明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

大坂なおみ選手は日本人なのか?

2018-09-10 23:24:44 | スポーツ・ゴルフ
大坂なおみ選手はハーフである。父がハイチ人で母が日本人、外見は日本人らしいとは言えない。もちろん私も時代の流れで人種差別だとか外人排斥の国粋主義だとか文句を言われるのは分かっているが、でもどうしても「日本人が勝った」とは素直に喜べないのである。今の時代は、町で誰か日本人らしからぬ風貌の人を見かけても、実際に会って「どこの国の人ですか?」と聞くまでは「何人か」(つまり何国人か)は分からないのである。逆に言えばどこから見ても日本人の姿なのに「イギリス国籍」ということだって十分ありうる。ケンブリッジ飛鳥(ライオネル飛鳥ではない!)だって、見た目は外人だが正真正銘の日本人だという。つまり大坂なおみ氏の場合は外見にこだわらず「国籍が日本」ということで、日本人初のテニスにおけるメジャー優勝者という「快挙」を成し遂げたのである。

というわけで日本中が「おめでとう」の声で沸き返っているようだが、私はあんまり感心しない。自分が間違っていることは重々承知しているが、心の中で覚える違和感は払拭することは出来そうにないのだ。大坂なおみ氏は日本人だというのなら、我々は日本人の定義を根本から考え直さなければいけない。こういうときこそ政府や学識経験者がはっきり意見をいうべきであるが、この盛り上がりでは滅多なことは言えないであろう。とにかく日本政府はなかなか日本国籍を与えないようで、外人に国籍を与えるにはとても厳しい審査が必要である。しかし大坂なおみ氏がグランドスラムに勝ったというめでたい話となると、こういうときは日本人として名誉を共有することに何のmためらいをも感じないようである。

表彰式の模様を映したニュースでは、多くの観客からブーイングが起こったと報じている。ニューヨークの観客からは大坂なおみは「日本人」と認識されていてアウェーのブーイングが起きているのかと思ったが、セリーナへの罰則減点を宣告した審判へのブーイングだと分かって「アメリカでは国籍は単なるカード情報なんだな」と一安心した。日本人だからどうこういう感情は、アメリカ人は持ち合わせていないらしい。この点は日本人の感覚とはエライ違いである。そもそも大坂なおみ氏はアメリカと日本の二重国籍である。現在の国籍法では「血統主義」と「生国主義」があり、日本は昔は父系血統主義だったのが男女平等になりいまは「父か母が日本人」という形になっている。但し、国内で生まれて「父母が分からない場合」も日本国籍を与えると国籍法にあるから、基本は「日本人から生まれたら日本国籍」という血統主義である(後から取得することも可能)。アメリカのように「生まれた国」がアメリカならアメリカ人というのは、もともとアメリカは「血統主義が成立し得ないごちゃまぜの国」だからで、いわばアメリカは「一つの大家族」のように国民を考えているのだと想像する。

ここまでの情報を頭に入れて、では「血統主義」の本当の意味はどうなのか、考えてみる。

1 血統主義は、どこで生まれても日本人の血が入っていれば日本人という理屈。元はと言えば「DNA」が日本人という意味だったが、だんだん薄れてきている。島国の日本はこれで何の問題もなかったが、ヨーロッパは、ハプスブルク家などの支配を受けて「国家が王の家系」を意味していた時期を経ていて、ユーロとなったいまでは「何人」というのと「何国人」というのが微妙にずれている「多国籍連合国家」である。国籍で言えばスペイン人とフランス人は別であるが、日本における「○○藩」と似たような感覚であろうか。また中国などは紀元前以来元々の中国人は黄河流域などの狭い地域の漢族を意味していて、現在では国民の少なくない割合が非漢族の「典型的多民族国家」である。それで一度争いが勃発すると、いままで緩やかだった民族同士の繋がりが「一気に爆発して」民族紛争になってしまう問題はいまでも国家の最重要課題なのだ。一人の人間が「どこの国に属しているか」というのは、今でも解決できない、とても重いことなのである。

2 国籍を財産権と考えると、土地の所有権が王に属している場合は戦争で奪い合いになる。封建制度が崩壊して国民国家の時代になると、土地は「国民の所有」になった。その土地を外国人が所有するとなるとどうなるのか。基本的に土地は外国に持って行けないから日本の領土のままであるが、小さな島などを購入した場合は「いろいろ問題が出てくる」。例えば小笠原が「イラン人の所有」になって家から畑まで全部「イラン風の景観」に変えられてしまった場合、日本国であるのに「他民族あるいは他国のモノ」みたいな感覚になってくる。そこまで行かなくても「身近な町の一角が〇〇人に占領されたようになった場合」(横浜中華街や新大久保韓国人街など)は、まるで「そこだけ外国に居る」感覚である。もちろん法律は日本国の法律が適用されるが、経済は平等であるから、土地を中心として町全体が栄えていくことは当然外国人が「繁栄する」ことを意味する。ある日を境に隣の土地にガーナ人が住み始めて、いつのまにか町の6割にもなっていて「町の主要語がガーナ語」になるといった事態も、考えられなくはないのだ。最初にガーナ人が日本国籍を取得し、そのガーナ人の両親から「生粋の日本人が生まれ」、孫から曾孫へと家系が増えていった場合、紛れもない日本人の集団だが「見た目もしゃべる言葉もガーナ人」ということが現実に起きえる。

3 その隣のガーナ人達が人柄の良い人で日本の発展にも寄与してくれるとして、果たして我々は彼等を日本人と認めるのだろうか。話す言葉がガーナ語だから日本人とコミュニケーションは取れないし、平安・室町以来の日本文化も「てんで理解してない」人々と、ただ一緒の地域に住んでいるというだけで「日本人だ」というのは、如何にも違和感があるではないか。このようなことは小さな地域では今でも起こっており、またアメリカではカリフォルニアなど南の州で「メキシコ系アメリカ人」が過半数を超えている地域があるという(うわさ)があるほどである。日本も少子化の煽りを受けて、どんどん外人が増えている。勿論、外国人労働者を受け入れるという政策は「賃金の安い単純労働者で、最後は(5年未満で)本国に帰る人」限定の労働力目当ての政策である。だが彼らが全員日本に帰化して、町中が日本国籍を持つ外国人だらけになった時、それはもう「日本」とは言えないのではあるまいか。土地と住民があって、初めて国が出来上がる。その住民が「ヨーロッパ人やアフリカ人や中近東イスラム人」ばかりだったら、もう「日本は消滅」しているのである。

島国の日本が血統主義になるのは歴史的に当たり前である。民族とは「同じ姿・同じ言語・同じ宗教」の集団が、一つの大家族として子孫を増やしていくことで出来上がった意識である。移動手段が制限されていた時代には(日本はその上に鎖国政策をとっていた)、日本国民=日本民族=日本人であった。本来は例えば「白人」という大きな民族集団があり、その中に「コーカサス系」とか「アーリア系」とか「ラテン系」とかがあり、そのまたラテン系のなかに「イタリアとかフランスとかスペイン」という国家に近い「集団」がある。我々日本人は昔から全部一緒くたにして紅毛人と言っているが、要するに見た目の区別で済ましてきたのだ。そう、「外人は見た目で区別する」のが日本人の一般的な認識方法である。外人を区別するには、白人・黒人・東洋人の三種類で用が足りたのだ。その伝統的な区別方法に従えば、大坂なおみ氏は間違いなく「外人」である。実際彼女が素直に「私はアメリカ人です」と言ってくれたなら、これほど騒がれることはなかったし私が違和感を感じることもなく「すんなり応援していた」のである。

では、国際結婚は生まれてくる個人の「生来の民族」という概念を崩した例外的なものなのか?。競馬馬のサラブレッドは血統書が付いているが、それは血統で「走る能力」が違うからである。黒毛和牛は血統を守ることで「上質な肉」を保証する。人間もまた筋力骨格や運動神経の人種的能力差は「ある意味歴然たるものがある」のは経験からもわかる事である。大坂なおみ氏は180cm64kgだそうだが、日本人女性の平均的体力・筋力を「遥かに超えて」いて、ワールドクラスだということは「サービス」の速度を見れば一目瞭然だ。いくら細かい技術に優れていると日本人が自慢したとしても、そんなものは相手にもしない位のレベルの「パワーテニス」で世界の舞台に立っているのである。その圧倒的な筋力と体力と若さでセリーナ・ウィリアムスを破ったのだ。DNA的に言うならば、父親の遺伝子が(全部でないにしても)彼女の「世界一奪取」に貢献したのは言うまでもない。

だから日本人選手が初めてメジャーを取ったとメディアは大騒ぎしているようだが、正確には「父親のハイチ人のDNA」がメジャーを取ったのであって、日本のDNAでは無い。私は、国籍が日本なんだから細かいことにガタガタ言うんじゃないよ!とお叱りを受けることを重々承知で言っているのだが、世間の皆さんは「アフリカの辺鄙な片田舎の名前も知らないような国のDNAを持つ選手が」日本国籍を取得してオリンピックでメダルを取ったら、細かい経緯は不問に付して「日本がメダルを取った」と大喜びするのであろうか。選手個人がメダルを取ったことは称賛されてしかるべきだが、私は「日本が」取ったとは全く思わない」。一方、卓球は日本人選手のDNA(もちろん練習もすごい)が「卓球に向いている」ことは否めないのである。だから卓球で世界を相手に活躍する彼らと、日本人としてそのDNAを共有している我々も「多少は鼻が高い」という理屈もうなづける。でも大坂なおみ氏は小さい頃からアメリカ・フロリダでテニスの練習をしていて、日本で育った話も聞いてないし、母親からのDNA以外は特に日本から何かを「受け継いでいる」ということはないのだ。もちろん日本人らしい謙遜の美徳はそこここに垣間見せるにしても、メジャー奪取の原動力になったとはとても言えない。スポーツでの栄誉は国籍と関係なく、「個人のもの」と考えるべきなのではないだろうか。その意見を尊重するならば、オリンピックのメダルも国で獲得数を競う対象とするのではなく、「個人にこそ与えられるもの」であるべきだ、というのが私の考えである。

と、ここまで取り留めもない思索を続けてきたが、自分の属する民族と同じ種類の民族ではない、と感じることが「違和感」の原点である。逆にDNAが違っても見た目や宗教が違っても、「言語と生活習慣を共有すれば」同じ民族と感じることが出来るのである。これは大まかに言って「生国主義」の考えである。私は「生まれ」よりも「育ち」を重視したほうがより実態に近いのではと思うが、何れにしても「生国主義」の方が大坂なおみ氏の場合は「当たっている」のである。血統主義では、どうしても見た目で他民族だということがわかってしまう。感覚では多民族の人間を「日本に貢献しているから日本人だ」というような変てこりんな理屈にもならない理由で押し通してしまったら、「日本人」というアイデンティティは空中分解するであろう。だがケンブリッジ飛鳥の場合は、大坂なおみ氏の時に感じるような「違和感」が無いのも事実である。

では何故ケンブリッジ飛鳥の場合は「日本人だ」と言えるのに大坂なおみ氏の場合は「日本人で」ないのか。後者では、その人間を日本人だと「認められない何か」があるからなのだ。それは「風貌」が日本人一般とかけ離れているという見た目の理由は、実はそれほどでもなく本当の理由は、その人の生活・行動が日本人と違って「予測出来ない」ことから来る「不安心理」なのである。日本人と生活の行動が一致していれば、見た目が違っていても「日本人として受け入れることが出来る」のだ。その人が過去の日本の長い歴史の上に立って築き上げられて来た生活習慣を身に付けていれば、紅毛碧眼の異人であっても「日本人の一員」になるのではないだろうか。逆に日本人の間に生まれても「ずっと外国で暮らして」いるブラジル開拓農民の2世・3世の人は、すっかり外国の風習に馴染んでしまって「日本人ではなくなる」ということも、十分ありうる。

ようやく答えが見つかったみたいである。私は両親が別々の国籍の場合は登録可能な国籍を取得しておき、22歳でどちらかを選択する現在のシステムに概ね賛成であるが、それは「生国主義」だからである。血統主義にたてば、生まれた時に国籍は決定している。大坂なおみ氏は日本の国籍を選択、米国の国籍は「そのまま放っておく」形のようだ。だが彼女の国籍問題はどうでも良い。私の言いたいことは「日本人がメジャーを取った」と、まるで日本人が試合に勝ったような騒ぎ方をするのは「変だ」ということなのである。日本人が勝ったのではなく、アメリカと日本の二重国籍を持つ「大坂なおみ」が勝ったのだ。大坂なおみ氏は「日本人の代表」ではない。ノルウェーとチュニジアのハーフ対中国とアルゼンチンのハーフがニューヨークでテニスのメジャー決勝を戦ったとしよう。勝ったのは「どこの民族」かなど「全く無意味な情報」でしかない。テレビでよく見る芸能人の中には、日本国籍を有しない「外人」が結構な割合でいるそうである。だが視聴者はそんな事は気にせずテレビを楽しんでいるではないか。国籍は「生国主義」にして、「単なるカード情報」程度に扱えばいいのではなかろうか、勿論「法律が絡めば話は別」であるが。

取り合えず「大坂なおみ氏に関しては、何国人かを余り考えない」のが正しいようだ。

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