こないだ国会図書館への交通費がバカ高いので、通勤沿線で規模の大きい図書館という条件に一致する北千住の足立区立中央図書館へ行ってみた。北千住は勝手知ったる私の旧マンション(今は売り払っている)があった所である。もう何年になるか、駅前はほとんど変わってないみたいで、ここかしこに旧千住宿の古い建物があったりして懐かしい。改めて柏と比較してみると、どうも千住のほうが景色が綺麗で街並みもゴミゴミしてない。柏に引っ越す時に元々住んでいてよく知っている上、会社にも近いという北千住を社長に勧められたが、どうにも一度住んだ町は気が乗らなくて新しい場所に住むことにした。今思うとちょっとこだわり過ぎたなと思う。千住もパッと見、住みやすそうだ。
図書館は4号線沿いの荒川の橋の手前をちょっと入った「学びピア21」という5、6階建てのビルの中にあった。柏とは作りも広さも設備も何もかも、雲泥・天地の差である。これが両者の自治体の差なのか住民の教育に対する希望の程度の差なのか、それにしても東京都と周辺市部の差は、足立区と言えども落差の大きさを痛感した。早速目当ての日本史コーナーに行き、古代を中心に眺め回した。少なくとも柏の本屋よりは多い。以前国会図書館に行った時。蔵書のほとんどを「パソコンの画面で読んでいた」のを思い出したが、この方式を広めれば、日本全国で「一つ電子書籍のソースがあればどこでも読める」のに、何故政府もしくは文部科学省は逐次電子書籍化しようとしないのか、不思議だ。今の原本ありきの図書館では、全国の図書館の数だけ部数が必要になって、お金がいくらあっても足りなくなってしまうのは目に見えている。そして読みたい本が青森にしかなければ、電車に乗って「わざわざ現地まで」行かなければならないのだ!それを宅配サービスとか言って「現地に行かなくても手にとって読めます!」なんて、本末転倒のお手盛りサービスを自慢げにホームページに載せている図書館があるのだから、正直言って「日本のITレベルは、昭和初期を一歩も出ていない」と思った次第である。ショックを通り越してもう「笑うしかない」。この国の官僚は、ただのバカである、まったく。
まぁそういうことを言っても埒が開かないから並んでいる本をサーっと見ると、まあまあ面白そうな本が並んでいた。Amazonの検索には出てこなかったような本もいくつかあったので、天下のAmazonも絶対ではないのだなと妙に感心してしまった。いくつか引っ張り出して頁をめくった中から「阿蘇外輪山と聖徳」という佐藤彰氏の本を持って、読書スペースの椅子に移った。ここでも机と椅子は「入り口の受付で番号札を貰わないと座れない」という。どこまでバカなんだ!。なんでもかんでも規則づくめで、我々人間には席を奪い合わずに譲り合って座るという能力は、生まれ持って来なかったとでも言うつもりなんだろうか、アホくさい。仕方なく鹿十して座っていたが、別になんともなかった事は報告しておく。
この本は邪馬台国の話から始まって聖徳太子まで書き進めているらしく、歴史を「大きな流れで捉える」という私の歴史方法に合致していて、「なになにの謎だとか何とかの正体」だとか、さもわかったような事を書捨てて恥じない三流文士(関なんとかのこと)とは、一味も二味も違う感じである。邪馬台国の地名比定の根拠を理路整然と説明しながらも「私はそうだと思う」と謙虚に言って読者に問いかけるあたりは、実に古代史ファンの心理を巧みに持ち上げていて気持ち良い。さぞかし名前のある歴史家であろうと見たが、家に帰ってネットで調べてみる事にして早速読み始めた。邪馬台国の場所は、種々の理由を上げて「日田地方」に比定している。確かにストーリーを読んでいくと、すんなり納得しそうになるが「そこは保留して」読み進めていく。時間はたっぷりある、早急に結論を出す必要は全然ない、何ちゃって。本を借り出して、家でゆっくり読んでもいいかも。
で、フロアの案内で本を借りたいと申し出たら、足立区に住んでいるか勤めているかでないと貸し出しカードを作れない、と言う。薄々想像はしていたが、またしても面倒くさい規則だ。仕方がない、また出直してくるしかない。だが日本史の棚はそれなりに面白いものがあったので、2、3ヶ月は楽しめそうである。ということで、私の気持ちはある考えに執着していた。それは、「もしかしたら、もう紙の本は買わないで済むかも」しれない、である。
私は長いこと紙の本に慣れ親しんできた。購入した本、とりわけて岩波や角川の文庫本は「本棚4、5列にいっぱいになるほどであった。引っ越しの度に少しずつ捨てたりしていたのだが、結局病気を機に全部廃棄してしまった。もちろん座右とする愛読書とか平安時代の古典など100冊ほどは持ってきたが、蔵書のあらかたは家をとり壊す時に廃棄業者に処分してもらった。本を捨てるなんて、罪作りな事である。もし病気にならずに元気でいたらいつまでも捨てたりせず、一部屋を占領するほどの蔵書の山を「今でも増やし続けていた」事は間違いが無い。だが今は考えが変わって、断捨離ではないけれど「身軽になる事」も大事だなと思うようになってきた。
研究の本のうち古代史の新説で面白そうなものを読んで見る場合はすべて、近隣の図書館で読むことにした。読んで頭で理解したら用が済むので買う必要がない。それで図書館から借り出して読んだら返して終わりである。大事な所はEVERNOTEにでも書き込んでおくと、後から検索したり出来るので便利である。DROPBOXでも良い。どっちにしても図書館で済ませる事で「解決」である。古典や奈良の風物詩などの「読んで心に沁みるもの」は、電子書籍でIPADにでも取り込んでおけば、いつでも好きな時にカバンから取り出して読むことが出来る。しかも検索や辞書やその他色々の機能が使えて、いちいち家に帰って本棚から取り出して頁をめくらなくても「本棚数個分の本が(1000冊くらいかなあ)全部一つのタブレットに入ってしまう」のだ。これは便利この上ない。紙の手触りだの装丁の美しさなどは、この便利さには到底勝てないと確信した。大事な本とか後から何度も読み返す本は、電子書籍でじっくり味わえる環境を整えておきたい。そうすれば引っ越しの時に楽だし、まだ早いが死んだ時にゴミが出ることもない。人に貸したりあげたりする時はちょっと困るが、まあそんなことも今後はなさそうだから、これからはこれで行くことにする。
後はゴルフ雑誌とかのちょいと時間潰しに参考に読んだりするものだが、これは買って、読んだら捨てれば良い。こう考えたら気が楽になった。音楽もスマホに取り込んでもうしばらくになる。本もクラウドにとっておけば、タブレットを切り替える時に便利である。クラウドとSDカードのダブルで保存しておけば、万一という時にも便利である。だがアップルはSDカードが使えないので、やっぱ他の選択肢を考えないといけないな、などと考えながら図書館をあとにした。それにしても北千住の道は整備されていて、柏のゴミゴミ感が全然無いのに驚いた。やっぱり古い宿場町だからか、街並みが雰囲気があって佇まいに味がある。今のアパートが2年で再契約になるので、70歳までの残りの2年は北千住という手もアリだな。それからいよいよ奈良である。夢は大きく、住まいは小さく、である。
図書館は4号線沿いの荒川の橋の手前をちょっと入った「学びピア21」という5、6階建てのビルの中にあった。柏とは作りも広さも設備も何もかも、雲泥・天地の差である。これが両者の自治体の差なのか住民の教育に対する希望の程度の差なのか、それにしても東京都と周辺市部の差は、足立区と言えども落差の大きさを痛感した。早速目当ての日本史コーナーに行き、古代を中心に眺め回した。少なくとも柏の本屋よりは多い。以前国会図書館に行った時。蔵書のほとんどを「パソコンの画面で読んでいた」のを思い出したが、この方式を広めれば、日本全国で「一つ電子書籍のソースがあればどこでも読める」のに、何故政府もしくは文部科学省は逐次電子書籍化しようとしないのか、不思議だ。今の原本ありきの図書館では、全国の図書館の数だけ部数が必要になって、お金がいくらあっても足りなくなってしまうのは目に見えている。そして読みたい本が青森にしかなければ、電車に乗って「わざわざ現地まで」行かなければならないのだ!それを宅配サービスとか言って「現地に行かなくても手にとって読めます!」なんて、本末転倒のお手盛りサービスを自慢げにホームページに載せている図書館があるのだから、正直言って「日本のITレベルは、昭和初期を一歩も出ていない」と思った次第である。ショックを通り越してもう「笑うしかない」。この国の官僚は、ただのバカである、まったく。
まぁそういうことを言っても埒が開かないから並んでいる本をサーっと見ると、まあまあ面白そうな本が並んでいた。Amazonの検索には出てこなかったような本もいくつかあったので、天下のAmazonも絶対ではないのだなと妙に感心してしまった。いくつか引っ張り出して頁をめくった中から「阿蘇外輪山と聖徳」という佐藤彰氏の本を持って、読書スペースの椅子に移った。ここでも机と椅子は「入り口の受付で番号札を貰わないと座れない」という。どこまでバカなんだ!。なんでもかんでも規則づくめで、我々人間には席を奪い合わずに譲り合って座るという能力は、生まれ持って来なかったとでも言うつもりなんだろうか、アホくさい。仕方なく鹿十して座っていたが、別になんともなかった事は報告しておく。
この本は邪馬台国の話から始まって聖徳太子まで書き進めているらしく、歴史を「大きな流れで捉える」という私の歴史方法に合致していて、「なになにの謎だとか何とかの正体」だとか、さもわかったような事を書捨てて恥じない三流文士(関なんとかのこと)とは、一味も二味も違う感じである。邪馬台国の地名比定の根拠を理路整然と説明しながらも「私はそうだと思う」と謙虚に言って読者に問いかけるあたりは、実に古代史ファンの心理を巧みに持ち上げていて気持ち良い。さぞかし名前のある歴史家であろうと見たが、家に帰ってネットで調べてみる事にして早速読み始めた。邪馬台国の場所は、種々の理由を上げて「日田地方」に比定している。確かにストーリーを読んでいくと、すんなり納得しそうになるが「そこは保留して」読み進めていく。時間はたっぷりある、早急に結論を出す必要は全然ない、何ちゃって。本を借り出して、家でゆっくり読んでもいいかも。
で、フロアの案内で本を借りたいと申し出たら、足立区に住んでいるか勤めているかでないと貸し出しカードを作れない、と言う。薄々想像はしていたが、またしても面倒くさい規則だ。仕方がない、また出直してくるしかない。だが日本史の棚はそれなりに面白いものがあったので、2、3ヶ月は楽しめそうである。ということで、私の気持ちはある考えに執着していた。それは、「もしかしたら、もう紙の本は買わないで済むかも」しれない、である。
私は長いこと紙の本に慣れ親しんできた。購入した本、とりわけて岩波や角川の文庫本は「本棚4、5列にいっぱいになるほどであった。引っ越しの度に少しずつ捨てたりしていたのだが、結局病気を機に全部廃棄してしまった。もちろん座右とする愛読書とか平安時代の古典など100冊ほどは持ってきたが、蔵書のあらかたは家をとり壊す時に廃棄業者に処分してもらった。本を捨てるなんて、罪作りな事である。もし病気にならずに元気でいたらいつまでも捨てたりせず、一部屋を占領するほどの蔵書の山を「今でも増やし続けていた」事は間違いが無い。だが今は考えが変わって、断捨離ではないけれど「身軽になる事」も大事だなと思うようになってきた。
研究の本のうち古代史の新説で面白そうなものを読んで見る場合はすべて、近隣の図書館で読むことにした。読んで頭で理解したら用が済むので買う必要がない。それで図書館から借り出して読んだら返して終わりである。大事な所はEVERNOTEにでも書き込んでおくと、後から検索したり出来るので便利である。DROPBOXでも良い。どっちにしても図書館で済ませる事で「解決」である。古典や奈良の風物詩などの「読んで心に沁みるもの」は、電子書籍でIPADにでも取り込んでおけば、いつでも好きな時にカバンから取り出して読むことが出来る。しかも検索や辞書やその他色々の機能が使えて、いちいち家に帰って本棚から取り出して頁をめくらなくても「本棚数個分の本が(1000冊くらいかなあ)全部一つのタブレットに入ってしまう」のだ。これは便利この上ない。紙の手触りだの装丁の美しさなどは、この便利さには到底勝てないと確信した。大事な本とか後から何度も読み返す本は、電子書籍でじっくり味わえる環境を整えておきたい。そうすれば引っ越しの時に楽だし、まだ早いが死んだ時にゴミが出ることもない。人に貸したりあげたりする時はちょっと困るが、まあそんなことも今後はなさそうだから、これからはこれで行くことにする。
後はゴルフ雑誌とかのちょいと時間潰しに参考に読んだりするものだが、これは買って、読んだら捨てれば良い。こう考えたら気が楽になった。音楽もスマホに取り込んでもうしばらくになる。本もクラウドにとっておけば、タブレットを切り替える時に便利である。クラウドとSDカードのダブルで保存しておけば、万一という時にも便利である。だがアップルはSDカードが使えないので、やっぱ他の選択肢を考えないといけないな、などと考えながら図書館をあとにした。それにしても北千住の道は整備されていて、柏のゴミゴミ感が全然無いのに驚いた。やっぱり古い宿場町だからか、街並みが雰囲気があって佇まいに味がある。今のアパートが2年で再契約になるので、70歳までの残りの2年は北千住という手もアリだな。それからいよいよ奈良である。夢は大きく、住まいは小さく、である。
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