私の古代史への取り組み方は、歴史に関する定説=「答え」を探すというよりも、素人が感じる「素直な感覚」を大事にするスタイルなのだ。その感覚が維持されたまま疑問が私なりに解決したら、それを柱の一つ=「定点」として覚えておいて、次の疑問がその柱と矛盾がないかどうかを検証しながら解いていく、そういう探求法である。そしてもう一つ基本にしていることは、あらゆる「先入観」を頭の中から排除するということだ。例えば邪馬台国探求の例で言えば、魏志倭人伝には「海を渡る」という表現がある。狗邪韓国から対海国までと、次の一大国までと、最後の末盧国までの3回である。それ以外には海を渡るという記述は出てこない。魏志倭人伝のこの部分を邪馬台国に行くための「行路記事」と考えれば(つまり邪馬台国という国を中国の皇帝に紹介しているわけだが)、途中で海を渡ると言う表現は「行路を説明する上で絶対」ではないか。その意味では、邪馬台国を近畿地方に比定する考え方は、「私の頭の中には全く浮かんでこない」のである。このことは、私が古代史に興味を持って調べ始めた最初からずっと持っている感覚であり、勿論、邪馬台国近畿説の類いは「一度も読んだことは無い」。読むまでもないのである。だって、陳寿は末廬国に上陸した後「海は一度も渡っていない」のだ。だから対海国・一大国が対馬・壱岐で、末廬国が九州の松浦であれば(他にはちょっと考えられない)、誰がどう考えても「邪馬台国は九州にある」、と思うしかないではないか!。・・・近畿地方が天皇家支配の原点という「固定観念」が頭にあるから、こういう理解し難いこじつけをひねり出して「なんとか答えを捻じ曲げて近畿に持ってこよう」とする学者が跡を絶たないのである。こういう単純明快な論理・理屈の分からない人達が、いまだに歴史の世界で学者として生活していられることについては、日本人の「考える力」が如何に貧弱かを如実に示している、と答えるに止めよう。「素直に先入観なく」魏志倭人伝を読めば、目的地が九州であることは「わざわざ言わなくても」分かることなのである。一度「天皇家一元史観」を頭の中から消し去れば、古代史は俄然生き生きと輝いてくる。それを教えてくれたのが、古田武彦氏であった。惜しくも先年亡くなられたが、氏の真実への探究心は、今でも私の中に生きているのである(ちょっと自慢である)。
とまあ、いかにも大袈裟なことを言ってしまったようである。私のライフワークについてはこれくらいにして、ここで私が今考えている古代史の「疑問点」をランダムにいくつか挙げてみよう。
1、倭の五王の上表文の中に「東を征すること55国云々〜」という言葉が、見事な四六駢儷体で書いてある。ところが東・西・北は出てくるのに、「南が無い」のはどうしてなんだろう?。当時の倭の「南」には何があるのか、何となく疑問である。
2、宇佐神宮は八幡大神(応神天皇)・比売大神(宗像三女神)・神功皇后を祀っていて、二拝四拍手という変わった拝礼方式で有名である。この拝礼は宇佐神宮と出雲大社でだけ行われていて、日本で2箇所だけと聞く。もう片方が国譲りの出雲大社というのも、何かあるのでは?と思ってしまう。神話に絡んだ神社の由来に神功・応神天皇が重なって、何となく疑問である。
3、壬申の乱の舞台は定説通り京都大津なのか、それとも九州熊本なのだろうか、本当の所はどっちなんだろう?。邪馬台国から倭国に連なる我が国の歴史を研究している身にしてみたら、何処かの時点で首都が九州から奈良に移らなければならない。それが日本書紀の書いているような神武東征神話でないことははっきりしている以上、白村江の海戦がキーポイントになって来る。天智天皇は、本当に「岐阜県大津の」近江京に戻っていたんだろうか?
4、天智天皇が称制を取った理由は、世の中の政治的不安定な状況を考えて天皇になるのは時期尚早だと考えたという。だがこれは、誰か「天皇位任命権者」が他にいて、その人間の意思が働いていたから天皇になれなかったのではないだろうか?。他の誰かとは勿論白村江の勝者「唐の将軍」に違いない。では彼にとっての天智天皇とは、意のままに操れる傀儡政権の長なのか、それとも内心を図りきれない危険なレジスタンスのリーダーなのか。定説では天智天皇は親百済ということになっているので唐の将軍と仲が良い「筈はない」と考えるが、実は親百済は倭国であり、天智天皇の側は「朝鮮半島には興味がなかった」とも言える。天智と劉仁願・郭務棕の関係がどうなっているのか、大いに疑問である。
5、天武天皇は壬申の乱に当たり、自身を「漢の武王」に擬えて赤い旗印を用いたという。それは、天智天皇が一時的にせよ倭国の皇位を奪った勢力であり、天武自身は倭国の正当な血脈をつなぐ者だ、ということになるが本当だろうか?。
6、天武天皇の死後、何故か天武の意思とは相容れない方向へ日本が動いているように見える。その主役である持統天皇は、夫が手に入れた倭国の皇統を、自分の出自である日本に戻そうとしているように思えるのだ。さらに藤原不比等という新しい登場人物を加えて、持統のその「遠大な目論見」は上手く行ったのか、あるいはもう一度逆クーデターが起きるのか?。謎は謎を呼んで大ドンデン返しのフィナーレへと突き進む!
7、持統天皇の吉野行きは、亡き天武天皇の思い出にひたるといった歴史家の言う感傷旅行などでは無いと思う。天武天皇の死後の大事な時期に毎月のように吉野に静養に行っていたというのでは、天皇にしては余りにも能天気ではないだろうか。では何のために31回も吉野に出かけて行ったのか?、大いに疑問である。
8、・・・等々(割愛)。
いくつか上げると書いては見たが、疑問点を言い出せば切りがない。
古代史を研究するということは、これらの謎解きを楽しむことである。勿論、日本史の謎は他にもいくらでもある。例えば、明智光秀は何故本能寺で織田信長を討ったのか?、とか、赤穂藩主浅野内匠頭は何故松の廊下で吉良上野介に切りつけたのか?、とか、秀吉は何故千利休を切腹させたのか、とか、謎は歴史につきものである。だが日本史の最大の謎は「日本のルーツ」にある。そもそも日本という国は、何処でどのようにして生まれたのか?
この質問に正確に答えることは日本書紀が撰進されて真実は闇の中に葬られ、今となっては永遠の謎になってしまった。だが、現代の日本に生まれて生きている私達が、その日本国の生い立ちを全く知らずにいて良いものだろうか?。勿論、天照大御神が云々といった「神話」の話で誤魔化されるほど幼稚ではないし、皇紀26百何年前に神武天皇が云々といった「物語」をまともに信じるほどお人好しでもない。私は、自分で納得できるストーリーが知りたいだけである。本当に「永遠に」解くことはできないのか?
答えは「いいえ」である。
正確ではないにしても、「ほぼ、または大体の、あるいは大まかな全体の流れ」にだけ限って言えば、何とか納得できる形での理解は出来ると思う。というか、出来なければいけない、と私は思っているのだ。当時のことを書いた文献も、証拠となる発掘品も、いずれも真実を白日の下に暴くには「余りに数が足りない」のである。物証が出てこない以上、謎を解くカギは「我々の頭の中の理性」しかない。つまり、あえて言うならば、「理性を駆使して謎解きをすること、そこにこそ面白さがある」のである。自分がシャーロック・ホームズになったつもりで、世界中の他の誰にも出来なかった謎を「自ら見事に解いてみせよう」という気概なのだ(随分大きく出た!)。この古代史というジャンルは資料が少なくて謎が深いだけに一層そういう探求意欲を掻き立ててくれ、「ライフワーク」に相応しい壮大なゲームである。
とまあ、興味がない人にはこの面白さは分からないだろうと私は思っている。私のゴルフ仲間のSN氏なども、ブログは見るけど古代史は読まない、と言っていた。仕方ない、私は私の世界で楽しむとしよう・・・
おっと、カッコつけてる場合ではない。本題に戻ろう。
私がいままで考えた筋書きは、こうだった。中臣鎌足が九州王朝の家臣だったという認識は正しいだろう。その鎌足が裏切って天智天皇の腹心の部下になり、死の床で大織冠と藤原姓を賜って「涙して喜んだ逸話」が残されているのを見ると、その天智王朝は反九州王朝である(か、少なくとも中立)。そして、後継者の大友皇子を倒して皇位を簒奪した天武天皇は、九州皇統を継ぐ大王で中興の祖となる筈だった・・・少なくとも高市皇子が生きている間は。つまり古事記が描いたであろう「消された天武紀」に従えば、唐の天命を否定する日出ずる国の倭国復活である。では、何故古事記が廃されて新たに日本書紀が撰進されたのであろうか?。古事記を作るように命令したのは天武天皇である。「削偽定実」を目指したという。それが推古女帝で記述が終わり、いかにも中途半端な歴史書になっている。そしてその代わりに新しい史書日本書紀が撰進されて、以降の日本の歴史を「ほぼ決定し」てしまった。この問題を考えていくためには、藤原不比等および持統天皇という「謎めいた人物」のことを理解する必要がある。
だが、例によって先を急がずに、斎藤忠の本の記述に従って順序よくゆるゆるとこの問題を読み解いてみよう。
○ 大宝律令以前の近江令と飛鳥浄御原令は、実は大和のものではない
続日本紀は、大宝律令について「律令、始めて成る」と書く。平安初期に編纂された弘仁格式では、国が発した律令を近江令・大宝律令・養老律令とし、大化の改新と飛鳥浄御原令については記載がない。つまり、大宝律令以前の令については、キチンとした記録がなされていない。これは九州王朝で発布された令ではないだろうか。公地公民や班田収授・冠位十二階なども九州王朝が全国に配布したので、大和でも施行されたものと思われる。日本書紀の撰進された720年頃には既に、日本国と言えば大和王朝のことだとする意識が相当に支配者層に浸透している可能性があった(と思われる)。
○ 開府儀同三司と太宰府
宋書では、倭の五王の「武」は自分を開府儀同三司に擬していた。開府とは「都督府を開く権限」を現す言葉である。そして都督府が北九州に開かれた(大和王朝では筑紫都督府と言っているが、実は都督府は支配者のいる所である)。武の任じられた都督とは、「都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事征東大将軍」を表す。中国に朝鮮半島の軍事支配権を承認してもらいたかった「倭王武」にとって開府儀同三司という役職は、「倭と朝鮮半島の首都」を九州に置く、という位重要な名前だったろう。都督府は5世紀に作られた。儀同三司を任命する中国南宋の天子が隋に滅ぼされた後は、その上の最高司令官という意味での「太宰」を自称するようになり、その居城を「太宰府」と呼ぶようになったのだ。その大宰府が、何故いつのまにかヤマト王権の出先機関になってしまったのか?
○ 倭国の首都である太宰府の歴史
6世紀半ばには大宰府には瓦葺建築物が聳えていたという。その時期の大和には、瓦葺きの屋根を持つ大掛かりな建築物はまだ出来上がってはいない。7世紀前半の斉明女帝の宮でさえ「飛鳥板蓋宮」というように、板葺きである。また、現在残っている「水城・山城・神籠石」などの場所は、北九州太宰府あたりを中心として取り囲んでいて、まるで外敵から首都を守るように配置されている。何故、肝心の奈良盆地を放ったらかしにして、遠い九州の僻地を守るために大規模な土木工事を行ったのか、北九州が首都でなければ説明がつかないのである。他にも、618年の倭京年号や、京都(みやこ)・大裏・紫宸殿などの地名が九州には残されている。万葉集に太宰府のことを「大君の遠の朝廷(みかど)」と歌った柿本人麻呂がいるが、天皇のいない地方の役所を「朝廷」と呼ぶのは余りにも不自然である。
○ 北九州と奈良、地名がセットで存在する
北九州と奈良の地名が酷似しているという。例えば、笠置山→春日→三笠山→住吉→平群→池田→三井→織田→三輪→雲堤(雲梯)→筑前高田(大和高田)→長谷山→加美→朝倉→久留米(久米)→三瀦(水間)→香山(天の香山)→鷹取山(高取山)→天瀬(天ヶ瀬)→玖珠(国樔)→鳥屋山(鳥見山)→上山田→山田→田原→笠置山、といった具合である(カッコ内は大和)。他にも、那珂、曽我(蘇我)、広瀬、吉野、山門(大和)と、数え上げればきりが無い。地名がこれほど集中して同じ名前になっているのは、住民がそっくり移住してきたことを意味すると考えるのが妥当だ。奈良盆地に大量の人口流入が認められるのは、弥生時代後期初頭と古墳時代初頭それに7世紀後半から8世紀前半、つまり神武東遷時期と新益京(藤原京)の時期であるとされる。特に地名の酷似が見られるのは、太宰府から夜須町の範囲である。これは倭国の中心部と言われる内陸の一帯で、当時の人口密集地である。続日本紀・神亀4年の記事によると、庚午戸籍によれば670年頃に770の村があった。この同じ時期(7世紀後半から8世紀前半)に、北九州の人口が3分の1も減少したとある。天武天皇7年(678年)12月に九州で大地震が発生、大宰府は殆ど壊滅した。これは想像ではあるけれど、それで天子以下富裕層が九州から奈良に避難して首都を移転した、と考えられる。当時の平城京は人口40万人前後、九州から逃れてきた人の数が30万人と想像されるので、ほぼ人数が合致する。つまりは天武天皇末期に、九州から奈良への「人口大移動」があったことになる。ちなみに、各地方から大量に人の流入があって、移り住んだところにその地名が移される傾向は、それが首都圏の場合に一層顕著になると言う。例えば、九州の「宇佐=うさ(総)」は、元々の地名が上総下総に分かれる7世紀後半より「前」に出来た地名だ。一方、奈良盆地には筑前・筑後・豊前・豊後などの地名が見られるので、九州のほうが「古い」首都だと言える。
と、色々な情報がすべて、首都は北九州にあったが、「天武天皇の末期に奈良に移住した」ということを示している(と斎藤忠は考えている)。つまり壬申の乱の時はまだ大宰府が日本の首都だった。白村江で大敗北を喫した倭国は唐の郭務棕の部隊が北九州に進駐してきた時には壊滅状態であり、代わりに無傷の日本国天智天皇が称制を行って恭順の意を示した。倭国の支配は日本国に移ったのである。そして高句麗を滅ぼして朝鮮半島を支配下に置いた唐が、新羅の離反にあって次第に対立を深めていくに従い、日本への圧力よりも協力関係を結ぶ姿勢に変化してきたのを見て、初めて天智は即位したのではないだろうか。この日本の状況の変化は、第二次世界大戦終結後に新たに朝鮮戦争が勃発し、それまでの抑圧された占領下にあった日本が、空前の特需に湧いた歴史と酷似している。そしてこれは想像だが、唐が新羅と戦闘状態になり日本どころではなくなっていくのと同時に、次第に天智天皇は独自路線=唐と距離を置く方向に歩み始めたのではないだろうか。667年暮れに唐使司馬法聡を百済都督府に送った後、天智は晴れて天皇になっている。その頃の唐は度々日本に応援を要請しているようで、671年にも百済駐留軍の劉仁願から使者が来ているが、どうも天智天皇はのらりくらりと断っているようだ。そして671年10月、天智天皇の死を待って天武天皇は壬申の乱、つまり大友皇子に対するクーデターを開始した。天智天皇が倭国を裏切って白村江に参加しなかったために、戦闘で大損害を出し倭国は壊滅した(と斎藤忠は書いている)。では唐から見れば天智天皇は「味方もしくは中立」勢力であり、対立する勢力では無いはずだ。むしろ天武天皇の方が唐からすれば「危険な倭国残党勢力」ではないのか?。その倭国残存勢力が親唐政策の天智政権をクーデターで倒したことについて、唐はどう思っているのだろうか?。壬申の乱と唐の関係が今一よく分からないのである。少なくとも天武天皇はクーデターを起こすにあたって、唐と争わない約束を取り付けていたのではないか、あくまで想像である。671年の11月、唐の捕虜になっていた筑紫君薩夜麻らが郭務棕の軍に連れられて日本に帰ってきた。この倭国の王の帰還が壬申の乱の引き金になったとも考えられる。壬申の乱は単なる国内の皇位争いでは済まないのである。では、唐は何故このタイミングで捕虜の薩夜麻らを送り返してきたのか?。そこが謎である。
少し長くなった。続きは次回に書くとする。
とまあ、いかにも大袈裟なことを言ってしまったようである。私のライフワークについてはこれくらいにして、ここで私が今考えている古代史の「疑問点」をランダムにいくつか挙げてみよう。
1、倭の五王の上表文の中に「東を征すること55国云々〜」という言葉が、見事な四六駢儷体で書いてある。ところが東・西・北は出てくるのに、「南が無い」のはどうしてなんだろう?。当時の倭の「南」には何があるのか、何となく疑問である。
2、宇佐神宮は八幡大神(応神天皇)・比売大神(宗像三女神)・神功皇后を祀っていて、二拝四拍手という変わった拝礼方式で有名である。この拝礼は宇佐神宮と出雲大社でだけ行われていて、日本で2箇所だけと聞く。もう片方が国譲りの出雲大社というのも、何かあるのでは?と思ってしまう。神話に絡んだ神社の由来に神功・応神天皇が重なって、何となく疑問である。
3、壬申の乱の舞台は定説通り京都大津なのか、それとも九州熊本なのだろうか、本当の所はどっちなんだろう?。邪馬台国から倭国に連なる我が国の歴史を研究している身にしてみたら、何処かの時点で首都が九州から奈良に移らなければならない。それが日本書紀の書いているような神武東征神話でないことははっきりしている以上、白村江の海戦がキーポイントになって来る。天智天皇は、本当に「岐阜県大津の」近江京に戻っていたんだろうか?
4、天智天皇が称制を取った理由は、世の中の政治的不安定な状況を考えて天皇になるのは時期尚早だと考えたという。だがこれは、誰か「天皇位任命権者」が他にいて、その人間の意思が働いていたから天皇になれなかったのではないだろうか?。他の誰かとは勿論白村江の勝者「唐の将軍」に違いない。では彼にとっての天智天皇とは、意のままに操れる傀儡政権の長なのか、それとも内心を図りきれない危険なレジスタンスのリーダーなのか。定説では天智天皇は親百済ということになっているので唐の将軍と仲が良い「筈はない」と考えるが、実は親百済は倭国であり、天智天皇の側は「朝鮮半島には興味がなかった」とも言える。天智と劉仁願・郭務棕の関係がどうなっているのか、大いに疑問である。
5、天武天皇は壬申の乱に当たり、自身を「漢の武王」に擬えて赤い旗印を用いたという。それは、天智天皇が一時的にせよ倭国の皇位を奪った勢力であり、天武自身は倭国の正当な血脈をつなぐ者だ、ということになるが本当だろうか?。
6、天武天皇の死後、何故か天武の意思とは相容れない方向へ日本が動いているように見える。その主役である持統天皇は、夫が手に入れた倭国の皇統を、自分の出自である日本に戻そうとしているように思えるのだ。さらに藤原不比等という新しい登場人物を加えて、持統のその「遠大な目論見」は上手く行ったのか、あるいはもう一度逆クーデターが起きるのか?。謎は謎を呼んで大ドンデン返しのフィナーレへと突き進む!
7、持統天皇の吉野行きは、亡き天武天皇の思い出にひたるといった歴史家の言う感傷旅行などでは無いと思う。天武天皇の死後の大事な時期に毎月のように吉野に静養に行っていたというのでは、天皇にしては余りにも能天気ではないだろうか。では何のために31回も吉野に出かけて行ったのか?、大いに疑問である。
8、・・・等々(割愛)。
いくつか上げると書いては見たが、疑問点を言い出せば切りがない。
古代史を研究するということは、これらの謎解きを楽しむことである。勿論、日本史の謎は他にもいくらでもある。例えば、明智光秀は何故本能寺で織田信長を討ったのか?、とか、赤穂藩主浅野内匠頭は何故松の廊下で吉良上野介に切りつけたのか?、とか、秀吉は何故千利休を切腹させたのか、とか、謎は歴史につきものである。だが日本史の最大の謎は「日本のルーツ」にある。そもそも日本という国は、何処でどのようにして生まれたのか?
この質問に正確に答えることは日本書紀が撰進されて真実は闇の中に葬られ、今となっては永遠の謎になってしまった。だが、現代の日本に生まれて生きている私達が、その日本国の生い立ちを全く知らずにいて良いものだろうか?。勿論、天照大御神が云々といった「神話」の話で誤魔化されるほど幼稚ではないし、皇紀26百何年前に神武天皇が云々といった「物語」をまともに信じるほどお人好しでもない。私は、自分で納得できるストーリーが知りたいだけである。本当に「永遠に」解くことはできないのか?
答えは「いいえ」である。
正確ではないにしても、「ほぼ、または大体の、あるいは大まかな全体の流れ」にだけ限って言えば、何とか納得できる形での理解は出来ると思う。というか、出来なければいけない、と私は思っているのだ。当時のことを書いた文献も、証拠となる発掘品も、いずれも真実を白日の下に暴くには「余りに数が足りない」のである。物証が出てこない以上、謎を解くカギは「我々の頭の中の理性」しかない。つまり、あえて言うならば、「理性を駆使して謎解きをすること、そこにこそ面白さがある」のである。自分がシャーロック・ホームズになったつもりで、世界中の他の誰にも出来なかった謎を「自ら見事に解いてみせよう」という気概なのだ(随分大きく出た!)。この古代史というジャンルは資料が少なくて謎が深いだけに一層そういう探求意欲を掻き立ててくれ、「ライフワーク」に相応しい壮大なゲームである。
とまあ、興味がない人にはこの面白さは分からないだろうと私は思っている。私のゴルフ仲間のSN氏なども、ブログは見るけど古代史は読まない、と言っていた。仕方ない、私は私の世界で楽しむとしよう・・・
おっと、カッコつけてる場合ではない。本題に戻ろう。
私がいままで考えた筋書きは、こうだった。中臣鎌足が九州王朝の家臣だったという認識は正しいだろう。その鎌足が裏切って天智天皇の腹心の部下になり、死の床で大織冠と藤原姓を賜って「涙して喜んだ逸話」が残されているのを見ると、その天智王朝は反九州王朝である(か、少なくとも中立)。そして、後継者の大友皇子を倒して皇位を簒奪した天武天皇は、九州皇統を継ぐ大王で中興の祖となる筈だった・・・少なくとも高市皇子が生きている間は。つまり古事記が描いたであろう「消された天武紀」に従えば、唐の天命を否定する日出ずる国の倭国復活である。では、何故古事記が廃されて新たに日本書紀が撰進されたのであろうか?。古事記を作るように命令したのは天武天皇である。「削偽定実」を目指したという。それが推古女帝で記述が終わり、いかにも中途半端な歴史書になっている。そしてその代わりに新しい史書日本書紀が撰進されて、以降の日本の歴史を「ほぼ決定し」てしまった。この問題を考えていくためには、藤原不比等および持統天皇という「謎めいた人物」のことを理解する必要がある。
だが、例によって先を急がずに、斎藤忠の本の記述に従って順序よくゆるゆるとこの問題を読み解いてみよう。
○ 大宝律令以前の近江令と飛鳥浄御原令は、実は大和のものではない
続日本紀は、大宝律令について「律令、始めて成る」と書く。平安初期に編纂された弘仁格式では、国が発した律令を近江令・大宝律令・養老律令とし、大化の改新と飛鳥浄御原令については記載がない。つまり、大宝律令以前の令については、キチンとした記録がなされていない。これは九州王朝で発布された令ではないだろうか。公地公民や班田収授・冠位十二階なども九州王朝が全国に配布したので、大和でも施行されたものと思われる。日本書紀の撰進された720年頃には既に、日本国と言えば大和王朝のことだとする意識が相当に支配者層に浸透している可能性があった(と思われる)。
○ 開府儀同三司と太宰府
宋書では、倭の五王の「武」は自分を開府儀同三司に擬していた。開府とは「都督府を開く権限」を現す言葉である。そして都督府が北九州に開かれた(大和王朝では筑紫都督府と言っているが、実は都督府は支配者のいる所である)。武の任じられた都督とは、「都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事征東大将軍」を表す。中国に朝鮮半島の軍事支配権を承認してもらいたかった「倭王武」にとって開府儀同三司という役職は、「倭と朝鮮半島の首都」を九州に置く、という位重要な名前だったろう。都督府は5世紀に作られた。儀同三司を任命する中国南宋の天子が隋に滅ぼされた後は、その上の最高司令官という意味での「太宰」を自称するようになり、その居城を「太宰府」と呼ぶようになったのだ。その大宰府が、何故いつのまにかヤマト王権の出先機関になってしまったのか?
○ 倭国の首都である太宰府の歴史
6世紀半ばには大宰府には瓦葺建築物が聳えていたという。その時期の大和には、瓦葺きの屋根を持つ大掛かりな建築物はまだ出来上がってはいない。7世紀前半の斉明女帝の宮でさえ「飛鳥板蓋宮」というように、板葺きである。また、現在残っている「水城・山城・神籠石」などの場所は、北九州太宰府あたりを中心として取り囲んでいて、まるで外敵から首都を守るように配置されている。何故、肝心の奈良盆地を放ったらかしにして、遠い九州の僻地を守るために大規模な土木工事を行ったのか、北九州が首都でなければ説明がつかないのである。他にも、618年の倭京年号や、京都(みやこ)・大裏・紫宸殿などの地名が九州には残されている。万葉集に太宰府のことを「大君の遠の朝廷(みかど)」と歌った柿本人麻呂がいるが、天皇のいない地方の役所を「朝廷」と呼ぶのは余りにも不自然である。
○ 北九州と奈良、地名がセットで存在する
北九州と奈良の地名が酷似しているという。例えば、笠置山→春日→三笠山→住吉→平群→池田→三井→織田→三輪→雲堤(雲梯)→筑前高田(大和高田)→長谷山→加美→朝倉→久留米(久米)→三瀦(水間)→香山(天の香山)→鷹取山(高取山)→天瀬(天ヶ瀬)→玖珠(国樔)→鳥屋山(鳥見山)→上山田→山田→田原→笠置山、といった具合である(カッコ内は大和)。他にも、那珂、曽我(蘇我)、広瀬、吉野、山門(大和)と、数え上げればきりが無い。地名がこれほど集中して同じ名前になっているのは、住民がそっくり移住してきたことを意味すると考えるのが妥当だ。奈良盆地に大量の人口流入が認められるのは、弥生時代後期初頭と古墳時代初頭それに7世紀後半から8世紀前半、つまり神武東遷時期と新益京(藤原京)の時期であるとされる。特に地名の酷似が見られるのは、太宰府から夜須町の範囲である。これは倭国の中心部と言われる内陸の一帯で、当時の人口密集地である。続日本紀・神亀4年の記事によると、庚午戸籍によれば670年頃に770の村があった。この同じ時期(7世紀後半から8世紀前半)に、北九州の人口が3分の1も減少したとある。天武天皇7年(678年)12月に九州で大地震が発生、大宰府は殆ど壊滅した。これは想像ではあるけれど、それで天子以下富裕層が九州から奈良に避難して首都を移転した、と考えられる。当時の平城京は人口40万人前後、九州から逃れてきた人の数が30万人と想像されるので、ほぼ人数が合致する。つまりは天武天皇末期に、九州から奈良への「人口大移動」があったことになる。ちなみに、各地方から大量に人の流入があって、移り住んだところにその地名が移される傾向は、それが首都圏の場合に一層顕著になると言う。例えば、九州の「宇佐=うさ(総)」は、元々の地名が上総下総に分かれる7世紀後半より「前」に出来た地名だ。一方、奈良盆地には筑前・筑後・豊前・豊後などの地名が見られるので、九州のほうが「古い」首都だと言える。
と、色々な情報がすべて、首都は北九州にあったが、「天武天皇の末期に奈良に移住した」ということを示している(と斎藤忠は考えている)。つまり壬申の乱の時はまだ大宰府が日本の首都だった。白村江で大敗北を喫した倭国は唐の郭務棕の部隊が北九州に進駐してきた時には壊滅状態であり、代わりに無傷の日本国天智天皇が称制を行って恭順の意を示した。倭国の支配は日本国に移ったのである。そして高句麗を滅ぼして朝鮮半島を支配下に置いた唐が、新羅の離反にあって次第に対立を深めていくに従い、日本への圧力よりも協力関係を結ぶ姿勢に変化してきたのを見て、初めて天智は即位したのではないだろうか。この日本の状況の変化は、第二次世界大戦終結後に新たに朝鮮戦争が勃発し、それまでの抑圧された占領下にあった日本が、空前の特需に湧いた歴史と酷似している。そしてこれは想像だが、唐が新羅と戦闘状態になり日本どころではなくなっていくのと同時に、次第に天智天皇は独自路線=唐と距離を置く方向に歩み始めたのではないだろうか。667年暮れに唐使司馬法聡を百済都督府に送った後、天智は晴れて天皇になっている。その頃の唐は度々日本に応援を要請しているようで、671年にも百済駐留軍の劉仁願から使者が来ているが、どうも天智天皇はのらりくらりと断っているようだ。そして671年10月、天智天皇の死を待って天武天皇は壬申の乱、つまり大友皇子に対するクーデターを開始した。天智天皇が倭国を裏切って白村江に参加しなかったために、戦闘で大損害を出し倭国は壊滅した(と斎藤忠は書いている)。では唐から見れば天智天皇は「味方もしくは中立」勢力であり、対立する勢力では無いはずだ。むしろ天武天皇の方が唐からすれば「危険な倭国残党勢力」ではないのか?。その倭国残存勢力が親唐政策の天智政権をクーデターで倒したことについて、唐はどう思っているのだろうか?。壬申の乱と唐の関係が今一よく分からないのである。少なくとも天武天皇はクーデターを起こすにあたって、唐と争わない約束を取り付けていたのではないか、あくまで想像である。671年の11月、唐の捕虜になっていた筑紫君薩夜麻らが郭務棕の軍に連れられて日本に帰ってきた。この倭国の王の帰還が壬申の乱の引き金になったとも考えられる。壬申の乱は単なる国内の皇位争いでは済まないのである。では、唐は何故このタイミングで捕虜の薩夜麻らを送り返してきたのか?。そこが謎である。
少し長くなった。続きは次回に書くとする。
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