昨日だか、テレビで奈良の竹ノ内街道を取り上げていた。飛鳥から難波に抜ける峠道を竹ノ内街道と言う。推古女帝の頃に出来た大道だ。それは中国という文化の大先進国から、貢納貿易を通じて 各種文物を、難波の湊から直に飛鳥に持って来る大動脈である。この道は元から主要道路として整備された「横大路」を通り、最後は伊勢街道にまでつながっていて、江戸時代はこの道を通じて「伊勢神宮」まで参拝に行くことが出来たという。これが遣隋使で有名な推古女帝の頃に作られたのも、「なるほど、中国と取引するためだったのか」と思えば納得である。・・・だが、へそ曲がりの私には幾つかの疑問が湧いて来た。
謎(1)それじゃ、竹ノ内街道が出来る前は、どうやって中国と通商してたのか?
要するに、それまでは中国・朝鮮との交通ルートは充分に整備されてなかったということである。推古女帝が遣隋使を送る前にも倭国と中国との通交は「中国側の記録」にはあったわけで、その場合には「どこを通って」飛鳥と行き来していたのかが問われると思う。
番組ではそういうことは触れてなかったが、「こういう疑問」が歴史を考える上では大切なのだ。まあ、この番組で何か新しい歴史的発見を得ようとは私は思ってないので、ここはスルーするしかない。だが、今の所はまだ新しいルートらしきものは見つかっていないようだから(北側の生駒山を抜ける暗闇峠というのがあるが、飛鳥とは直接繋がってはいないようだ)、ますます謎が深まって来る(というか、中国と通交したのは飛鳥政権ではないと私は考えているのだが・・・ )。
謎(2)なんで飛鳥から遠い方が「近つ」飛鳥で、都に近い方が「遠つ」飛鳥っていうんだろう?
これは昔から不思議だったが、要は難波から見た言い方という事なんだろう。元々は竹の内峠の西側の太子町あたりに「飛鳥」があったのではないか。蘇我馬子の言う「蘇我の元々の出身地」がこの辺ではないかと考えられなくもない。その後、現在の場所に移って「飛鳥政権」が作られたと考えられる。だから最初の飛鳥を近つ飛鳥、新しい飛鳥を遠つ飛鳥と呼んだ。・・・これが真実じゃないかな。
当然、当時の政治・経済・文化の中心地は、難波「もしくは河内」だった。何よりその方が、先進文化の中心「中国」に近いわけだから、そうに決まっているではないか。つまり、難波が「今の鎌倉」で北条政権が栄えていて、飛鳥地方は「湿地帯の江戸(東京)」だったわけだ。勿論、その後の大発展で主客転倒してしまったが。地形的にも盆地で湿地帯の飛鳥よりは、海沿いにドーンと開けた難波・河内の方が、船を使った海上交通に便利なのは言うまでも無い。
ちなみに巨大前方後円墳が幾つも作られた百舌・古市古墳群は、時代的には仁徳天皇以下に比定されている倭の五王時代だと思われているようだ。あるいは雄略天皇から武烈天皇辺りまでの日本書紀の記述に従えば「強力な大王の時代」が、巨大な古墳を次々と築造するに相応しいと言えるのではないだろうか。その後は一旦切れ目(断絶)があって、越前から出た継体天皇とその子の欽明天皇(実は親子ではないという説もある)が、しばらく並立してから継体天皇側が太子・皇子倶に崩御して欽明天皇側の系列が勝利した、という流れだ(両者並列は私の考え)。
しかしこの巨大古墳時代は日本側の資料が殆ど無く、中国や朝鮮の文書に出て来るだけの、「日本史上の謎の5世紀」と言われている有名な時代である。いま、私が最も興味のある「真の倭国」の輝いていた時代は、この五王の活躍した時代である。なお、番組では前方後円墳から方墳への変化は、大凡欽明天皇の時代から推古女帝のころに掛けて最も盛んになったという。何れにしても、「卑弥呼の円墳」とは別系統の勢力なのは間違いない。ここのところを無視して箸墓古墳を卑弥呼の墓だとか言い出している「バカ」が学者の中にもいるようだが、もういい加減に「国費」を使って掘り返して、挙げ句に「桃の種が出た」とか戯言を言うのは「お止めになったら?」と言いたい。
まあ、竹ノ内街道を徒歩で越してみると、これが中々の田舎の峠道で、ハイキングには丁度良いもではないだろうか。私は昔、初夏の頃に古市側からテクテク歩いて、太子町駅前のとある定食屋に入った事がある。この時食べたハンバーグと地場野菜のグリルが、ボリュームがあってさらに「安い」のにびっくりした私は、即座に奈良移住を決めたのだった・・・というのはオーバーだが、とにかく食べ物が安くて美味いのは大事な要素である。
話を元に戻すとそれから峠を登り始めて、ダラダラと上がった頂上の辺りにレストランがあり、丁度汗が噴き出しそうになる前に冷房の効いた部屋でアイスコーヒーを飲むことが出来た。窓の外では初夏の太陽が、木々の間から差し込んで道をジリジリと照りつけている。こういう景色の中で飲むコーヒーが、私は大好きなのだ。そしてデザートのアイスクリームを食べてから、ゆっくりと磐城を目指して下りていった。道は段々と狭くなり、往時の山道の風情が何となく伝わる気がしたものである。
勿論15年も前のことであるから今では道路も舗装されて車もビュンビュン通っていて、当時ぼんやりと古代の中国との使節の「壮大な往還パレード」がこの細い道を練り歩き、派手派手しく通っていったなどと空想する心の余裕は、もうないであろう。古代は遠くなりにけり・・・である。
ちなみに私が当時歩いていた峠道は、蔦の絡まる切り通しを抜けると小さな神社の入口の脇に出て、石段を下りると古い歴史的保存地区のような住宅街に続いていたと記憶している。奈良の古い遺跡や落ち着いた街並みは京都のそれとは違い、騒がしい観光客の喧騒は消えて、誰一人として尋ねる者もない静寂の中で、ひっそりと「千五百年もの眠り」についていたのである。磐城の駅についた頃には辺りはもうすっかり暗くなっていて、電車の窓から眺める夜の闇が古都飛鳥への想いを一層深くしていた。
そう云えば、峠の途中でパッと視界が開けた所に出た時、眼下に広い空き地の脇の「池のような溜池」が見えた。少し畑もあり、地元の人が耕しているのだろうなと想像して5月の晴れた空を見上げたら、畑の風景とのコントラストが際立ち、爽やかな気持になったのを思い出した。奈良の田舎道は何故か心が懐かしい。
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