「都をば 霞とともに立しかど 秋風ぞ吹く白河の関」・・・能因法師
実に都人の旅情を掻き立てる歌である。私が初めてこの歌に出会ったのは、多分高校生の頃ではなかったかと思う。それも文学の時間じゃなく、歴史の時間だったような気が・・・。とにかく和歌の出来よりは、当時の都人の考える陸奥(みちのく)という国のイメージ、北の方にどんどん行った先の最果ての「さらに道の奥」という、もはや言葉も通じない「毛人の国」を題材に詠んだ歌が、都の文化人の間で大変な人気を博した、と説明だったと思う。まあ、平安初期の坂上田村麻呂が二度にわたって蝦夷征討して以来、東北地方はどんどん開発されて最後は北海道、つまり「蝦夷地」まで征服する版図拡大説話の「ついで」に、ポロっと先生が「芸術心を披露」した教師あるある話の一つである。それが妙に耳に残っていた、と言う訳だ。
能因法師は平安時代の中期、一条天皇の御世の永延2年(988年)に生まれ、後冷泉天皇の御世の康平元年(1058年)まで生きた僧侶・歌人である。中古三十六歌仙の一人に数えられているように、小野小町や在原業平などよりも少し後の歌人だったらしい。私はこの歌が当時の宮廷歌人達に熱烈に支持されたというエピソードを聞くと、平安といってもまだ「平和な時代」だったのかな、なんて「感慨深いもの」が感じられる。彼の死後には白河天皇の院政が始まり、権力の集中が頂点に達した。鳥羽天皇と崇徳天皇それに待賢門院藤原璋子の「どろどろの愛憎関係」が、やがて保元平治の乱へと雪崩れ込んでいく醜い権力闘争が勃発するのは、まだまだ先の話である。
とにかく、この能因法師の歌は「良く出来ている歌」だ、というのは認めるにしても、「古今の大傑作」とまで持ち上げるような歌ではないのじゃないか、と私は思っている。歌意は読んで字の如く単純明快で、今年の春頃に都を出たけど、もうこの白河の関では秋風が吹いている、というもの。歌中に「こんなにも(月日の経つほど)遠くに来てしまったなぁ〜」という感慨とともに、己の人生も老年にさしかかり、そんな中で陸奥の白河の関といった最果ての地を旅している我が身を思って、秋風が吹くような「寂しさ」も感じている、とも読めるといえば読めないでもない。その漂白めいた「流浪の気分」が、都の上流貴人のロマンチシズムに火をつけたのであろうか。そこはかとない「哀愁」さえも滲み出てくるように感じられる格調高い調べには、歌の名人達人が目白押しの宮廷でも「やんやの喝采を浴びた」だけのことはありそうだ。
能因法師は、実は白河には行ったことがなく都にいて作ったものらしいのだが、余りにこの歌の出来が良かったので一計を案じ、半年ばかり家にこもって人と会わず、日焼けをして行脚の工作までした上に、さも陸奥旅行から帰ってきた風に偽り、それから満を持して「旅の歌」として発表したらしい。この辺が「歌に命をかけている」殿上人の雰囲気がモロ感じられて、ついついニンマリ微笑ってしまう所である。
白河の関自体は、当時より400年位前の奈良時代に開かれた関で、当時既に関の機能は失われていたそうであるから、能因法師の想像力も相当なものだと言えよう(まあ、行ってないんだから当然と言えば当然だが)。後世、西行や芭蕉が訪れてそれぞれ歌を残しているが、まあまあ歌人には人気の場所だったようだ。
ちなみに西行は「白河の 関屋を月の もる影は 人の心を とむるなりけり」と歌い、芭蕉は「卯の花を かざしに関の 晴着かな」( 曾良)という句を残している。西行のは何となくわかるが、芭蕉のはちょっと意味不明だ。もしかすると私の引用が間違っているのかも。
それにしても、藤原定家が選んだ小倉百人一首に選ばれたのはこの歌ではなく、「あらし吹く み室の山の もみじばは 竜田の川の 錦なりけり」の方だったというのは、定家の歌に対する「美学」が垣間見えて面白い。
私はこの歌の批評としては、特に技巧を凝らしているわけでもなく、定家の時代のように本歌取りの重層構造を持っているわけでもない、都人が田舎に旅行した時の「こんなに遠くまで来たんだなぁ」という素朴な感興を謳った歌、悪く言えば単純な旅気分に浸っただけの作品だ、と言えないでもない。確かに「霞と共に」ということで「春」を表し、今いる場所を「秋」風ぞ吹くと詠んで、半年もかけて旅してきた遠い所、と読者に分からせるあたりは「流石に手慣れた」歌詠みの力量を示している。が、その程度のことなら「年がら年中」歌を詠んでいる数多の宮廷歌人にして見れば「お茶の子サイサイ」朝飯前のことだっただろう。この歌が都の口さがない批評家達に持て囃されたのは、ひとえに「白河の関」という地名の持つ「ロマン」に在ると言える。
都人にとってこの白河というのは、まだ見ぬ未踏の大地への入り口であり、都会で上司の顔色を伺いながら「あくせく」位階を上げるべく身を粉にして働いている境遇からの「タイムスリップ」の扉であったかも(これは私の想像である)。要するに、歌の意味は平凡で出来は中の上だが、「芸術は言葉によるコミュニケーション」という私の芸術論からすれば、トップランクに入る歌だと言える。先ず・・・
① 歌の内容に「紛れる部分が全然無く」て、言葉通りの内容がストレートに伝わっていること。さらに詠み手が「聞き手の置かれている状況」を汲んで、それにきちんと「コミュニケート」している点が素晴らしい。言わば、詠み手と聞き手が同じ席で「会話を楽しんでいる」雰囲気が漂ってくるのである。つまり双方の「意思疎通が出来ている」状態だ。私は、これが全ての芸術の「必要条件」だと考えている。鑑賞者のいない芸術は有り得ない。そういう意味では、何を描いているのか誰にも分からない現代抽象画などは芸術ではない、という事になろうか。
② 歌に込められた「調べ」という点では、表面に現れた芸術性そのものを競う作家の技の見せ所である。そのいくつかを数え上げれば、能因法師が一流の歌人であることが判るのだ。まあ、それ故に「この歌が傑作になる」、そう予感がしたのであろう。
a. 都をば・・・と、濁点で終わる歌い出しがこの歌の調べには「やや粗雑な印象」を与えている。それを受けて、立ちしかど・・・と濁点で上の句を終止しているのは「韻を踏んだ」と私には取れる。これは作歌上の感性だろう。言葉の流れはいかにも自然だが、ここに行き着くには相当な推敲があったやも知れないと推察する。さらに言えば、秋風ぞの「ぞ」も加わって、最終句の「白河の関」の体言止めに集約していく流れは見事である。採点すれば10点満点で10点の高評価だ。
b. 霞とともに・・と秋風ぞ吹く・・・とを対比して、単純な自然現象を示しているにもかかわらず、一瞬にして四季の変化・つまり「時間の経過」を聞き手に分からせる技巧は、単純であるればあるほど「論理の明快さ」が際立って聞こえる。
c. 同時に、都と白河との「環境の対比」は、単に都の華々しい歓楽的生活から人跡未踏の荒野にこれから入ろうというシチュエーションだけでなく、宮廷文化の及ぶ限界の「関、結界」を意識させられて、聞き手は作者のストーリーテラーぶりに引き込まれるのは必至だ。三十一文字という短い文章の中にこれだけの伏線を仕掛けられるというのはある意味、作者自身の感性だけでは説明できないと感じられるのである。普段から訓練を重ねている熟達者だからこその「なせる技」だと感心した。これは当時の並み居る宮廷歌人達も、同じ思いだったろうことは想像に固くない。
d. そして数々の伏線によって巨大なストレスのかかった聞き手の精神状態は、張り詰めた緊張を最後の白河の関という、「ロマンの香り高い旅情のシンボル」にカタルシスを覚え、心の至高の平安を得るのだ。ベートーベンの交響曲で例えるならば、第九の終楽章「合唱」みたいなもんである。それは当時の人々にとって、「歓喜・喝采」だったに違いない。
③ 芸術は、その出来栄えを比較対照して細部の華麗なテクニックを存分に味わい、場の役割・内容が当意即妙で意味が通じればそれで良いと言うわけではない。そこが単なるコミュニケーションと芸術との違いである。送り手が表面的な意味「以外の」奥深い何かを「受け手と共有する」ことで、初めて芸術が成立する。私は、絵画でも音楽でも、その根本は変わらないと思っている。この歌の場合は、そこが今ひとつ「弱い」のだ。だから定家も百人一首には他の作品を選んだのである。だが、人口に膾炙する作品というのは、必ずしも名歌・秀歌というわけではない。作品の芸術性が今ひとつであっても、作品の話題性が爆発的に賞賛されることは、ままあるようである。
さて、この歌を冷静になって批評するとして、聞き手が作者と同じ白河の関に立ち、思えば遠くに来てしまったものだなぁと、遥かに都のことを想ったとする・・・。
その時、能因法師の心に去来したであろう「心奥深く隠されていた感情」は何だったろう?
それはロマン溢れた奥地を独り探検する冒険心だろうか、或いは昔愛した女の面影を訪ねてこの陸奥の最果てにたどり着いた、老いさらばえた貴公子の悔悟の感情かも知れない。はたまた流離の境遇に人生の哀別を味わう敗残者の嘆きを歌ったものかも知れないし、旅を愛する好き者の暇人が能天気に白河までやってきた嬉しさを、都の連中に教えてやろうという自慢話かも知れない。まあ、素直にこの歌を読めば10人のうち10人が、「あいつ白河まで行ったのか、スゲェーなぁ!」という、そこまでやるかという「歌詠みの好き心」に対する賛嘆の気持ちが、リアクションとしては真っ当なところだろうと思う。この歌を発表した後、能因法師は天下の人気者として持て囃され、仲間の宮廷歌人達から「おまえ白河まで行ったんだって?、どんな場所だった?」と、質問攻めにあっただろうことは言うまでもないだろう。白河という土地が、都人にはそれほど人気があったのかと言うと多分、この能因法師の歌が世に出るまでは「それ程知られている訳ではない」普通の地名だったと思われる。だがこの歌によって「一躍有名になり」、西行や芭蕉は言うに及ばず、後世にまで語り継がれる「歌枕」になってしまった。それは私が思うに、この歌が持つ「言葉によるドラマチックな持ち上げ方」だと指摘したい。都人達は白河の関がどんなものかは良くは知らなかったが、これほど高らかに華やかに歌い上げているのだから「きっと素晴らしい風情が漂う場所に違いない!」と皆想像して、感動したのであろう。これこそ、まさに「空の彼方にある理想郷」に憧れるロマンチシズムそのものである。能因法師が作り上げたこの「憧れの理想郷」という歌の1形式を踏襲した作品には、その後まだ色々と探してはいるが(私の探求が足りないのか)まだ見つけるまでには至ってはいない。
さあれ、少なくとも旅を志す人の胸に「響く」和歌としては実に見事な、行く宛のない「旅情」を、無性に掻き立ててくれる名歌と言えよう。そう、この歌は誰しも心の中にある「郷愁にも似た旅情そのもの」を言葉にした名歌だと言えよう!
追記:今回は、一通りの文章を書くのに随分と「考える時間」がかかってしまった。大凡の論旨を固めて書き出しては見たのだが、途中で色々と論理の展開に躓いてしまい、最終的には歌の評価がだいぶ変わってしまった点は、自分でも驚いている。芸術が芸術であるために「必要な原則」という、私独自の理論の展開には「それなりに自信」があるのだが、サラッと読むのには難し過ぎたかなと反省はしている。まあ、他人に分かって貰えるとは安易に考えてはいないが、割と現代における芸術愛好家の批評態度を再考させるだけの「中身」が書けた、と大いに自負している。こういった芸術論というのは人それぞれで構わないとは思うが、私は多分「私の説明が正解だ」と、声を大にして言いたい気持ちである。
というわけで、今回は出来たら「いいね」が沢山集まることを願って筆を置きたい。皆さん、どうぞ「いいね」お願いします!(本気です!)
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