西行という歌人は、本当は素人と大差ない凡人なんじゃないか?、という疑問を解明したいと思ったので、岩波書店の「西行全歌集」という文庫本を買った。読み進めて数ページ、早くも「つまらなくてがっかりした」というのが私の感想である。
勿論、作る作品がすべて傑作という歌人は存在しない。あの人間を超えた大天才モーツァルトでさえも「それ程でもない」という作品は少なからずあると思う。しかし西行の場合、単に目の前の風景を書き連ねるだけの、なんの変哲もない単調な説明文ともいうべき詩が「余りにも」多いのである。これは多作だからではなく、詩作の方向性が「単純な自然の描写」だけで終わっているせいではないかと私は思う。
例えば梅の小枝に積もった白雪とウグイスを愛でる歌を読むとする。西行は単に「それを絵画的に」描くだけで、それ以上の「何か」を歌の中や背後に加えるわけではない。ただ、日常の中のふとした一コマを写真にとって、それを素直に SNS にアップしている無邪気な初心者と変わらないのだ。それが奇跡的に取れた自身最高のショットだとしても、所詮はただの自然の写真である。そこには西行の姿はない。
そこにあるべき「作家の感情」であるとか、人間の営みや人生の機微といった「一言では言い表すことの出来ない」諸々の思いなど、あるいは「作家の個性」といったものを含んでいる作品こそ、一級の作品つまり「和歌の真髄」と言えるのじゃないか、と私は考えている。
例えば私が和歌の最高傑作と位置づけている、貞信公の「小倉山 峯の紅葉葉 心あらば〜」や、従二位藤原家隆の「風そよぐ ならの小川の 夕ぐれは〜」などは、景色を詠んでいるようでいて実は「作者の心の動き」が誰にもわかるように表現されていて、なおかつそれが素晴らしく人間味あふれた感情であり、それが社会と季節の中で「見事に場面にマッチしている」作品だからこそ、最高傑作に私は挙げているのだ。つまりは、人生の1場面をそっくり切り取った、まさに「生命の輝き」をそのまま凝縮している稀有な作品だと言えよう。この、まるで作者の肉声が聞こえてくるような臨場感こそ、和歌の精髄だと私は考えている。
つまり、それが単なる説明に終わるのでなく、ストレートにリアルに目の前に迫って来て、あたかも読者が歌の中に引き込まれるかのような感覚になるのが、名作だと言える。では、西行の作品はどうかというと、ほんの数ページを読んだ限りでは、あくまで「説明文の域」を出ていない(と私は思った)。
西行が、心の中の迷いや救いを求める気持ちを風景に託して吐露するのはいつなのか・・・
西行は北面の武士という名誉ある地位を捨てて「仏道修行」の道に入った人である。そこに何等かの「心の葛藤」があったのは確かだろう。そして自然の中に癒しを求め、世間的な栄達を捨てた一修行者として、ただ和歌の世界だけに生きる決心をしたのである(私の解釈)。多分、それを自分の事と共感し得る人は、現代にはいないのじゃないだろうか。これは当時でさえも、突然仏道を目指した理由をはっきりと指摘できた人はいなかったようだ。つまり謎なんである。
例えば彼の傑作「風になびく 富士の煙の 空に消え ・・・」のように彼が何かに迷いつつ、己の心と向き合った素直な感情の吐露を一応は理解出来てはいても、それが「何なのか」というところまでは分からないのが普通である。勿論、西行自身にも分かってはいないからこそ、あのような「なぜ?」という疑問を残す詩になるのだろうと思う。西行の傑作と言われている詩のほとんどは、読み終えた後に「何だか実態はよくわからないが、その西行の心の純粋さ」というもの打たれてしまうのだ。つまり、西行の個性、「西行の人間性」に我々は感動する。
しかしそれは、西行の意図したものではないだろう。西行自身は、素直に感じたままを歌に詠んでいる、と私は信じたい。
そんな西行の詩作が、凡人から一気に究極の感情表現に進化するのはいつなのか。それを知るためには、まだまだ何十頁かを読まなければならない。100作読んで1作良い作品にめぐり合う。そういうペースで全歌集2300首を読み切るためには、しばらくは1日20首ぐらいをダラダラと読んでから「寝る」生活を送るしかないだろう。大変な難行苦行である。読み終わるのは今年末。飽きずに続けることが「私の西行愛」と肝に銘じて、ひたすら読み進めるとしよう。
「嘆けとて 月やはものを 思わする かこち顔なる わが涙かな」・・・こんな歌にめぐり合うのはいつのことやら、まだまだ遠い先の事に思うけど・・・頑張ろう!
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