明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

古今集か、新古今集か

2017-10-31 21:30:00 | 芸術・読書・外国語
今年の夏の終わり頃から古今和歌集を読み始めた。平安時代の文化的バイブルであった和歌集であり、古代史を志す者必読の書と言うことで読み出したが、どうも難しい。万葉集は作者の日常的な感情がストレートに描かれていて我々にも分かり易いが古今集はそうではない。つまり作者の日常を描くのではなく、まだ海のものとも山のものともつかぬ「芸術的感興」を必死になって表現しようとしているように見えるのだ。それが我々現代人のストレートな鑑賞を妨げている。

言葉の持つ複合的な意味を面白がる(駄洒落とまでは言わないが)ものも多く、頭で「ああそうか」という程度のオチで納得するだけの歌もあって読むのに苦労するのだが、小松英雄という古典和歌の解釈にかけては当代随一の名人の手にかかると見事な芸術となるから「読む人がよめば」と言うことなのだろう。私なぞはただストレートに読んでるだけであるから、まだまだ古典の優雅な世界を覗くのに四苦八苦である。余りにつまらないので新古今和歌集の方を読もうと、会社の行き帰りのカバンの中身を入れ替えた。

柏から上野までは40分位なので、本を読むのには丁度良い。行きはいつもうたた寝して何も出来ずボーッとしてしまうが、体の調子の上がって来る帰りは眠くもならず(大体座れないので仕方ないのだが)、ようやく4~5ページ読むことが出来た。やはり新古今集ともなると芸術らしくなってきて、一つ一つの歌が深くなっていて「心の動きが目でみる景色や想像の事柄と一体になって」いるのがわかる。和歌の道も進化しているのである。勅撰詩歌集としては8番目なので時代は後鳥羽院まで下がるが、藤原定家という希代のアンソロジーストを得て見事に花開いた貴族文化の精髄を堪能するには唯一無二である。

勅撰和歌集は全部で22あって、新古今のあとには続古今・新続古今と「やっつけ仕事みたいな名前」がズラーッと続く。なんか意気込みも夢も無いようだが22集も続いたことが奇跡である。勅撰というのは時の為政者が公式に撰進させたという訳であるから、各々の天皇は「詩歌」にそれなりの文化的価値を認めていたのである。詩の本家である中国でも、そんな話は余り聞いたことがない。それで調子にのって手元にあった「白氏文集」を読んでみることにした。平安時代の宮廷で「バイブルのように」読まれていた本である。だが最近本を読むことが難しくなってきて、「読む力」が極端に衰えているのがわかる。筋肉が年を取る毎に衰えるように、読書力も落ちてくるのだ。目が悪くなったというのもある。しかしそれ以上に、ぐいぐい読み進むための「未知なるものへの興味」がなかなか湧いてこないのである。

正直こんな話をブログに書いて「誰か読む人がいるのか」とも思うが、これは数少ない私の「本音」である。この「物事への興味」が失われたらその時は、私の精神も朽ち果てる時である。そう考えてじっと答を模索していたら、「共感する」という言葉が浮かんできた。次に挙げる和歌は平安時代の最盛期「一条天皇の時代」に、中宮定子が死ぬ間際に書き残した「一首」である。

  夜もすがら契りしことの忘れじは
   恋ひん涙の色ぞゆかしき

「ゆかしき」とは普段は隠されているので見えないのだが、興味があるので「見てみたいものだ」という意味だという。夫の一条天皇の心を定子の死に際して涙を流すだろう「その涙の色(血の混じった赤い色であろうか)」から読み取ろうとする女心が、切ないまでに伝わってくるではないか。これが「共感」ではないだろうか。もう一つ、私の好きな詩がある。これは三条天皇の作、

  心にもあらで憂き世をながらえば
   恋しかるべき夜半の月かな

である。

本音でもあり自嘲の心でもあるようにも見えるが、「恋しかるべき」とは何という悲しい言葉だろう。「恋しい」と書けば弱々しい恨み節になるところを「恋しかるべき」と書いたことによって「本当は恋しいと書くのべきなのだが」と暗に匂わせ、それすらも手の届かないところにまで落ちてしまった自分を「これほど美しい月を、何と冷めきった目で見ている私なのだろうか」と詠じることで、鑑賞者を「共感の世界」に(本人の意図にはないだろうが)引きずり込んでいく。これは果たして「単なる芸術」と呼べるような単純なものなのだろうか。私が永年ことある毎に言い続けている「奈良移住」の話も、別に奈良に引っ越さなくても知識は得られるではないか、あるいは「年に2、3回旅行すれば、そのうち飽きてくるよ」と言う人がいる。だが、住んで暮らしているなかで風光明媚な景色を愛で、その時々の過去の出来事を思い起こしては魂を揺られ、昔の人々の心の美しさを鑑賞しながらまた新たな発見に打ちのめされる、そんな日々を過ごしてこそ「過去に生きて、過去と共感する事が出来る」のではないだろうか。歌枕とは共感である。だが全国の歌枕をぐるぐる見て回る旅も悪くはないが、それではグルメの旅と変わらなくなってしまう。別に現地に行かなくてもいい、都に住んで「全国各地の歌枕を作品を読んでその気分に浸り、共感する」ことも出来ると思うのだ。しかし共感するには「同じような経験と知識」が身に具わってなければ出来ない。その上で「共感できるかどうか」なのである、道はまだまだ遠い。毎日とてつもない量の本を読み、奈良の空気を住んで実際に呼吸し、二上山に落ちる夕陽を眺め、足の向くままに寺や名所を巡り、四季の移り変わりを片っ端からブログに書きそれで何とか「どうにかなるかな」という遥かな旅路である。ああそれなのに今日もゴルフの練習に行ってアイアンを打ち込んできて、「だいぶ仕上がってきたな」などと嬉しがったりして時間を無駄にしてしまった。こんなんで目標達成出来るのだろうか?

自分で言うのもなんだが、怪しいのである。まあいいじゃないか、「道半ばで逝く」というのが私の理想なんだから。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿