明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

今週の気付き(20)

2020-01-26 15:21:31 | 今日の話題
1、中井学は分かりやすい
今日コインランドリーに行って洗濯している時に、チラッと YouTube で中井学のゴルフレッスンを見てみた。何時もは三觜レッスンを隅から隅まで見てハードな練習をしている私だが、暇つぶしに見た中井学のレッスンは「結構参考になる」って気がついた。ゴルフ素人は三觜レッスンより、中井学の方がレベル的に合っているかも。今回は「何故アイアンを飛ばせないのか」を見たが、とても易しく解説していた。彼によると、右肩を傾けてクラブを振り抜けばダフらずハンドファーストになる、って話だがこれ本当なの?。多分、今までスイング軌道は「上から打ち込むように振るべし」と言われ続けていたので、ついつい余計にダフっていたのかも。クラブは本当は「右上から左前方に振らなきゃ」いけないんじゃないのか。というわけで、本日はまたまた「右肩を下げてスイングする」練習である。右肩を下げてもフェースは開かない、これが出来るかどうか・・・だが。

2、美味しいものは一日一回!
最近はハイボールで手軽にアルコールを摂取したりして、日本酒やワインなど「ウンチクを語る飲み物」はしばらくご無沙汰している。余りアルコールそのものに興味がなくなったと言うこともあるが、日常的に「ハイになることが減ってきた」というのが大きいかなと思う。これは心が「動かなくなっている」証拠であろうか。テレビも段々見なくなって、ふと録画の予約状況を見たりすると、1週間に5つくらいしか予定がないのが当たり前になってきた。これは「テレビ離れしたい」と宣言していたのが現実になったので喜ぶべきことなのかも知れないが、なんか「その代わり」が見つかっていないのが何か寂しい。食事も栄養を考えてバランス良く肉と野菜を同時に摂るように心がけていたら、いつの間にか体重が3kgも増えて70kgをオーバーしてしまった。これは大変だというのでダイエットに取り組んだりしているが、効果は余り出ていない。私は家から外に出ないし、狭い部屋なので殆ど動かないから「摂取カロリーも殆どいらない」のである。なのに「栄養を満遍なく」取ろうと変な考えを起こしたせいで、1年で3kgも太ってしまったわけだ。日常必要なカロリーを大きくオーバーして摂取し続ければ、考えるまでもなく「太る」のは当たり前なのだ。私の場合、太れば即、不健康になる。それで運動をしてカロリー消費することと、食事は消費カロリーに合わせて「補充する」ことを自分に課した。で結果、「美味しいものは一日一回に限定する事」となったのである。今日はコインランドリーに行って重い洗濯物を担いでちょっとカロリーを放出したので、前から何時食べようか考えていたスーパーの冷凍食品「日本製粉の五穀ごはんと野菜を食べるカレー」をチンした。飲み物は同じくスーパーで買った1000円のイタリア産ワイン「モンテプルチアーノ・ダブルッツォ」を取り出して、100円ショップのワイングラスに注いでディナー完成である。何と侘しい食事だと思われるかも知れないが、70過ぎた独り暮らしの男の食事なんて「こんなもの」ではないだろうか。私は食事には「今日何を食べようか」以外には、殆ど興味がない。食べた内容は、1日が過ぎたらすっかり忘れてしまうのだ。要するに、身体を維持する栄養が取れていれば、それで食事は十分である。言うなれば「お寺の高僧の日常」であろうか(まあ、それほどのもんじゃないが)。結局、何にしても運動が大事ということに行き着いた。つまり、「考えるだけで動かなければ、それは生きてるとは言えない」と言う事、これ老人には特に真実のようである。

3、独りカラオケで歌う
脳梗塞の後遺症で嚥下障害と言語障害及び右片麻痺を患った私だが、最近は「歩き」が殆ど正常にまで回復して、手と腕の方も大分動かせてきたのは嬉しい限りである。こうなるまでに5年もかかったわけだが、努力していないのに回復するなんて、人間の回復力は凄いものである。会話も少しずつ喋れるようになってきたので、こうなれば「よし、もう一歩」と気合が入る。最近覚えたのだが、喋るためには口や顎の動きも大事だが、私は特に「舌の動き」が足りないことがわかったのである。なるべく下顎を後ろに引いて、口の中で舌を動かすことにより「ハッキリとした発音」になるようだ。つまり「イーッ」の形である。そして最も大事なのが「言葉を発音している間中、必要なだけ空気を送り続ける」こと。今はまだ一音一音ハッキリと喋ることを練習するべき段階だが、それではあまりに遅くて会話にはならないので、どうしても早口(それでも遅いが)になり、聞き取れなくなるという悪循環になりやすい。どうしても普通の会話をしようとすると仕方ないことだが、やはり毎日の発音練習が大事になってくるのだ。そこで、発声練習を兼ねて「独りカラオケ」ということを思いついた。カラオケでは「声を出す練習」つまり「言葉に合わせて空気を出す」練習が、人目を気にせず出来るのが良い点である。私は昔は肺活量は人並みにはあったが、病気をしてからは運動をしていなくて深呼吸をすることもなく、多分相当に呼吸が浅くなって肺活量も落ちてしまったと思う。それが証拠にちょっと階段を上がると、最後の方にはハーハー息切れすることがしょっちゅうである。それで最近「歌を歌うと肺機能の強化につながる」とテレビでやっていたのを見て、カラオケも案外良いかもと考えついた。幸い友人のSY氏がカラオケ好きなので、今度誘って行ってみようかと思ったりもしている。まあ、歌の趣味は多少違うところもあるようだが、そこは別に歌を聞かせるわけではないから自分勝手に歌っていても構わないだろうと勝手に決め付けている(私は、である)。そこで最近スマホで聞いている曲を改めて思い返してみると、TUNE-IN のジャズ・ボーカルなどを流していることが多く、ナット・キング・コールなんかの「バラードの名曲」をじっくり聴くのが楽しみになっている。ちなみに先程私が聞いていた曲は、ディーン・マーティンの懐かしの大ヒットソング、「Everybody loves somebody sometime」である。思わず口ずさむ魅力いっぱいの名曲で、歌詞もなんとか意味くらいはわかるから口の中でそっと歌いながら歩いていた。こういう歌ならカラオケで歌っても良いかも・・・。

という訳で、私の選んだカラオケで歌ってみたいJポップは次の曲、
10位 平井堅「瞳を閉じて」
 9位 夏川りみ「涙そうそう」
 8位 MISIA「Everything」
 7位 一青窈「ハナミズキ」
 6位 DREAMS COME TRUE「未来予想図Ⅱ」
 5位 いきものがかり「ありがとう」
 4位 尾崎亜美「マイ・ピュア・レディ」
 3位 テレサテン「別れの予感」
 2位 伊勢正三「22才の別れ」
 1位 ユーミン「ひこうき雲」
こんな感じでどうでしょうか。

しかし一言にヒット曲と言ってもめちゃくちゃあるから、ベスト100位にしないと無理だね、ホント。いずれじっくりと YouTube を見ながら、1日かけて「MY Best 100」を選んでみたい。洋楽もあるけど、それは別の機会に選ぶ事にしよう。あいみょんとか米津玄師とか、あんまり馴染みがないのは「世代だから」という事で良しとしよう。アンディ・ウィリアムスの往年の名曲「the Days of Wine & Roses」なんか我々昭和世代には堪らないけど、いかにもちょっと古すぎるかもね。

4、人間の最盛期って何歳だろう
時々ネットで犬や猫の赤ちゃんの動画を見て癒やされるが、動物の様子を見ていると大人に達するまでは犬猫に限らず「ムダなこと」をして一日を過ごしているようである。私はこれを「成長ホルモンの放出現象」と解している。体内で作られたエネルギーが、目標がハッキリ自覚されないまま、ムダに燃焼していく生理現象と考えられるのだ。これは誰でも経験することで、自然と一定のパターンに収束するようである。それで気力・体力の充実した最盛期はやはり、40から50という年代になるのだろうか。人によってはもっと後まで伸びると思うが、一応平均的な運動能力を考慮して「50歳くらい」がピークだろう。音楽を例に取るならば、今のヒットチャートに載るような星野源・あいみょん・米津玄師・official髭男ism・King gnu などは皆、チャカチャカとしたダンサブルなリズムに合わせて歌っている「メロディがない曲」が殆どだ。これは先程の理論から言えば、若い時に見られる「目標のないエネルギーの発散」と分類される。前面に立ってスポットライトを浴びるべく「メロディ担当」が不在の、エネルギーを発散するだけの「バックコーラス」みたいなものなのだ。若い時にこういう曲で育った今の人は、70歳頃になっても相変わらず米津玄師を歌い続けるのだろうか(考えてみれば「うすら寒い」風景ではある)。勿論、歴史上に燦然と輝くポピュラー黄金時代の我々には、「もっとずっしり心に響く楽曲」がそれこそ「山のように」あるのだが、残念な事に彼らには「それが無い」のだ。クラシック音楽がバッハ・モーツァルトからショパンまでで終わってしまったように、ポピュラーミュージックも既に全盛期は終わってしまっていると私は考えている。何にでも始まりと終わりがあるように、音楽もまた過去の文化遺産になってしまった。今の音楽は、アーティストに「自分達の新しい文化を作り出している」という「担い手としての喜び」がないのでは無いだろうか。少なくともモーツァルトにはそれが感じられたし、ビートルズやユーミンにも感じられたのである、それは個人として力量が足りないのでは無い。私が言いたいのは「音楽技法としての発明・発展・完成」が行き詰まっている事である。要するに、芸術は技術と不可分の関係にある。「新しい音」が出て来なければ、「新しい音楽」も作れはしないのである。

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