会社を退職してしばらく社会から見放された「引きこもりロス」気分に鬱々と沈み込んでいたが、ようやく気力がぼんやりではあるが「ふつふつ」と湧いてきて、何の肩書もない「一人の老人として」生きていく勇気が私の心にもようやく芽生えてきた。まずは手始めに「大好きな古代史」を研究しよう、ということで柏図書館に行ってみる。こじんまりとした建物であるが、静かな環境は私の性にあっているようだ。で、真っ先に「歴史」の棚に行ってみた。ザッと見渡してそれで終わり。やっぱり柏あたりの図書館では、思い通りの本には巡り合えないようである。そこで柏の東口にあるジュンク堂に行ってみた。ジュンク堂は柏でも有数の大きい本屋である。ズラッと並んでいる陳列棚には色々と本が並んでいるが、案外と欲しくなるような本が少なくて肩透かしにあったような気分である。まあ最近は本はなるべく買わないようにして、一回読めば済むような本は出来るだけ図書館で読むように考えを改めたばかりなので、本屋が本を揃えていないと言って文句を言うのは「無い物ねだり」ではある。本は読んでしまえば「ただのゴミ」。エコの時代にこのようなゴミを作り出す習慣はいただけない。本を買うのは「古典と愛読書」だけにして、死んだ時にはゴミはなるたけ減らそうという「断捨離生活」を実行するのが我々庶民の努めである。それで、1時間程ずっと棚を見てあれこれ探してみたが、結局買わずに帰ってきた。小林恵子の「本当は恐ろしい万葉集」なども手にとって見たが、余りに突飛な説を展開しているので遠慮した。
そもそも古代史自体が需要がないのだ。翻ってじっくり歴史を眺めれば、1つの地理的に恵まれた地域の王朝が、発展し盛期を迎えて、代を重ねるうちに地方の貧しい蛮族に侵攻・制圧されると言う話は世界各地で枚挙に暇がない。最初ギリシャがまだ小国だったときにペロポネソス戦争でペルシャを撃破し、さらに後発のローマ軍がマケドニアとの戦いを制して天下を取り、さらに後発のアジアのフン族が東ヨーロッパに侵入して民族大移動が起こった結果、ヨーロッパ全体が「新しい国家形成の始まり」に突入した、という歴史がある。当然、日本でも何度も王権の交代があって、朝鮮からの民族の移動などもあって「最後に〇〇王権として全国を統一した」というストーリーが、一番普通の歴史観はないだろうか。私の古代史の基本的な研究姿勢は、各地に発生した有力な勢力が、他の弱小部族を吸収併合しつつ大きくなっていき、ある時「後発の勢力に乗っ取られる」というストーリーを発見することである。それが私にとっては、一番納得する説だからだ。だから歴史を調べる時には、それに沿った形の学説を中心に勉強している。そんな中に、最近ネットで見た新説が驚くほど心に響いて来他のである。それは、
天武天皇は、実は二人いた!
という説である。大海人皇子と呼ばれた人物ともう一人、「壬申の乱」を戦って王位を簒奪した人物は「別人」だとする。アッと驚く新説ではないか。しかし年齢が兄である天智天皇より弟の天武天皇が「年上」になってしまうという年齢逆転の謎は、実は二人いたとすればすっきり簡単に解決する。これが私の心を掴んだ理由である。「こうであれば」簡単に説明が付く、と言う説は、意外と真実の場合が多い。ついでに天武天皇の後に皇位を継いだ高市皇子をはじめ、謀反の罪で殺した大津皇子や長屋王など、競争者を次々と排して自分の息子を天皇につけた持統天皇は実は「九州王朝の姫君」で、大和の地方豪族であった天智天皇の娘では「無い」と言う説である。だから天武天皇が崩御し、高市大王が後を継いだ後に彼も崩御した時、いち早く長屋王を謀反の疑いで自殺に追い込み、自分の孫の「文武天皇」を位につけて「持統=皇統を保つ」と言う名前を贈られていると言うのだ。もう、何でもありである。
それで、たまたま壬申の乱のことを読んでいたら、大友大王が九州の「筑紫率の栗隈王」に応援を求めた、という話に「急に違和感を感じて」来た。何故ならこれって、余りに「遠過ぎる」んじゃないか、という話なんである。東国の兵を集めるというなら分かる。吉備の兵も「まあ理解出来ないわけではない」。だけど、応援の軍隊が九州という遠隔地では、「吉野」から東に逃げ出した天武天皇と戦うのに「どんだけ呼ぶつもり」なんだろう、である。しかし天武天皇側には大津の瀬田で活躍した「大分の君」が参加しているから、九州が全く関係ないという訳でもない。だいたい戦いに敗れた大友皇子が、都のある大津から「とんでもなく離れた京都の山崎」で自殺しているとなれば、壬申の乱自体のスケールが、戦国時代の関が原合戦より「もっと広大な地域」の戦闘になってしまう。これは感覚的には、どうにも納得がいかない。だって、関ヶ原より1000年も前の「稲作時代」の話なのである。
やはり壬申の乱の舞台は「九州」で確定ではないだろうか。それが何故、「勝った天武天皇側が」九州を捨てて奈良に引越してきたのか?。最終的には乙巳の変と壬申の乱と文武天皇以下の天皇が「泉涌寺の歴代天皇位牌から除かれている」ことまでの「すべての秘密」を解き明かすのが私の夢である。で、そこに行く前にまず流れの全体像を俯瞰して見るところから始めたい。つまり、日本書紀等で描かれている古代史の叙述の中で私が「疑問に思っている事柄」を、ランダムに書き出してみる。何故ランダムかと言うと、最初から「文脈が今までと全然違う」ことが予想されるから、現在通説とされている歴史の流れを、一度元に戻して分解する必要があるからだ。
では早速ランダムに書き出そう。
1、天武天皇の年齢
天智天皇は奈良ヤマトの豪族の息子だが、天武天皇は北部九州の宗像徳善の娘を妃に迎えているように九州の豪族である。だから天武は大海人皇子ではない。天智天皇の弟は確かに存在して大海人皇子と呼ばれていたが、壬申の乱で大友皇子を破り天下統一を果たしたのは「別の誰か=九州豪族の天武」である。しかし日本書紀はその事実を書くと「天皇位簒奪の事実」が公になってしまい、天地開闢以来の皇統不変という書紀のテーマ(天智天皇は神武天皇から連綿と続く皇統)と矛盾してしまう。だから大海人皇子が皇位を継承したことにして、つじつまを合わせたのである。しかし実際は「別の誰か」は天智天皇より年上だったために、大海人皇子との実際の年齢と食い違ってしまい、年齢不詳とせざるを得なかった。これが私の考えているストーリーである。
2 、古事記の範囲
古事記が推古天皇で叙述を終わっているのは、王統が推古で途絶えたからだという説がある。欽明・敏達・用明・崇峻と続いた大王の系譜は崇峻が蘇我氏に弑逆されて断絶し、その後「蘇我馬子」が新王朝を開いて蝦夷・入鹿と3代続いた。これを王統が続いているように改竄するために「推古」という見せ掛けの天皇を置いた。だから古事記の推古紀は中身が無いのである。その蘇我王朝を一瞬で倒したのが中大兄皇子である、というのが私の考えているストーリーである。だが、これには幸徳政権や斉明女帝などの多くの問題点が残されている。
3、大友天皇
蘇我王朝を倒して政権を握った中大兄皇子が、朝鮮半島に出兵して逆に大敗を喫した後にもう一度逆クーデターで皇位簒奪したのが、後の天武天皇である。天智天皇が死の床に大海人皇子を呼んで云々というのは、なんとか大海人皇子を天武天皇になぞらえるために書紀が苦心した脚色で、事実は「すんなり大友皇子が政権を受け継いだ」、とするのが私の考えているストーリーだ。最もそれが自然に起こりうる話だから。天智天皇が死んだら、息子の大友皇子が位を継ぐのが当たり前である。そもそも天武天皇は秦王朝を倒した漢の皇祖に自分をなぞらえて、「赤い旗印」を用いていたと書紀にある。もし天智天皇の弟が天武天皇であるなら、この話は全然つじつまが合わないではないか。
4、東漢直の7つの大罪
天武天皇が東漢直を叱責する言葉として、過去に色々あったことを7つの大罪で示しているが、それが何なのかは不明である。ただ通説にあるように東漢直が天武天皇の直属の部下だとしたら、こういう言い方は実はおかしい。そもそも直属部隊であったなら、天武天皇の意に沿わない行動を「取る筈がない」からである。つまり、東漢直は天武天皇とは直接関係が無いか「薄い関係」の勢力である。むしろ東漢直は蘇我氏の側ではなかったか、というのが私の考えているストーリーである。
5、壬申の乱の勢力図
天武天皇側の勢力は、「大分の君や美濃の勢力」が中心である。倭京を守っていた大伴の吹負を紀の阿閉麻呂が指揮する美濃の軍団が救援して勢いを回復している。だが、大伴も紀も、九州の豪族なのだ(諸説ある)。天武天皇は大友皇子と戦闘する時に「神武天皇陵に馬と武器を祀った」とあるが、神武天皇陵に参拝をしている天皇は天武天皇しかいない(まだ不勉強なので、また聴きのレベル)。天武天皇はヤマト政権でもなく九州王朝でもない、全くの在野の1豪族である(或いは朝鮮から移住して来た勢力)、というのが私の考えているストーリーである。
6、持統天皇の謎
持統天皇は天武天皇が崩御した後、毎月のように「吉野」に行幸している。吉野は「九州の吉野」である。唐の郭務悰は天智天皇が崩御した事を聞き、唐に帰ってしまった。その後に壬申の乱が起きて、天武天皇の「易姓革命」が起きている。その易姓革命が成功するかどうかは「唐の暗黙のバックアップ」があったからと考えれば納得する。その天武政権が「持統天皇によって再度のクーデター」を仕掛けられ、文武天皇の政権が誕生した。その政権奪取を説明し、残っていた唐の出先機関の了解を得るための「吉野行幸」だとすれば、31回の吉野行きが、何となく説明できるではないか。勿論、持統天皇は「九州王朝の後裔」である、というのが私が考えているストーリーである。
以上、今の時点での疑問点を列挙した。これは解決ではなく、解かなければならない「疑問」である。
最近は出雲王朝についても興味が出てきたが、これは原日本が教科書などで説明されているようなヤマト政権単一支配の国家観ではなく、出雲や越や東北には巨大な人口密集地域が誕生し、長野・関東・尾張・吉備などにはそれぞれ文化的集団がクニを形作っている、という考えが浸透してきている。所謂日本も各地の王権が「並立していた」とするのが近頃の歴史認識で、御多分に洩れず私も時流に流されて「その気になって」いるのだ。その中でも出雲と九州北部は朝鮮と近く、古代の日本の実態を探る上で避けて通ることが出来ない重要なファクターである。そう考えれば、出雲王朝を九州王朝とどう関連付けてゆくか、というのは、大いに興味あるテーマである。
私の歴史研究は「古代史の中でも、非常に狭い範囲の出来事」を一から見直すことだ。こういう沢山の疑問に埋もれて、今日もあちらこちらと虚しく考えを巡らしているのが楽しいのである。老後は時間も腐るほどあるから、こういうお金のかからない「図書館通い」を続けて、できれば「頭を使って新説を考え出す」なんて刺激的な趣味に没頭するのが「ピッタリだ」と思うけど、どうだろうか?
そもそも古代史自体が需要がないのだ。翻ってじっくり歴史を眺めれば、1つの地理的に恵まれた地域の王朝が、発展し盛期を迎えて、代を重ねるうちに地方の貧しい蛮族に侵攻・制圧されると言う話は世界各地で枚挙に暇がない。最初ギリシャがまだ小国だったときにペロポネソス戦争でペルシャを撃破し、さらに後発のローマ軍がマケドニアとの戦いを制して天下を取り、さらに後発のアジアのフン族が東ヨーロッパに侵入して民族大移動が起こった結果、ヨーロッパ全体が「新しい国家形成の始まり」に突入した、という歴史がある。当然、日本でも何度も王権の交代があって、朝鮮からの民族の移動などもあって「最後に〇〇王権として全国を統一した」というストーリーが、一番普通の歴史観はないだろうか。私の古代史の基本的な研究姿勢は、各地に発生した有力な勢力が、他の弱小部族を吸収併合しつつ大きくなっていき、ある時「後発の勢力に乗っ取られる」というストーリーを発見することである。それが私にとっては、一番納得する説だからだ。だから歴史を調べる時には、それに沿った形の学説を中心に勉強している。そんな中に、最近ネットで見た新説が驚くほど心に響いて来他のである。それは、
天武天皇は、実は二人いた!
という説である。大海人皇子と呼ばれた人物ともう一人、「壬申の乱」を戦って王位を簒奪した人物は「別人」だとする。アッと驚く新説ではないか。しかし年齢が兄である天智天皇より弟の天武天皇が「年上」になってしまうという年齢逆転の謎は、実は二人いたとすればすっきり簡単に解決する。これが私の心を掴んだ理由である。「こうであれば」簡単に説明が付く、と言う説は、意外と真実の場合が多い。ついでに天武天皇の後に皇位を継いだ高市皇子をはじめ、謀反の罪で殺した大津皇子や長屋王など、競争者を次々と排して自分の息子を天皇につけた持統天皇は実は「九州王朝の姫君」で、大和の地方豪族であった天智天皇の娘では「無い」と言う説である。だから天武天皇が崩御し、高市大王が後を継いだ後に彼も崩御した時、いち早く長屋王を謀反の疑いで自殺に追い込み、自分の孫の「文武天皇」を位につけて「持統=皇統を保つ」と言う名前を贈られていると言うのだ。もう、何でもありである。
それで、たまたま壬申の乱のことを読んでいたら、大友大王が九州の「筑紫率の栗隈王」に応援を求めた、という話に「急に違和感を感じて」来た。何故ならこれって、余りに「遠過ぎる」んじゃないか、という話なんである。東国の兵を集めるというなら分かる。吉備の兵も「まあ理解出来ないわけではない」。だけど、応援の軍隊が九州という遠隔地では、「吉野」から東に逃げ出した天武天皇と戦うのに「どんだけ呼ぶつもり」なんだろう、である。しかし天武天皇側には大津の瀬田で活躍した「大分の君」が参加しているから、九州が全く関係ないという訳でもない。だいたい戦いに敗れた大友皇子が、都のある大津から「とんでもなく離れた京都の山崎」で自殺しているとなれば、壬申の乱自体のスケールが、戦国時代の関が原合戦より「もっと広大な地域」の戦闘になってしまう。これは感覚的には、どうにも納得がいかない。だって、関ヶ原より1000年も前の「稲作時代」の話なのである。
やはり壬申の乱の舞台は「九州」で確定ではないだろうか。それが何故、「勝った天武天皇側が」九州を捨てて奈良に引越してきたのか?。最終的には乙巳の変と壬申の乱と文武天皇以下の天皇が「泉涌寺の歴代天皇位牌から除かれている」ことまでの「すべての秘密」を解き明かすのが私の夢である。で、そこに行く前にまず流れの全体像を俯瞰して見るところから始めたい。つまり、日本書紀等で描かれている古代史の叙述の中で私が「疑問に思っている事柄」を、ランダムに書き出してみる。何故ランダムかと言うと、最初から「文脈が今までと全然違う」ことが予想されるから、現在通説とされている歴史の流れを、一度元に戻して分解する必要があるからだ。
では早速ランダムに書き出そう。
1、天武天皇の年齢
天智天皇は奈良ヤマトの豪族の息子だが、天武天皇は北部九州の宗像徳善の娘を妃に迎えているように九州の豪族である。だから天武は大海人皇子ではない。天智天皇の弟は確かに存在して大海人皇子と呼ばれていたが、壬申の乱で大友皇子を破り天下統一を果たしたのは「別の誰か=九州豪族の天武」である。しかし日本書紀はその事実を書くと「天皇位簒奪の事実」が公になってしまい、天地開闢以来の皇統不変という書紀のテーマ(天智天皇は神武天皇から連綿と続く皇統)と矛盾してしまう。だから大海人皇子が皇位を継承したことにして、つじつまを合わせたのである。しかし実際は「別の誰か」は天智天皇より年上だったために、大海人皇子との実際の年齢と食い違ってしまい、年齢不詳とせざるを得なかった。これが私の考えているストーリーである。
2 、古事記の範囲
古事記が推古天皇で叙述を終わっているのは、王統が推古で途絶えたからだという説がある。欽明・敏達・用明・崇峻と続いた大王の系譜は崇峻が蘇我氏に弑逆されて断絶し、その後「蘇我馬子」が新王朝を開いて蝦夷・入鹿と3代続いた。これを王統が続いているように改竄するために「推古」という見せ掛けの天皇を置いた。だから古事記の推古紀は中身が無いのである。その蘇我王朝を一瞬で倒したのが中大兄皇子である、というのが私の考えているストーリーである。だが、これには幸徳政権や斉明女帝などの多くの問題点が残されている。
3、大友天皇
蘇我王朝を倒して政権を握った中大兄皇子が、朝鮮半島に出兵して逆に大敗を喫した後にもう一度逆クーデターで皇位簒奪したのが、後の天武天皇である。天智天皇が死の床に大海人皇子を呼んで云々というのは、なんとか大海人皇子を天武天皇になぞらえるために書紀が苦心した脚色で、事実は「すんなり大友皇子が政権を受け継いだ」、とするのが私の考えているストーリーだ。最もそれが自然に起こりうる話だから。天智天皇が死んだら、息子の大友皇子が位を継ぐのが当たり前である。そもそも天武天皇は秦王朝を倒した漢の皇祖に自分をなぞらえて、「赤い旗印」を用いていたと書紀にある。もし天智天皇の弟が天武天皇であるなら、この話は全然つじつまが合わないではないか。
4、東漢直の7つの大罪
天武天皇が東漢直を叱責する言葉として、過去に色々あったことを7つの大罪で示しているが、それが何なのかは不明である。ただ通説にあるように東漢直が天武天皇の直属の部下だとしたら、こういう言い方は実はおかしい。そもそも直属部隊であったなら、天武天皇の意に沿わない行動を「取る筈がない」からである。つまり、東漢直は天武天皇とは直接関係が無いか「薄い関係」の勢力である。むしろ東漢直は蘇我氏の側ではなかったか、というのが私の考えているストーリーである。
5、壬申の乱の勢力図
天武天皇側の勢力は、「大分の君や美濃の勢力」が中心である。倭京を守っていた大伴の吹負を紀の阿閉麻呂が指揮する美濃の軍団が救援して勢いを回復している。だが、大伴も紀も、九州の豪族なのだ(諸説ある)。天武天皇は大友皇子と戦闘する時に「神武天皇陵に馬と武器を祀った」とあるが、神武天皇陵に参拝をしている天皇は天武天皇しかいない(まだ不勉強なので、また聴きのレベル)。天武天皇はヤマト政権でもなく九州王朝でもない、全くの在野の1豪族である(或いは朝鮮から移住して来た勢力)、というのが私の考えているストーリーである。
6、持統天皇の謎
持統天皇は天武天皇が崩御した後、毎月のように「吉野」に行幸している。吉野は「九州の吉野」である。唐の郭務悰は天智天皇が崩御した事を聞き、唐に帰ってしまった。その後に壬申の乱が起きて、天武天皇の「易姓革命」が起きている。その易姓革命が成功するかどうかは「唐の暗黙のバックアップ」があったからと考えれば納得する。その天武政権が「持統天皇によって再度のクーデター」を仕掛けられ、文武天皇の政権が誕生した。その政権奪取を説明し、残っていた唐の出先機関の了解を得るための「吉野行幸」だとすれば、31回の吉野行きが、何となく説明できるではないか。勿論、持統天皇は「九州王朝の後裔」である、というのが私が考えているストーリーである。
以上、今の時点での疑問点を列挙した。これは解決ではなく、解かなければならない「疑問」である。
最近は出雲王朝についても興味が出てきたが、これは原日本が教科書などで説明されているようなヤマト政権単一支配の国家観ではなく、出雲や越や東北には巨大な人口密集地域が誕生し、長野・関東・尾張・吉備などにはそれぞれ文化的集団がクニを形作っている、という考えが浸透してきている。所謂日本も各地の王権が「並立していた」とするのが近頃の歴史認識で、御多分に洩れず私も時流に流されて「その気になって」いるのだ。その中でも出雲と九州北部は朝鮮と近く、古代の日本の実態を探る上で避けて通ることが出来ない重要なファクターである。そう考えれば、出雲王朝を九州王朝とどう関連付けてゆくか、というのは、大いに興味あるテーマである。
私の歴史研究は「古代史の中でも、非常に狭い範囲の出来事」を一から見直すことだ。こういう沢山の疑問に埋もれて、今日もあちらこちらと虚しく考えを巡らしているのが楽しいのである。老後は時間も腐るほどあるから、こういうお金のかからない「図書館通い」を続けて、できれば「頭を使って新説を考え出す」なんて刺激的な趣味に没頭するのが「ピッタリだ」と思うけど、どうだろうか?
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