹介する(なお、作者名の後ろの数字は小倉百人一首の番号)。

(7) しのぶれど 色にいでにけり 我が恋は  物や思うと 人の問うまで    平兼盛・・40

(8) こいすてふ 我が名はまだき 立ちにけり  人知れずこそ 思いそめしか   壬生忠見・・41

(9) 逢ひ見ての のちの心に くらぶれば  昔はものを 思わざりけり    権中納言敦忠・・43

以上、平安貴族の哲学的恋愛観を見事に捉えた「恋の三部作」と私は評価している。

平兼盛と壬生忠見の両作歌は「拾遺集」に載っており、960年村上天皇の「天暦御時歌合」で詠まれたものとされているそうだ。共に「もうバレてるやん、どうしよ!?」という気持ちを詠んだ傑作として、古今に名高い作品だ。両者、自作の勝ちを競い合って譲らず、甲乙付け難い出来栄えに判者も困り果てていた所、村上天皇が兼盛の歌を口づさんだので勝者となった、というエピソードが残されている。負けた壬生忠見はその後の落胆ぶりに尾鰭がついて、食事が喉を通らず見るも無残に痩せ細った挙句、しまいにはとうとう亡くなってしまった、という話があるくらいの名勝負と謳われたようだ。当時の貴族社会は楽しみが少なくて、誰々がこうしたああしたという「今で言えば SNS の噂話」に皆んな飛びついたらしい。他人の恋バナは本人たちが本気であればあるほど、周りには無害で面白おかしく興味をそそるというのは古今の常識である。

どちらも良く出来た作品だが、平兼盛の方は「他人からどうかしたの?」と聞かれて返答に困惑した話。いわば噂の当事者に「雑誌記者が突撃インタビューした」体の構成になっている。一方、壬生忠見の方は本人にははっきりと伝わって来ないが、どうも「ヒソヒソと噂が立っているらしい」という状況だ。どのくらい噂が本当か、という信憑性で言えば「どっちもどっち」である。だが兼盛の方はどうやら「親しい人から尋ねられた」わけで、人々の間に噂になる程「公に広まって」はいないと思われる。そこへ行くと、忠見の方は「あちこちで話題に上っている」らしいから、より深刻なんじゃないだろうか。作者の心の「焦り」を考えると、ちょっと忠見の方が「やばい」ことになっているかも知れない。

まあ、この手の噂は男にとっては、それ程気にする話では、全然ない。それに「歌合の為に用意した純粋な文学作品」だから、実際はどちらも「実体験をそのまま歌にしているわけではない」のだ。この時代は、男性貴族に取っては「昇進栄達」こそが人生を賭けるべき唯一の価値であり、言わば色恋沙汰は「ちょっと合間にいい女にちょっかい出す」程度の遊び感覚でしかなく、日々の生活にそれ程重みを持っているわけではなかったんじゃないだろうか。実際にこの後、兼盛や忠見が「火消しに走った」という話は残っていない。と言うより、「そんな事には誰も興味を持ってはいない」のである。東出昌大とか渡部建とかのような炎上騒ぎには全然ならなかった、と言えよう。強いて言えば「全女性を敵に回す程」の人生を失いかねない大スキャンダルにならないように、彼らもある程度慎重には対処していたのである。

そう言えば在原業平と後の清和天皇皇后・二条の后藤原高子との恋愛関係は、当時でも相当に「危険な情事」に分類される恋である。私もちょっと前に奈良に旅行した折、彼の流麗にして哀愁の影が見え隠れする恋愛遍歴を「肌で感じようと」思い立ち、業平寺こと「奈良の不退寺」を訪れたことがあった。新大宮からてくてく歩いて1km位、近くには法華寺や海龍王寺、平城宮跡・宇和奈辺古墳・小奈辺陵墓参考地など、平城京・佐紀・佐保エリアの大観光地である。私の行った所はどうも表門ではなかったようで、薄暗い曇り空にひっそりとした通用門風の入り口から見える寂れた感じの景色は、物音一つしない閑けさで、ただ木々の間に垣間見える建物だけが、人気(ひとけ)のない寺を一層凄惨にみせていた。歴史に残るプレーボーイとして数々の伝説に彩られた業平の、不遇の晩年を想起させて、何となく悲しかった。

古くは紐解けば、平城天皇が隠棲した「萱の御所」が始まりとされ、父の阿保親王が住み、その後息子の業平が住んでいたという「ゆかりの深い寺」だそうだ。彼はそもそも、官位に執着して刻苦精進したとの言い伝え等は勿論なく、あくまで世俗の愛憎に翻弄されながら住処を転々とした風流人と私は思っていたので、町中の住宅街にあるこんな物寂しい寺は、「業平のイメージ」には似合わないなと一人ガッカリしたのも確かである。歴史の流れがそうさせると言っても、もう少し「華やかさ」があってもいいのに、と感じた。ところがネットで調べてみると観光地として結構な宣伝もやっているみたいだし、割と綺麗な建物に紅葉が美しい庭があり、「業平ゆかりの寺」としてはそれなりに道具立てが揃っていて、私のイメージががらりと違ってきたのである。やっぱり観光する時は、ちゃんと正式なルートで訪問すべき、という残念な例であった。以前男山八幡宮でも本殿を取り違えて「なんだこんなもんか」とえらく落胆し、そのまま帰ってしまうという不始末をしでかしている。私の「おっちょこちょい」は、まだまだ続きそうだ。

ちなみに、このお洒落な恋愛の機微を謳った和歌は、在原業平から100年後の平安中期、ようやく藤原氏の摂関政治も安定して、醍醐・村上の王朝文化全盛期を現出した「古き良き時代」に生まれている。そもそも平安時代の文学に現れる「恋」はおしなべて、恋する想いが「成就するまで」の手練手管の優雅な駆け引きと、恋人に捨てられた時の「心にポッカリと空いた淋しさ」との2択しかない。万葉集などに見られる「恋の喜び」とか、後代の「満ち足りた愛」とかいう奥深い感覚は、まだ無い。50年も昔の話になるが、学生の私にとって恋のバイブルだった「スタンダールの恋愛論(上下2巻、岩波文庫で出ています)」は、発表された当時全く世間から注目されず、がっかりした彼は、「この本が評価されるのは、私が死んで50年後だろう」と大いに嘆いたと言う。恋も時代の影響を受けるのである。

この頃は、恋愛は一種の「人間関係における高度なテクニックや技を競い合うもの」であり、選ばれた色男が「どれだけ見せ場を作るか」試される場とも考えられた。この2首も「恋の始まり」を理知的に分析し、恋そのものよりも「秘密にしていたのに、何故か人に知られる」心の動揺を、臨場感たっぷりにリアルに描いて共感を得ている。このような、一種ウィットに富んだ恋模様を、さらりと表現してみせた「感情分析力」は、そんじょそこらの並大抵の才能ではないだろう。官位を目指して鎬を削る日々の中で、名人との評価を得ようと寸暇を惜しんで和歌を作っていた彼らは、言わば時代の最先端を行く「流行の作りて」だったとも言えるのである。

人々の恋する気持ちが思いがけず露見してしまうことへの疑問を抱く一方で、恋が成就したあとに感じる「心の感受性の変化」を歌っているのが権中納言敦忠である。彼は先の二人より少し早く生まれていて若くして亡くなっているから、旧知の中ではなかったようだ。身分は従三位権中納言に若くして既に叙されている、生粋の貴公子である。父は菅原道真を左遷させた悪名高き「藤原時平」、母は美男子で風流一番の「天皇の孫、在原業平」の孫娘だからもう、朝廷でモテモテなのは当たり前と言える。しかし時平も早く死んだが、この敦忠も37歳と若くして亡くなっているのは哀れである。美人薄命と言うが、勿論美男子も例外ではない。まあ父親の方は「道真の祟り」と専らの噂だが、息子の方は真面目な性格なのか、熾烈な政争の渦中からは距離を取っていたようである。

歌の意味は概略「後朝の感想」を述べているだけで、これと言って人生の深い悩みなどは関係がなさそうだ。男が翌朝に「君に会ってから、人生違っちゃったよ」なんて和歌を書き贈るなどすれば、女の側にすれば「もう有頂天」になるシチュエーションだが果たして敦忠、そんな初心な男だろうか。この歌の文字面はそういう風に受け取るべきなんだろうが、どうも言い方が素直じゃないのだ。

歌のロジックは、
①昔は何とも思わなかった →
②今は恋に夢中だ →
③それは君という女性に出会ったから、
と三段論法で女の素晴らしさを伝えている。だが何か、論理的には正しいのだろうが、心がこもってないのである。

そう思うと、贈った歌に妙に論理が強調されていることで、逆に「中身の無さ」を隠そうとする「男の嘘」が見え隠れしている、とも取れる。まあ彼女は、まだ若くて恋に不慣れな可愛いタイプなのかも知れない。こういう持って回った甘言が、朝廷のイケメン貴公子の「いつものパターン」と見抜くまでには、あと少々時間がかかるのであろう。この歌を贈った相手とは、その後どうなったかは残念ながら分かっていないが、彼が昔と違って「物を思う」ようになったにしても、想う相手は「その都度」変わっているに違いない。令和の現代と平安の昔とで演じる役者はそれぞれ変わっても、男が浮気性なのは「原初以来の習性」なのだ。もしかすると敦忠は「そんな男の不実」を言外に匂わせて、この歌にある種ブラックユーモア的な生命を吹き込んだのかも知れない。だとすれば一見凡庸な色男に過ぎないチャラい貴公子と思っていた敦忠が、実は「本質的な男女のすれ違い」を冷徹に見つめる哲学者であり、若くしてはや「人生の達人」だったとは言えないだろうか。

私は彼ら3人の人生が、楽しく喜びに満ちたものであったと思いたい。プッチーニのオペラ「トスカ」の有名なアリア「歌に生き、愛に生き」の出番が、悪徳役人スカルピアに追い詰められた場面だったことを、ふと思い出した。言葉で至高の愛を歌う時は、意外と実生活では「ボロボロになってる」場合が多い。その例で言えば、村上天皇の「天暦御時歌合」が彼らにとって人生の絶頂期だとすると、その後は鳴かず飛ばずの淋しい人生が待っていた、なんてことにならないとも限らないのだ。一世一代の大規模な歌合と言えば、歌詠みにとってはオリンピックみたいなもんである。才能のすべてをぶつけて頂点を極める戦いに挑んでいる最中には、後先のことなどは考えてはいないだろう。平安文学世界の「選ばれたアスリート」である彼らには、毎年の昇進よりも「才能の枯渇」が怖かったに相違ない。それを感じるのは早ければ30歳、遅くとも50の声を聞く時には、凡夫は皆んな第一線から退いている。我々が知っている三十六歌仙などと呼ばれる歌詠みになれるのは、「ごく一部の人間」のみである。定家が百人一首に選んだだけでも、時代の頂点を築いた歌人と評されてもいいかと思う。もしかしたらこの3首は彼らの最良のものでは無いかも知れない。もっと人生の深い哀愁と、生きとし生ける物への慈愛に満ちた歌群をモノしている、そういう可能性もないとは言えない。そんな興味を読者の心に想起させる藤原定家の慧眼には、いまさらながら「時代を超えた歌の伝道師」と敬服する次第である。

こんなことを考えていたら、「恋って、こんなものなんだよな」としんみり月を眺めながら、静かに語り合っている3人が目に浮かんで来た。恋とは、人生の表層に浮かぶ浮草のように儚いものである。例えそれが、短い人生を「不思議な感情の高揚」で彩る閃光だとしても、・・・。

(つづく)

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