明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

私の選ぶ新百人一首(14)西行と三夕の歌、おまけで良暹法師

2022-01-09 14:39:20 | 芸術・読書・外国語

まず新古今和歌集に収められている「西行」の歌から解釈してみよう。

◯ 心なき 身にもあわれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮

もちろん、不世出の歌聖・西行の名作である。歌意は、俗世間の垢に塗れた私のような不浄な者にも(つまり、御所北面の武者として戦いの場に臨むのが役目という殺伐とした人間にも、という意味だが)、この静かな、秋霜が辺りを厳しく覆っている沢をねぐらとして生活しているであろう鴫が、物音に驚いて一斉に飛び立った後にまた静けさが戻る日常の風景をみていると、しみじみと「もののあわれ」が心に沁み入って来て、思わず涙がこぼれてしまう・・・といったところだと解釈した。ここには西行お得意の「どうして人生って、こんなに虚しく哀しいのか?」という、彼一流の「永遠のテーマ」が語り尽くされているような「秋の夕暮れ」である。

ポイントは、「心なき身」という自覚と「あわれ」という感覚の「対比」だと思う。「心なき身」に重点を置けば、そういう身の私だが、「それでも」あわれを感じてしまうことよ、となる。鑑賞者には、「心なき身」である西行がクローズアップされるというわけだ。また、「あわれ」に重点を置けば、私のような心無いものをも感動させるこの鴫立つ沢のあわれは、「尋常で無く」素晴らしいなぁ、となるだろう。こちらは「あわれ」がクローズアップされて、風景のしみじみとした美しさが強調されている。どちらも有り得る解釈である。

一般的には、本来は心なき身は何も感じない筈なのに、この鴫立つ沢の夕暮に「限って」はあわれを感じないではいられないと言う意味に取り、この「あわれ」を強調し説明するためにわざと正反対の言葉の「心なき身」が対比されている、と考えられるだろう。解釈としては後者になる。歌の構成から言っても、下の句の「鴫立つ沢〜」に作者の気持ちの重点があると考えて、ほぼ後者で間違いないだろう。

古代において「あわれ」とは、心ある人も心なき人も「皆等しく」感じる事ができるもの、と考えられていたと私は想像している。つまり、人それぞれ心の在りようは違っているけども、「あわれ」というのは「見て、明確に区別できる」と考えられていた。「あわれ」は例えば紅葉などの単なる事象だが、それによって「人は一定の感情・決まった反応」を引き起こされる。枕草子は「あわれ」連発の文学作品だが、その「あわれ」がどういう感情なのかを細かく説明していないところを見ると、当時、世間では「もののあわれは万人共通の感情」だったとのではないか。この歌を分かりやすく書き直すと、「私は心なき身のつまらない人間だけど、この『沢のあわれ』ぐらいは、十分に理解してるよ」となるだろうか。

ただ西行の考えている「心なき身」という自分自身への評価は、現代人の考えている以上に「相当に異常な」、いわば「人でなし」ぐらいの感覚になるのではないだろうか。元々西行は「佐藤義清」という生粋の武士であり、他者と命を賭けて戦うことで生業を得ている「武闘絶対の家」の人間である。それが何かのきっかけでほとほと嫌になって「出家」したと伝えられる人物だ。当然、自分の身は「数多くの戦いを経験することで死穢に触れてしまっている」と考えていても、一向におかしくは無い。例えて言うならば「大阪ビル放火無差別殺人事件の犯人」みたいな、異常な人間を想定しているのかも知れない。そんな荒み切った、もはや人間とも呼べないような「自分にも」、この秋の夕暮の澄み切った沢から飛び立つ鴫の群れの風景を眺めていると、自然の営みの「多様性への限りない優しさや、すべてを包み込んで粛々と時を刻んでゆく雄大さ、尊さ」を感じる事ができるんだなぁ、と感動している歌なのだ。そう言う、自己の人間らしい部分を再発見した「安堵の気持ち」が、行間に見え隠れする歌と解釈することも可能である。流石に西行、単なる風景美を愛でるだけで無いところが、知らず知らずのうちに人間の苦悩を漏らしていて素晴らしい。

なお、この鴫は、鴨でも白鳥でもカラスでも歌の内容には変わりがないが、まあその辺は西行の「歌詠みのセンス」ということで、鴫の持つ「優雅で颯爽とした雰囲気」が、歌自体に絵画的な美しさを加えているのは見事な選択であろう。最後に、ここで言う「あわれ」という語句の解釈は、枕草子の「春は曙」からインスピレーションを得て書いた。つまり、清少納言は夕暮れにカラスが3、4羽連れ立って根倉に帰っていく様を「あわれ」と表現しているので、そこには可哀想という感情は入ってはいない。そもそも古語においては「しみじみとした感情全般」を言うらしく、現代にいう「可哀想」的な感覚とは全然違うと思った方がいいのでは、と私は考えている。少々強めに解釈すれば、「あわれ」とは、自然界の摂理の深奥を体現した「究極の美」を言う、というのが正解なんだろうな。

元々「あわれ」と言うのは、自ずから厳として自然界に備わっている美であった。それを感じられなくしてしまったのは「西行個人の、これまでの荒んだ生活」なんだ、と彼は反省し苦悶している。それが、西行の一連の作品で「通奏低音のように流れている」永遠の歌のテーマだと私は思っている。ところがここ鴫立つ沢の秋の夕暮を見たら、なんと、無くしたはずの感情が「自分にも湧いて来た」事に気がついた・・・。これが「知られけり」と言い切った歌の「万感の思い」の部分だと思う。ここが新古今風の「歌のキモ」であり、幽遠・余情に満ちた詠嘆の感情が、たっぷり表出されている「極上のサビの部分」だ。彼の「小夜の中山」の歌にも使われているテクニックである。

「鴫立つ沢」以下の下の句は、上の句で掻き立てられた「あわれ」をさらに補足し、その内容を倒置法のように「絵画的に脳裏に定着する役目」を果たしている。この構成は、定家の「見渡せば〜」の歌にも用いられていて、和歌に特徴的な「並列・強調のテクニック」ではないか。西行の歌の特性は、一般的なありきたりの感動を「西行個人の切ないロマン性」を通して、ありありと、実直に眼前に映し出すところにある。やはりこの歌のポイントは、「心なき身」という西行に独特の言葉であった。

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以上、三夕の歌を順繰りに解釈してゆくつもりだったが、思わず熱が入ってしまった。少々長くなったので、他の歌は次回に回します。ちなみに他の2つと言うのは

◯ 寂しさは その色としも なかりけり 真木立つ山の 秋の夕暮・・・寂蓮

◯ 見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮・・・藤原定家

そしてオマケで

◯ 寂しさに 宿を立ちいでて 眺むれば 何処も同じ 秋の夕暮・・・良暹

です。それでは次回まで、さようなら。


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