明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

きょうの気付き3題

2019-06-05 21:22:52 | ニュース
1、山里亮太と蒼井優
昨日の SMARTNEWS を見て、へぇーっとびっくりした「最近の仰天ニュース」だ。山里亮太はいろいろな番組で出ているが、その才能にはいつも感心している素晴らしいエンターテイナーである。とにかく頭の回転が速く、動きもツボを外さずにシャープでキレ味が良い。それに思ったよりも「下品なところが無く、むしろ紳士」だというのが意外だが本当のところではないだろうか。それに加えて面白い冗談を連発するが、人を傷つけるような悪態はつかない一線は守られている。つまり見ていて安心できる「お笑いの範囲を弁えた」毒キャラである。これって、相当な才能だと思うが如何だろうか。今売れに売れている「有吉・マツコ・有田」に並ぶ人気があるのも頷けるわけだ。ちなみにレギュラー16本というのは凄い、とワイドショーのメンバーが感心していた。その山里が、女優の蒼井優と既に入籍をしているというから「超ビックリ」なわけ。明かるく爽やかなキャラで毒づく山里と比べると、蒼井は女優という職業のせいか「表の顔と実像とのギャップ」が大きい気もするが、どちらかと言えば「地味系のおとなしそうな女性」である。ところが実際は自由奔放で肉食系という「イメージの掛け離れたキャラクター」らしく、そこがまた共演する男優陣を虜にするというから面白い組み合わせである。蒼井のイメージは私が思うに清楚というよりは、「ちょっと変わった女性」の部類に入るように見える。それが山里亮太と結婚するというのは多分だが、いろいろあった蒼井が恋愛に疲れて、「心の落ち着く家庭」を求めた結果、タナボタ式に転がり込んできた相手が「山里だった」ということではないだろうか。別に愛情がないとかどうこうではなく、30過ぎてようやく求めるべき「幸せな家庭像を共有できる相手」に辿り着いたと言うべきだろう。ちなみに山里亮太の血液型はA型、蒼井優もA型と、相性は可もなく不可もなしの「空気のような間柄」である。日本人の結婚相手は、昔からこの関係がベストと言われていた。これが蒼井の恋愛に疲れた心を「ゆっくりと休ませてくれる場所」だとすれば、山里との結婚は正解だということになるだろう。そんなことを考えていたら、たまたま SMARTNEWS で小藪千豊が浜辺美波にぞっこんと出ていた。小藪千豊が浜辺美波を好きというのは別に何の驚きもない「ごく普通」のことで「小藪ごときが偉そうにいうな!」と突っ込むところだが、浜辺のほうは全然気にしてないらしいので取り敢えずは安心した、というか当然すぎて笑えない。ちなみに小藪の血液型はB型、浜辺美波もB型だから、血液型の上ではまず「間違っても恋などは起こりえない関係」だというのが「血液型の相性診断」である。それで浜辺が気になる芸人に挙げたのが「野性爆弾くっきー」だというから「二度ビツクリ」なんである。選りによってあんな異常人格の下品極まる三流芸人を美波ちゃんが好きだなんて!、と驚きが脳内を駆け巡って興奮状態だ。いやまて、好きな芸人と言ってるだけで、好きな男性では「無い」ではないか!。宜しい、確かに芸人に限定している。だが、「一位」に選ぶというのは、それなりに魅力を感じているのでは無いか、そうだろう!。そこで野性爆弾くっきーの「何処がいいのか」を、血液型相性診断で解析してみよう(断っておくが、私の勝手な相性診断である)。まず野性爆弾くっきーはAB型で、浜辺のB型からすれば「扱いやすくて安全」である。浜辺の気持ちの上では「掌中の小鳥」のように、生殺与奪の鍵を握っているような余裕を感じているのではないだろうか。それが女性の母性本能と絡めば「可愛いい!」となるのも、何とか理解出来ないこともない。炎上芸人クロちゃんもしかり、この手の芸人が「結構女性受けする」のは、芸能界の7不思議と思っているのだが事実のようだ。であれば浜辺美波のような超キュートな女の子をゲラゲラ笑わせる才能というのも、野性爆弾くっきーには悔しいのだが「しっかり計算づくで備わって」いるとも言える。勿論、恋愛だとか結婚だとかとは無関係だから気にする必要は皆無なのだが、それにしても「もう少し上品な芸風の男」を選んでくれないかな。浜辺美波が可愛いだけに、残念でならない。

結論:女性の一部の中には、男が「なりたくない容姿」と思っている男を意外と好きになる、という「外見無視の傾向」があるようだ。まあ、好きになるということについては百人いれば百通りの理由があるそうだから、誰が誰と恋仲だ云々と聞いても歳のせいか最近はさほど驚くことはなくなったが、やっぱり「外見より相性だ」というのが恋愛や結婚には大事なんだな、と常より増して実感する次第。ちなみに私の数少ない経験からはじき出したデータによると、仲の良い友達だが気を使わずにいられるのはB型、軽いつもりでついつい用事を頼んで相手から疎遠にされるのがAB型、一見付き合いが一番深くなるみたいに見えるのだが理解が深まらずに最後は面倒くさくなって自然消滅するO型、そして何故か理由はわからないのに好きになって恋い焦がれてしまい相手にされないで独り苦しむばかりのA型、となる。そう、お察しの通り、私の血液型はB型です、しょうがないじゃありませんか。

2、高齢者の自動車事故
日本の法改正のスピードが呆れるくらい遅い、という話。これほど連日のように事故が起こっているのに、一向に解決策が提示されないのは政治の怠慢ではないだろうか。こういう事は早くやらなければ意味がない。間違ったっていいではないか。それより何よりサッサと法律で事故を減らす方策を立てるべきである。では、どうすれば良いか?、という訳で私の考えを述べてみた。事故原因は色々あるだろうが、ここは「高齢者の運転適性」についての問題に絞って対策を考えてみたい。

a. アクセルとブレーキを踏み間違えた場合
踏み間違いは誰にでもあることで、踏み間違ったから事故るというのは短絡的な思考だ。車の挙動(前進か後退か)は常にドライバーの意思とリンクして動いている。だから、車が「加速している」のであれば、自分の足で踏んでいるのが「アクセル」だということが直感的に分かっている訳である。これは自分の足がアクセルとブレーキの「どちら」を踏んでいるかと言うことは「確かめるまでもなく」、車の挙動で瞬時に分からなくてはいけない、それが運転者の「基本」である。当然、ブレーキを踏んでいるつもりで車がスピードを下げずにむしろ「加速」しているのなら、いま踏んでいるペダルは「アクセル」で、瞬時にペダルから「足を離さなければ」いけない、と思うのが普通である。それを「何で効かないんだろう」と思いながら踏み続けるというのは、もう運転技能云々と言うよりは「機械音痴」のレベルに反応が低下したと言えるのじゃ無いだろうか。単に反射神経が遅いというのであれば「ゆっくり操作すればいい」だけだが、機械音痴は行動と結果の動きの関連づけが「身体で理解出来ない」訳だから、もう車を運転するには「不向き」なのである。こうした運転に必要不可欠な判断が最も大事な時に「出来ない」というのは、そもそも機械を操作する資格が無いとしか言えない。要は、とっさに「足をペダルから離す」ことが出来るかどうか、それが事故らないための最低の能力である。もし車の不具合でブレーキが効かないと思ったら(そういう結論に達するのは余程の故障の場合だけであるが、スタート時にチェックすることになっているから先ず有り得ない)、ギアを落とすとかサイドブレーキを引くとかエンジンを切るとかあるいはバックに入れるとか、車を壊すほどの操作だが「何か方法はある」筈である。私は昔、車で駐車場から出ようとして「バックに入っていたため後ろに下がってしまった」ことがあった。その時は、「あっ、」と思ったが「一瞬で」ブレーキを踏み、ギアをパーキングに入れて事なきを得た。当然、対応が遅れれば「後ろ」の車両にぶつかっていた筈である。こういう「一瞬の反射神経がなくなった」と自覚した時は躊躇せずに、運転免許は自主返納するべきだろう。当然、免許更新時には「反射神経の綿密なテスト」を行い、不合格ならば免許を取り上げるべきである。

b. 気を失っていた場合
健常者でもある日突然気を失うということは「医学上の事で、あり得ないことではない」と言える。だが、「アクセルを踏み続けたまま気を失う」というのは、余り例が無いのじゃないかとは思っていた。だが福岡でのニュースを見ると、あり得るとも言える。こうなるともう防ぐ手立ては考えられないでは無いか。もし一つ考えるとすれば、人間の意識の状態をモニターする「AI」を車につけるなどの対策がありそうだが、それでも相当先の話になりそうである。都会では自主返納が増えているとニュースでは言っていたが、田舎ではまだまだ「車がなければ困る」ひとが多いという。それならば、車の代りに「4輪自転車」を売り出したらどうだろう。車で10分走る距離ならば、自転車なら20分か30分で行けるのではないか。健康にもいいし、4輪だから荷物も「同乗者」も運べるに違いない。田舎であれば「交通にもそれほど影響が出ない」だろうし、エコという点でも素晴らしい対策である。事故はスピードと重量で破壊力に差が出る。電動アシスト4輪自転車なら「車重はせいぜい20kg」、いくら「軽自動車」といっても何百キロも重さがある自動車は、事故れば比較にならない被害が出る訳だ。そんな重たい物体が高速でぶつかる自動車事故と比べれば、自転車の事故ならいままで死んでいた人が軽いけがで済む(かも知れない)と言うことが十分予測できる。要は、高齢者ドライバーの交通事故対策として、本人が乗りたくなるような自転車を開発するよう、「市町村など公的機関が大々的に取り組んで」行くことが大事である。田舎のじいさんばあさんの用事なんて「どうせ近所の買い物とかパチンコ屋」位であるから、この程度の4輪自転車でも充分用が足りるのではないだろうか。それでもしも遠くに行かなければならない用事が出来た時には、電車やタクシーを使えばいい。車に比べれば、お金がかかるがそれは仕方がない。特別な用事だろうから、出費もやむなしである。つまり免許を与えなければ、自然とそうなるのだ。まさか遠くにいかなければ生きていけないと言う事はないだろうが、もしそうならば、免許の問題と言うよりは「生活自体の見直し」が必要と考えた方がいい、つまり政治的解決が先ということになろう。ともかくメーカーとも協議して、す早く導入することを考えてもらいたいものである。事故を起こさない車やアクセル制御の器具を開発して高齢者ドライバー全員に行き渡らせるのを座して待つ、などの悠長な考えを持っている限り、この問題は解決しない。大事なのはスピード感である。

電動アシスト4輪自転車というアイディア、意外と正解かもしれない。トヨタや日産でも開発すれば、高齢者が「豪華でステイタスのある高級な自家用自転車」を気持ち良さげに乗り回す姿が、すぐそこに来たとしても不思議ではない気がする。肝心なのは「考え方」であり、人々の「意識」である。

3、死後の世界
私は以前、人間の自我ということについて「死生観」を披露したことがあった。人間は所詮動物の一種であり、牛豚犬猫と同じく「死んだら一巻の終わり」で、魂の不滅とか天国とか浄土とかは無くて、全て完全消滅という説を信じていた。「私という存在」は再び生まれてきて、新たな別の人間として「次の人生を歩む」という考えである。いわば輪廻転生「ではない」が、機能的にはそれに近いのが「私の死生観」である。ところが今日ふっと気がついたのだが、何も自我を意識する自分という存在が「次の時代に生まれる赤ちゃん」とは限らないのではないかと思ったのである。死んだ後に次に意識が目覚めて、自我が芽生えてきた時にそれが「300年先の未来」の場合もあれば、1000年前の「平安時代の世界」でも、理論上は可能である。歴史上の人物に「自分が成り代わっている」かも知れないと思えば、夢は時空を超えてドンドン広がっていくではないか。昔、タイムマシーンに乗って過去や未来に行く話があったが、「自我という意識」の乗り移りだから、「自分の身体というレッキとした物質」が時空を超えるよりかは「現実味」が大いにあると言える。だが「既に消滅している自我」である平安時代の貴族の頭に、「現代の自分の意識」が時空を遡って生まれ変われるのか?、という難しい問題が発生する。未来へは何とか行けそうな気がするが、果たして過去はどうなんだろう?。時間は不可逆的に進行する概念である。過去の自我意識に生まれ変わる為には、それを入れる器=肉体が活動している「時代に生きる」と言う事でもある。例えば自分の「親の時代の人間の自我意識に」生まれ変わるとすれば・・・。

この時間の逆行問題は、奥が深いねぇ。

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