日馬富士の傷害事件は、日常的にしょっちゅう殴りあっている職業の相撲取りが「普段やっているようなこと」を傷害として警察に被害届を出したことに端を発している。
毎日ワイドショーで取り上げるほどの事では無い筈なのに、連日微に入り細に入り報道されているのには訳がある。それは日本人が全員思っている「人との接し方」の問題が、この日馬富士の暴行事件の根底にはあるからである。正義感というのは誰にでもある。ヤクザも警察に劣らず正義感が一番大切にされる集団だ。勿論その正義感は一般の人のそれとはいくつかの部分で違ってはいるが、だが正義感というのは相手が反省して悪かった点を謝り改心して更正するか、そうでなければ暴力で上下関係を明らかにして屈服させるか、解決の方法は2つしかない。何で怒りが爆発したかは後で論じるとして、まず傷害事件となった直接の原因である「裂傷を伴う頭蓋骨骨折の疑い」であるが、これについて考えてみたい。
1 相撲取りというのは「言わば暴力で勝敗を決する世界」であり、ルールはあるが、基本的には強いものが偉いヒエラルキーの上で成り立っている。こういう世界で頂点に君臨している横綱が「おしぼりを投げつける」などという程度で叱責するというのは逆にいうと「変であり」、ちょっと考えてもあり得ないことではないだろうか。普通に行動すれば「平手で殴る」というのは、「余程怒りを抑えた行動」と言える。元々激しい稽古で鍛えている彼らからしてみればごく普通のことであり、我々の感覚とは「相当に違う」と思って間違いない。我々が素手で思いっきり殴ったとしても、蚊が止まったぐらいにしか感じないかも知れない、それくらい違うのである。だから近くにあるリモコンを掴んでぶん殴ったというのは、相当怒っていたにしろ「手加減を加えていた」と思っていいのではないだろうか。怪我をさせることが目的ではなく、怒りに任せて殴ったが「力が並外れて強いから」頭を10針も縫う怪我になった、というのが真実だろうと思う。10針というのも「力士に取っては日常茶飯事」かも知れない。だからワイドショーで大いに取り上げている問題は、ここにはない。問題は「日馬富士が怒ったこと」ではなく、相撲協会と貴乃花親方との「確執」だ、と皆知っているからである。相撲の世界は従来から色々と問題が山積していると指摘されているが、ここでは私は部外者なので触れない事とする。では別の問題として「何が日馬富士を怒らせたのか」である。
2 「これからは俺たちの時代だ」と言っているのを聞き付けたかなにかで「日馬富士は貴の岩に対し心証が相当悪かった」というのが一つの伏線である。それで白鵬が話をしているときに「スマホをいじっていた、あるいは電話をしていて」誰からだと問い詰めたら「彼女からだ」と答えた、というのが日馬富士の正義感に火をつけた、というのが真相らしい。これは相手が横綱であろうが誰であろうが、失礼だといわれればそうである。だが、酒の席で一人が話をしているときに聞いている側が何人かいるのであれば、一人ぐらいはスマホで電話することだってあるだろう。「逆鱗に触れる」という程ではないが、元々心証の悪い貴の岩だから「この野郎!」となったのである。
上下関係を重く見る社会というのは、相撲取りであれ一般の会社であれ町内会の役員であれ学校のPTAであれ、何であれ「実態のない名目に価値を置く社会」であり、諸悪の根源である。だが下位の者は経験が浅いために、上位の者に比べて物事の判断が「一般的に正確ではない」ことは確かである。両者が「言葉でもって」議論をしていればこのような問題は減るはずであるが、残念なことに日本の小学校・中学校では「議論の仕方」を教えるカリキュラムが無い。これにはいろんな理由があるだろうが、先生が普段からきちんと「物事の正否を理屈で考える姿勢」で生活していないから「正しく答を出せない」のだろうと私は思っている。一つの疑問に対して「正反対の意見」があった場合、「どちらが正しいか」を言葉の理屈で説明できる先生が、果たしてどれだけいるのだろうか。白鵬の話に対し「横綱の話だから、下位の者は黙って聞く」ということを暗黙のうちに強要されている集団であればスマホをいじったりしないだろうが、実際は貴の岩はそうしなかったのだからそれは「横綱に対して敬意が無い」態度と見られても仕方がないであろう。日馬富士が怒るのも、ある意味当然である。野生の猿の社会よろしく動物一般にある「マウンティング」という行為は、年がら年中起きるこのような上下関係の確認作業の一つであり、権威というものは「無用な争いを無くす」効果が期待できることもあるのだ。おそらく貴の岩は同じモンゴル人同士でもあり「気が緩んだ」のではないだろうか。私にも経験があるが、上下関係は「上位の者」の側にも「下位の者」の側にもそれぞれ別々の原因があり、気の緩みが表に出てしまうことが多いように思うのだ。
「先輩風を吹かす」とか「上から目線で物を言う」とか、往々にして上位の者は「普通に話していても説教臭く」なってしまうものである。これを治すには下位の者が「間違いを議論形式で決着する」ことを続けるしかない。これを相手が上位だからと言って我慢やお追従を言っているとストレスが溜まり、いつか爆発する。だから「議論の仕方」が大事なのである。そして上位の者は自分の意見が間違っていることが議論で明らかになれば、素直に間違いを訂正するべきである。日馬富士の問題は「議論が出来ていなかった」、または「正しい意見が出ても間違いを認めなかった」というより、もともと考える習慣がなかったというのが正しいようだ。そもそも力士はそんなに高い教育を受けているわけではなく、考えるよりは「力で決着する」ことを選んだ人達の集まりが力士である。暴力的指導は日常茶飯事でもある。「間違った行為を正す」という正義感は、その集団によってヤクザのように「命を取り合うこと」もあれば、相撲社会のように「制裁」という形を取る場合もある。ただ上位でも下位でも「その間違った行為」と信じている理論が、常に正しいとは「限らない」のである。だから議論が必要なのである。
他者を尊敬することは大事だが、「尊敬するところが無いのに」敬意を払うのは、どうだろうか。勿論周囲から尊敬されている人にはそれなりに理由ががあり、初めて会う人でも「多分同じように尊敬するであろう」と思われる場合、わざわざ経験するまでもなく「敬意を払うのが当たり前」だと周りが思ってしまうし、当人も便利だから丁重な態度を取る、というのが社会通念である。大企業の社長とか政治家とか宗教家とか、会ったこともない人でも「敬語を使う対象」になっている人達がいる。我々も無意識に使っているが、本当は「上下関係の無いフラットな言葉が一般的に」ならないものかと、いつも思っていた。アメリカやヨーロッパでは「さん付け」社会ではないので気が楽だというけれど、「キリストという絶対者」がいるから「その僕(しもべ)である人間同士には上下がない」という理屈なのである。日本は絶対者が存在しない社会なので、やたらと人間の上下関係がうるさいのであろう。
一番の解決策は「人間そのものに価値の上下をつける」のでなく、「人間の行為に上下をつけ、人間そのものには上下をつけない」ことに尽きるであろう。日頃からこのような姿勢で人と接していれば、無用なトラブルに巻き込まれなくても済むと言える。ただ、そういう上下関係はどこの社会でも「実際には力が無いのに上位になって敬意を払われる立場」にある者たちによって、根強く「大切にされている」のが実情である。下位の者にとっては不愉快には違いないが、議論で明らかにする習慣が日本に根付かない以上は、いつまでも「この悪弊」が治らないであろう。つまり彼等(力が無いのに上位にいるもの)に取っては、何より心強い制度であるから。
日馬富士の問題は相撲で決着がつく問題であるから、どちらが強いかで「正しいことの証明」がなされるであろう。貴の岩にすれば「力は自分の方が上」と思っているかもしれない。だが白鵬とて年齢には勝てない。実際に貴の岩と相撲を取れば、10回に4回は白鵬が負けるかもしれない、いや来年にはそれが10回のうち6回になるかもしれないのである。どんなに強くても、いずれ負ける日が来る。日馬富士もそれはわかっているであろう。だが受け入れるしかないのが相撲取りの世界である。日馬富士は白鵬を尊敬していたのだろう、だから貴の岩の「敬意に欠けた態度」が許せなかったのである。日馬富士の心中を慮れば、白鵬の一の子分として「やるべきことをやった」だけである。悪いことをしたという気持ちはないであろう。それが上下関係社会である。それに反旗をひるがえすものは、明智光秀の例もあるごとく「周りから寄ってたかって潰されてしまう」。その上下関係社会の悪癖を無くそう、というのが貴乃花親方の戦いなのかもしれない。
毎日ワイドショーで取り上げるほどの事では無い筈なのに、連日微に入り細に入り報道されているのには訳がある。それは日本人が全員思っている「人との接し方」の問題が、この日馬富士の暴行事件の根底にはあるからである。正義感というのは誰にでもある。ヤクザも警察に劣らず正義感が一番大切にされる集団だ。勿論その正義感は一般の人のそれとはいくつかの部分で違ってはいるが、だが正義感というのは相手が反省して悪かった点を謝り改心して更正するか、そうでなければ暴力で上下関係を明らかにして屈服させるか、解決の方法は2つしかない。何で怒りが爆発したかは後で論じるとして、まず傷害事件となった直接の原因である「裂傷を伴う頭蓋骨骨折の疑い」であるが、これについて考えてみたい。
1 相撲取りというのは「言わば暴力で勝敗を決する世界」であり、ルールはあるが、基本的には強いものが偉いヒエラルキーの上で成り立っている。こういう世界で頂点に君臨している横綱が「おしぼりを投げつける」などという程度で叱責するというのは逆にいうと「変であり」、ちょっと考えてもあり得ないことではないだろうか。普通に行動すれば「平手で殴る」というのは、「余程怒りを抑えた行動」と言える。元々激しい稽古で鍛えている彼らからしてみればごく普通のことであり、我々の感覚とは「相当に違う」と思って間違いない。我々が素手で思いっきり殴ったとしても、蚊が止まったぐらいにしか感じないかも知れない、それくらい違うのである。だから近くにあるリモコンを掴んでぶん殴ったというのは、相当怒っていたにしろ「手加減を加えていた」と思っていいのではないだろうか。怪我をさせることが目的ではなく、怒りに任せて殴ったが「力が並外れて強いから」頭を10針も縫う怪我になった、というのが真実だろうと思う。10針というのも「力士に取っては日常茶飯事」かも知れない。だからワイドショーで大いに取り上げている問題は、ここにはない。問題は「日馬富士が怒ったこと」ではなく、相撲協会と貴乃花親方との「確執」だ、と皆知っているからである。相撲の世界は従来から色々と問題が山積していると指摘されているが、ここでは私は部外者なので触れない事とする。では別の問題として「何が日馬富士を怒らせたのか」である。
2 「これからは俺たちの時代だ」と言っているのを聞き付けたかなにかで「日馬富士は貴の岩に対し心証が相当悪かった」というのが一つの伏線である。それで白鵬が話をしているときに「スマホをいじっていた、あるいは電話をしていて」誰からだと問い詰めたら「彼女からだ」と答えた、というのが日馬富士の正義感に火をつけた、というのが真相らしい。これは相手が横綱であろうが誰であろうが、失礼だといわれればそうである。だが、酒の席で一人が話をしているときに聞いている側が何人かいるのであれば、一人ぐらいはスマホで電話することだってあるだろう。「逆鱗に触れる」という程ではないが、元々心証の悪い貴の岩だから「この野郎!」となったのである。
上下関係を重く見る社会というのは、相撲取りであれ一般の会社であれ町内会の役員であれ学校のPTAであれ、何であれ「実態のない名目に価値を置く社会」であり、諸悪の根源である。だが下位の者は経験が浅いために、上位の者に比べて物事の判断が「一般的に正確ではない」ことは確かである。両者が「言葉でもって」議論をしていればこのような問題は減るはずであるが、残念なことに日本の小学校・中学校では「議論の仕方」を教えるカリキュラムが無い。これにはいろんな理由があるだろうが、先生が普段からきちんと「物事の正否を理屈で考える姿勢」で生活していないから「正しく答を出せない」のだろうと私は思っている。一つの疑問に対して「正反対の意見」があった場合、「どちらが正しいか」を言葉の理屈で説明できる先生が、果たしてどれだけいるのだろうか。白鵬の話に対し「横綱の話だから、下位の者は黙って聞く」ということを暗黙のうちに強要されている集団であればスマホをいじったりしないだろうが、実際は貴の岩はそうしなかったのだからそれは「横綱に対して敬意が無い」態度と見られても仕方がないであろう。日馬富士が怒るのも、ある意味当然である。野生の猿の社会よろしく動物一般にある「マウンティング」という行為は、年がら年中起きるこのような上下関係の確認作業の一つであり、権威というものは「無用な争いを無くす」効果が期待できることもあるのだ。おそらく貴の岩は同じモンゴル人同士でもあり「気が緩んだ」のではないだろうか。私にも経験があるが、上下関係は「上位の者」の側にも「下位の者」の側にもそれぞれ別々の原因があり、気の緩みが表に出てしまうことが多いように思うのだ。
「先輩風を吹かす」とか「上から目線で物を言う」とか、往々にして上位の者は「普通に話していても説教臭く」なってしまうものである。これを治すには下位の者が「間違いを議論形式で決着する」ことを続けるしかない。これを相手が上位だからと言って我慢やお追従を言っているとストレスが溜まり、いつか爆発する。だから「議論の仕方」が大事なのである。そして上位の者は自分の意見が間違っていることが議論で明らかになれば、素直に間違いを訂正するべきである。日馬富士の問題は「議論が出来ていなかった」、または「正しい意見が出ても間違いを認めなかった」というより、もともと考える習慣がなかったというのが正しいようだ。そもそも力士はそんなに高い教育を受けているわけではなく、考えるよりは「力で決着する」ことを選んだ人達の集まりが力士である。暴力的指導は日常茶飯事でもある。「間違った行為を正す」という正義感は、その集団によってヤクザのように「命を取り合うこと」もあれば、相撲社会のように「制裁」という形を取る場合もある。ただ上位でも下位でも「その間違った行為」と信じている理論が、常に正しいとは「限らない」のである。だから議論が必要なのである。
他者を尊敬することは大事だが、「尊敬するところが無いのに」敬意を払うのは、どうだろうか。勿論周囲から尊敬されている人にはそれなりに理由ががあり、初めて会う人でも「多分同じように尊敬するであろう」と思われる場合、わざわざ経験するまでもなく「敬意を払うのが当たり前」だと周りが思ってしまうし、当人も便利だから丁重な態度を取る、というのが社会通念である。大企業の社長とか政治家とか宗教家とか、会ったこともない人でも「敬語を使う対象」になっている人達がいる。我々も無意識に使っているが、本当は「上下関係の無いフラットな言葉が一般的に」ならないものかと、いつも思っていた。アメリカやヨーロッパでは「さん付け」社会ではないので気が楽だというけれど、「キリストという絶対者」がいるから「その僕(しもべ)である人間同士には上下がない」という理屈なのである。日本は絶対者が存在しない社会なので、やたらと人間の上下関係がうるさいのであろう。
一番の解決策は「人間そのものに価値の上下をつける」のでなく、「人間の行為に上下をつけ、人間そのものには上下をつけない」ことに尽きるであろう。日頃からこのような姿勢で人と接していれば、無用なトラブルに巻き込まれなくても済むと言える。ただ、そういう上下関係はどこの社会でも「実際には力が無いのに上位になって敬意を払われる立場」にある者たちによって、根強く「大切にされている」のが実情である。下位の者にとっては不愉快には違いないが、議論で明らかにする習慣が日本に根付かない以上は、いつまでも「この悪弊」が治らないであろう。つまり彼等(力が無いのに上位にいるもの)に取っては、何より心強い制度であるから。
日馬富士の問題は相撲で決着がつく問題であるから、どちらが強いかで「正しいことの証明」がなされるであろう。貴の岩にすれば「力は自分の方が上」と思っているかもしれない。だが白鵬とて年齢には勝てない。実際に貴の岩と相撲を取れば、10回に4回は白鵬が負けるかもしれない、いや来年にはそれが10回のうち6回になるかもしれないのである。どんなに強くても、いずれ負ける日が来る。日馬富士もそれはわかっているであろう。だが受け入れるしかないのが相撲取りの世界である。日馬富士は白鵬を尊敬していたのだろう、だから貴の岩の「敬意に欠けた態度」が許せなかったのである。日馬富士の心中を慮れば、白鵬の一の子分として「やるべきことをやった」だけである。悪いことをしたという気持ちはないであろう。それが上下関係社会である。それに反旗をひるがえすものは、明智光秀の例もあるごとく「周りから寄ってたかって潰されてしまう」。その上下関係社会の悪癖を無くそう、というのが貴乃花親方の戦いなのかもしれない。
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