March,1980
Alvin Toffler, The Third Wave, William Morrow, New York, 1980
第三の波 昭和55年10月1日 第1刷発行 アルビン・トフラー著 徳山二郎 監修
鈴木建次 菅間 昭 桜井元雄 小林千鶴子 小林昭美 上田千秋 野水瑞穂 安藤都紫雄 訳
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第九章 産業的現実像(インダスト・リアリティ)(2-2)
現実像の本質
第二の波の文明は、新しい時間像と空間像を打ち立て、それによって、われわれの日常の行動を規定したにとどまらず、人類積年の問いに対する、独自の解答を組み立てた。物はなにから成り立っているのか。この疑問に解答を与えようとして、あらゆる文化は、それぞれ独自の神話や比喩を生み出してきた。ある文化にとって、宇宙はあらゆるものを巻き込む「統一体(ワンネス)」だと考えられている。そこでは、人間は自然の一部とみなされ、祖先や子孫の生活と不可分に連帯し、動物や樹木、岩石、河川にまで自分たちと同じ「生気」を感じ取るほど、自然界にとけ込んで生活している。また、多くの社会で、個人は、自分を一個の独立した存在としてではなく、むしろ、家族、氏族、部族あるいは地域社会といった、もっと大きな、有機的組織体に属する存在としてとらえている。
また、別の社会では、宇宙の全体性あるいは一体性ではなくて、宇宙がいくつもの要素に分類できるという面を強調してきた。現実を、ひとつに融合した存在としてではなく、多くの個別の部分から組み立てられた構成体と考えてきたのである。
産業主義が出現するおよそ2000年前、デモクリトスは、当時としては驚異的な説を発表した。宇宙は縫い目のない完全な単一体ではなく、微分子から成り、その微分子はおのおの別個で、それ以上破壊できない、不可変、不可分の微小物体だ、と言うのである。かれはこの微小物体を「原子(アトモス)」と名づけた。そののち何世紀もの間、不可変の微小物体が集まって宇宙を構成するという宇宙観は、消長の歴史をたどる。中国では、デモクリトスの時代からわずかにおくれてまとめられた『墨子』のなかで、「点」をはっきり定義して、これ以上分割できない、短い一片に切断された線、としている。インドでも、原子、すなわち不可変の現実を構成する単位という考え方が、西暦紀元後ほどなく、忽然と起こっている。古代ローマの詩人ルクレチウスは、原子論の哲学をきめ細かに展開した。しかし、こうした物質像は召集意見の域を出ず、往々にして嘲笑を浴びるか無視された。
第二の波の時代が幕を開け、さまざまな主張が入り混じった思想の流れが、何本も合流してわれわれの物質観を変革すると、ようやく原子論は支配的な思想に成長した。
17世紀半ば、フランス人神父でコレージュ・ド・フランスの前身パリ王立学院の天文学者であり哲学者でもあったピエール・ガッサンディは、物質は「超微粒子」によって構成されていると主張した。ルクレチウスに影響を受けたガッサンディは、原始的物質観のきわめて有力な擁護者となり、その思想はまもなくイギリス海峡を渡って、気体の圧縮性を研究していた若い科学者ロバート・ボイルの知るところとなった。ボイルは、この原子論を観念の領域から実験室に移し、空気さえも微粒子によって構成されている、という結論をくだした。ガッサンディの死から6年後、ボイルは論文を発表して、いかなる物質も、・・たとえば土と言えども・・より単純な物質に分解できるかぎり元素ではありえない、と論じた。
一方、イエズス会で教育を受けた数学者ルネ・デカルトは、ガッサンディに批判されたこともあったが、現実を理解するためには、それをより小さな部分に分解していくよりほかはない、と主張した。かれ自身の言葉によれば、「検討中の難問はひとつひとつ、可能なかぎり、多数の部分に分割すること」が、それを解くために必須だと言う。第二の波が高まると、物質についての原子論に並行して、哲学的原子論が発達したのである。
こうして「統一体」という概念に対して、つぎつぎに反論が加えられた。この攻撃には、たちまち科学者や数学者、哲学者が参加し、かれらは宇宙をさらに小さな断片に分割し続け、画期的な成果を上げた。
デカルトが『方法叙説』を発表すると、「ただちにそれを医学に応用することによって、無数の発見がなされた」と微生物学者ルネ・デュポスは書いている。原子論とデカルトの原子論的方法論の結合は、化学そのほかの分野に驚くべき進歩をもたらした。1700年半ばには、宇宙を独立の部分から部分へと、どんどん分割していくことができるという概念は、常識となっていた。それは、形成されつつあった産業的現実像の一部となったのである。
新しい文明が発生する時には、常に、過去から思想が抽出し、それを再構築して、周囲の世界との関連においてみずからの特質を明確にしようとする。ばらばらの部品を寄せ集めて、機械製品の量産体制にまさに移行しはじめたばかりの、萌芽期の産業社会にとって、宇宙を個別の構成要素から成る集合体であるとする考え方は、おそらく表裏一体のものだったにちがいない。
現実に対する原子論的解釈が受け入れられた背景には、政治的ならびに社会的理由もあった。第二の波は、第一の波に属する既存の旧体制に激突した時、人びとを拡大家族、全能の教会、君主政体から力づくでも解放しなければならなかった。産業資本主義は、個人主義を擁護するための論拠を求めていたのである。古い農業文明が凋落し、産業主義の夜明けを待つ一、二世紀の間に、商業活動が拡大し都市の数が増すと、新興の商人階級は取り引きや融資、師情拡大の自由を求めて、新たな個人観を打ち出した。原子として、ひとりひとりの人間が集まって、はじめて社会が成立するという考え方である。
人間はもはや部族、カースト、氏族の受動的な従属物ではなく、自由かつ自立的な個人であった。各個人は、財産を私有し、商品を買い、自分の思うままにどんどん事を運び、本人の積極的努力いかんによって金持ちにもなれば飢えもする権利を持つことになった。これに呼応して、宗教の選択、個人的幸福の追求という権利も手にした。要するに、産業的現実像は、原子に酷似する個人、つまり社会の基本的構成要素として、それ以上細分化できない、構成単位としての個人という考え方を生み出したのである。
すでに見たように、原子論は政治の世界にもあらわれ、そこでは、投票が最小の構成要素になった。また、国際社会を考えてみても、それが、自己充足的な不可侵の、独立した国家と呼ばれる単位から成り立っているととらえるとき、同じ原子論が姿を見せていた。つまり、物質的問題にかぎらず、社会的、政治的な問題も、ちょうど、れんがを積み重ねていくように自立的な単位、つまり原子から成り立っていると考えられるようになったのである。原子論は生活のあらゆる領域に浸透した。
現実がばらばらな個別の単位を組織化することによって成立するという概念は、また、新しい時間像にも空間像にも完全に適合した。時間と空間そのものが、次第に細かく分割され、定義づけられることの可能な単位に分割できると考えられるようになっていたからである。こうして第二の波の文明は勢力を拡大し、いわゆる「未開」社会と第一の波の文明の双方を制圧し、同時に、論理性、首尾一貫性を次第に強化しつつ、人間や政治、社会に対する、この産業主義的概念を世の中にひろめていった。
しかし、この論理体系を完成するためには、さらにひとつ、最後の問題が残っていた。
窮極の“なぜ”
なぜさまざまな事象は起こるのか。文明にはこの「なぜ」に対して、なんらかの説明が必要である。たとえ分析が1割で残りの9割が謎のままであったとしても、なんらかの説明を容易しないかぎり、その文明は効果的な生活のプログラムを用意することはできない。文化的要請にしたがって行動を起こすにあたって、人間は自分の行為が「結果」を生むのだという、なんらかの確信を必要とする。そして、そのことがひいては、人類積年の「なぜ」に対して、ある種の解答を意味することになる。第二の波の文明は、すべてを説明できるかに見える、強力な理論を武器に登場した。
池のおもてに石が投ぜられる、波紋が速やかに水面に広がる。なぜか。なにがこの現象をひき起こすのか。産業時代の子らなら、たぶん、こう答えるであろう。「だれかが石を投げたからさ」と。
この問題に解答を試みるとして、それが12,3世紀のヨーロッパの学識豊かな紳士であれば、われわれとは著しく異なる考え方をしたであろう。彼はおそらくアリストテレスの運動の四原因という考え方によって、質料因、形相因、動力因、目的因を求めたであろう。しかし、四原因のいずれも、それ自体では何事も説明できなかったのである。また、中世の中国の賢者であれば、陰陽を語り、神秘的な力の相互作用について語ったであろう。かれらはそれによって、あらゆる現象を説明できると信じていたのである。
第二の波の文明は、因果の謎に対する解答を、ニュートンの画期的な発見である万有引力の法則に見出した。ニュートンにとって原因とは、「運動を起こす物体に加えられる力」であった。ニュートン的因果論を説明する例としてよく挙げられるのが、つぎつぎに衝突してはそれに反応して運動するビリアードの球である。計測可能で、直ちに確認しうる外的力だけに注目したこの変化の概念は、時間と空間を直線的にとらえる新しい産業的現実像に完全に合致するところから、きわめて有力になった。事実、ニュートン的、力学的因果論は、産業革命がヨーロッパ全土にひろがるとともに受け入れられていき、それにつれて産業的現実像も、完全に確立したのである。
もし世界がビリアードの球のミニチュアのような個別の微粒子から成り立っているとすれば、あらゆる原因は、これらの球の相互作用から生じることになる。ひとつの微粒子、つまり原子が第二の原子にぶつかる。第一の原子が第二の原子の運動の原因になり、第二の原子の動きは第一の原子の運動の結果であった。空間には運動のない行為は存在しなかったし、原子は同時にひとつ以上の場所には存在しえなかった。
複雑で雑然とした予測不能の世界、過密で神秘的で混沌とした宇宙が、にわかに整然と秩序正しい姿を見せはじめた。人間の細胞中の原子から、はるかな夜空に凍てついた星に至るまで、あらゆる現象が、運動する物質として理解されるようになった。各微粒子が隣接する微粒子を活性化させ、それを動かして永遠の生命の踊りを躍らせている、と解釈されるようになったのである。この思想は、のちにラプラスが主張したように、神という仮説を必要とせずに、無神論者が生命を説明することを可能にした。しかし、信仰深い人にとっては、依然として神の座は残されていた。神を最初に動きを起こしたものと考えることができたからである。つまり、神は最初に撞球棒で球を突いてから、おそらくゲームを降りてしまったのだ、と考えることができたわけである。
現実に関するこの比喩は、興隆期にあった産業主義の文化に対して、知的アドレナリン注射のような役割を果たした。フランス革命の土壌をつくりあげるのに力のあった急進的哲学者のひとり、ドルバック男爵は意気軒昂として言い放った。「この世に存在するもろもろの大集合である宇宙は、物質と運動以外のなにものでもない。われわれがその全体を熟視する時、すべては原因と結果の、限りない不断の連続にほかならないことがはっきりする。
この言葉が、すべてを物語っている。すべてがこの短い、勝利感に満ちた言葉に含まれている。すなわち、宇宙とは、ひとつの「集合体」にまとめあげられた個別の部分から成り、組み立てられたひとつの現実だ、という考え方である。物質は、運動すなわち空間における移動という観点からのみ理解された。事象は直線的に連続して起こり、過去から現在、現在から未来へと、時間の直線の上に並んでいく。ドルバックによれば、憎悪、利己心、愛など、人間の情念もまた反発力、慣性、静止摩擦のような物理的な力にたとえられ、ちょうど科学が物理的な力を公益のためにうまく利用するように、賢明な国家は、それらの人間的情念を大衆の福利のために操作することができる、と言うのである。
この産業社会の現実をふまえた宇宙像から、そしてそこに内蔵されたさまざまな仮説から、われわれを動かすもっとも強い私的行動様式、社会的、政治的行動様式が生まれた。そこには、宇宙や自然にかぎらず、社会や人間もある一定の予測可能な法則に従って行動するという、無言の前提が隠されている。たしかに、第二の波の思想家としてもっとも偉大と目される人びとは、もっとも首尾一貫して、強力に宇宙の法則性を論じた人びとであった。
ニュートンは、天体の運行プログラムを説明する法則を発見したかに見えた。ダーウィンは、社会的進化のプログラムをも説明することになる法則を発見した。そして、フロイトは心理の動きのプログラムを説明する法則を探りあてたかに見えた。ほかにも大勢の学者、技術者、社会科学者、心理学者が、こうした分野、あるいはまったく別な分野の法則をつぎつぎに追い求めた。
第二の波の文明は、いまや奇跡的と言ってよいほど強力で、幅広い応用性を持った因果論を、意のままに駆使するにいたった。それまで複雑に見えていたものも、多くは簡単な公式に還元して説明することが可能になった。こうした法則ないし通則は、ニュートンにしろマルクスにしろ、名のとおっただれかれが法則を定めたというだけで受け入れられたわけではない。実験や経験的テストがくりかえされ、そのうえで、妥当性が実証されたのである。こうした法則にしたがって動くことにより、橋を架け、空中に電波を送り出すこともできたし、生物学的変化を予知することもできた。経済を動かし、政治運動や政治機構を組織し、さらに、個人という究極的固体の行動まで、予測、形象化することが可能であると言われた。
必要とされたのは、いかなる現象をも説明できる方程式の変数を発見することだけであった。もし格好の「ビリアードの球」を見出し、それをもっとも適切な角度から打つことさえできれば、不可能なことはなにもなかった。
この新しい因果論は、新しい時間像、空間像、物質像と結びつくことによって、人類の大多数を、古い偶像の圧政から解き放った。それは、科学や技術の分野において輝かしい偉業をなしとげることを可能にするとともに、すべてをはっきりした概念でとらえ、実践上でも多くの業績を挙げるという、奇跡とも言うべき成果をもたらした。権威主義に挑戦し、人間の精神を幾千年にもわたる拘禁状態から解放したのである。
だが、産業的現実像もまた、みずからの新しい桎梏を生んだ。数量化できないものを蔑視するか、さもなければ無視し、しばしば分析の厳密のみを重視して、想像力をしりぞける産業主義的精神構造がそれで、人間をあまりに単純化し、原形質から成る個体としか考えず、いかなる問題に対しても、最終的には技術的解決しか求めようとしなくなった。
産業的現実像はまた、一見道徳的中立を装っていたが、実際にはそうではなかった。すでに見たように、それは第二の波の文明の好戦的スーパー・イデオロギーであり、自己を正当化する論拠であった。産業時代特有のイデオロギーは、左翼思想であれ右翼思想であれ、一様にそこから派生している。ほかの文化の場合も同じではあるが、第二の波の文明も歪んだフィルターをつくりあげ、この文明に属する人びとは、そのフィルターをとおして自分自身や宇宙を見ることになった。このフィルターをとおした一連の思想、観念、仮説、そしてそこから生まれたさまざまな類推が、歴史上かつてないほど強力な文化体系を形成したのである。
最終的に、産業主義の文化的側面とも言うべき産業的現実像は、みずからが建設の一翼を担った社会に適合した。それは資本主義社会、社会主義社会の別なく、大組織、大都市、中央集権的官僚制、すべてを巻き込む市場から成る社会をつくりあげる推進力となった。産業的現実像は、新しいエネルギー体系、家族体系、科学技術体系、経済体系、政治体系、価値体系と非常に密接なつながりを持ち、それらと手をたずさえて第二の波の文明を形成したのである。
第二の波に代わって第三の波が地球上をあまねくうねりはじめた現在、急激な変化のもとに崩壊しようとしているのは、この文明のすべてである。制度も、科学技術も、文化も含めて、この文明がそっくり崩壊しようとしているのだ。われわれは、もはや逆転することのない、産業主義の決定的危機のなかで生きている。そして、産業化時代が歴史のなかに組み込まれてしまうとき、新しい時代が誕生することになる。
Alvin Toffler, The Third Wave, William Morrow, New York, 1980
第三の波 昭和55年10月1日 第1刷発行 アルビン・トフラー著 徳山二郎 監修
鈴木建次 菅間 昭 桜井元雄 小林千鶴子 小林昭美 上田千秋 野水瑞穂 安藤都紫雄 訳
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第九章 産業的現実像(インダスト・リアリティ)(2-2)
現実像の本質
第二の波の文明は、新しい時間像と空間像を打ち立て、それによって、われわれの日常の行動を規定したにとどまらず、人類積年の問いに対する、独自の解答を組み立てた。物はなにから成り立っているのか。この疑問に解答を与えようとして、あらゆる文化は、それぞれ独自の神話や比喩を生み出してきた。ある文化にとって、宇宙はあらゆるものを巻き込む「統一体(ワンネス)」だと考えられている。そこでは、人間は自然の一部とみなされ、祖先や子孫の生活と不可分に連帯し、動物や樹木、岩石、河川にまで自分たちと同じ「生気」を感じ取るほど、自然界にとけ込んで生活している。また、多くの社会で、個人は、自分を一個の独立した存在としてではなく、むしろ、家族、氏族、部族あるいは地域社会といった、もっと大きな、有機的組織体に属する存在としてとらえている。
また、別の社会では、宇宙の全体性あるいは一体性ではなくて、宇宙がいくつもの要素に分類できるという面を強調してきた。現実を、ひとつに融合した存在としてではなく、多くの個別の部分から組み立てられた構成体と考えてきたのである。
産業主義が出現するおよそ2000年前、デモクリトスは、当時としては驚異的な説を発表した。宇宙は縫い目のない完全な単一体ではなく、微分子から成り、その微分子はおのおの別個で、それ以上破壊できない、不可変、不可分の微小物体だ、と言うのである。かれはこの微小物体を「原子(アトモス)」と名づけた。そののち何世紀もの間、不可変の微小物体が集まって宇宙を構成するという宇宙観は、消長の歴史をたどる。中国では、デモクリトスの時代からわずかにおくれてまとめられた『墨子』のなかで、「点」をはっきり定義して、これ以上分割できない、短い一片に切断された線、としている。インドでも、原子、すなわち不可変の現実を構成する単位という考え方が、西暦紀元後ほどなく、忽然と起こっている。古代ローマの詩人ルクレチウスは、原子論の哲学をきめ細かに展開した。しかし、こうした物質像は召集意見の域を出ず、往々にして嘲笑を浴びるか無視された。
第二の波の時代が幕を開け、さまざまな主張が入り混じった思想の流れが、何本も合流してわれわれの物質観を変革すると、ようやく原子論は支配的な思想に成長した。
17世紀半ば、フランス人神父でコレージュ・ド・フランスの前身パリ王立学院の天文学者であり哲学者でもあったピエール・ガッサンディは、物質は「超微粒子」によって構成されていると主張した。ルクレチウスに影響を受けたガッサンディは、原始的物質観のきわめて有力な擁護者となり、その思想はまもなくイギリス海峡を渡って、気体の圧縮性を研究していた若い科学者ロバート・ボイルの知るところとなった。ボイルは、この原子論を観念の領域から実験室に移し、空気さえも微粒子によって構成されている、という結論をくだした。ガッサンディの死から6年後、ボイルは論文を発表して、いかなる物質も、・・たとえば土と言えども・・より単純な物質に分解できるかぎり元素ではありえない、と論じた。
一方、イエズス会で教育を受けた数学者ルネ・デカルトは、ガッサンディに批判されたこともあったが、現実を理解するためには、それをより小さな部分に分解していくよりほかはない、と主張した。かれ自身の言葉によれば、「検討中の難問はひとつひとつ、可能なかぎり、多数の部分に分割すること」が、それを解くために必須だと言う。第二の波が高まると、物質についての原子論に並行して、哲学的原子論が発達したのである。
こうして「統一体」という概念に対して、つぎつぎに反論が加えられた。この攻撃には、たちまち科学者や数学者、哲学者が参加し、かれらは宇宙をさらに小さな断片に分割し続け、画期的な成果を上げた。
デカルトが『方法叙説』を発表すると、「ただちにそれを医学に応用することによって、無数の発見がなされた」と微生物学者ルネ・デュポスは書いている。原子論とデカルトの原子論的方法論の結合は、化学そのほかの分野に驚くべき進歩をもたらした。1700年半ばには、宇宙を独立の部分から部分へと、どんどん分割していくことができるという概念は、常識となっていた。それは、形成されつつあった産業的現実像の一部となったのである。
新しい文明が発生する時には、常に、過去から思想が抽出し、それを再構築して、周囲の世界との関連においてみずからの特質を明確にしようとする。ばらばらの部品を寄せ集めて、機械製品の量産体制にまさに移行しはじめたばかりの、萌芽期の産業社会にとって、宇宙を個別の構成要素から成る集合体であるとする考え方は、おそらく表裏一体のものだったにちがいない。
現実に対する原子論的解釈が受け入れられた背景には、政治的ならびに社会的理由もあった。第二の波は、第一の波に属する既存の旧体制に激突した時、人びとを拡大家族、全能の教会、君主政体から力づくでも解放しなければならなかった。産業資本主義は、個人主義を擁護するための論拠を求めていたのである。古い農業文明が凋落し、産業主義の夜明けを待つ一、二世紀の間に、商業活動が拡大し都市の数が増すと、新興の商人階級は取り引きや融資、師情拡大の自由を求めて、新たな個人観を打ち出した。原子として、ひとりひとりの人間が集まって、はじめて社会が成立するという考え方である。
人間はもはや部族、カースト、氏族の受動的な従属物ではなく、自由かつ自立的な個人であった。各個人は、財産を私有し、商品を買い、自分の思うままにどんどん事を運び、本人の積極的努力いかんによって金持ちにもなれば飢えもする権利を持つことになった。これに呼応して、宗教の選択、個人的幸福の追求という権利も手にした。要するに、産業的現実像は、原子に酷似する個人、つまり社会の基本的構成要素として、それ以上細分化できない、構成単位としての個人という考え方を生み出したのである。
すでに見たように、原子論は政治の世界にもあらわれ、そこでは、投票が最小の構成要素になった。また、国際社会を考えてみても、それが、自己充足的な不可侵の、独立した国家と呼ばれる単位から成り立っているととらえるとき、同じ原子論が姿を見せていた。つまり、物質的問題にかぎらず、社会的、政治的な問題も、ちょうど、れんがを積み重ねていくように自立的な単位、つまり原子から成り立っていると考えられるようになったのである。原子論は生活のあらゆる領域に浸透した。
現実がばらばらな個別の単位を組織化することによって成立するという概念は、また、新しい時間像にも空間像にも完全に適合した。時間と空間そのものが、次第に細かく分割され、定義づけられることの可能な単位に分割できると考えられるようになっていたからである。こうして第二の波の文明は勢力を拡大し、いわゆる「未開」社会と第一の波の文明の双方を制圧し、同時に、論理性、首尾一貫性を次第に強化しつつ、人間や政治、社会に対する、この産業主義的概念を世の中にひろめていった。
しかし、この論理体系を完成するためには、さらにひとつ、最後の問題が残っていた。
窮極の“なぜ”
なぜさまざまな事象は起こるのか。文明にはこの「なぜ」に対して、なんらかの説明が必要である。たとえ分析が1割で残りの9割が謎のままであったとしても、なんらかの説明を容易しないかぎり、その文明は効果的な生活のプログラムを用意することはできない。文化的要請にしたがって行動を起こすにあたって、人間は自分の行為が「結果」を生むのだという、なんらかの確信を必要とする。そして、そのことがひいては、人類積年の「なぜ」に対して、ある種の解答を意味することになる。第二の波の文明は、すべてを説明できるかに見える、強力な理論を武器に登場した。
池のおもてに石が投ぜられる、波紋が速やかに水面に広がる。なぜか。なにがこの現象をひき起こすのか。産業時代の子らなら、たぶん、こう答えるであろう。「だれかが石を投げたからさ」と。
この問題に解答を試みるとして、それが12,3世紀のヨーロッパの学識豊かな紳士であれば、われわれとは著しく異なる考え方をしたであろう。彼はおそらくアリストテレスの運動の四原因という考え方によって、質料因、形相因、動力因、目的因を求めたであろう。しかし、四原因のいずれも、それ自体では何事も説明できなかったのである。また、中世の中国の賢者であれば、陰陽を語り、神秘的な力の相互作用について語ったであろう。かれらはそれによって、あらゆる現象を説明できると信じていたのである。
第二の波の文明は、因果の謎に対する解答を、ニュートンの画期的な発見である万有引力の法則に見出した。ニュートンにとって原因とは、「運動を起こす物体に加えられる力」であった。ニュートン的因果論を説明する例としてよく挙げられるのが、つぎつぎに衝突してはそれに反応して運動するビリアードの球である。計測可能で、直ちに確認しうる外的力だけに注目したこの変化の概念は、時間と空間を直線的にとらえる新しい産業的現実像に完全に合致するところから、きわめて有力になった。事実、ニュートン的、力学的因果論は、産業革命がヨーロッパ全土にひろがるとともに受け入れられていき、それにつれて産業的現実像も、完全に確立したのである。
もし世界がビリアードの球のミニチュアのような個別の微粒子から成り立っているとすれば、あらゆる原因は、これらの球の相互作用から生じることになる。ひとつの微粒子、つまり原子が第二の原子にぶつかる。第一の原子が第二の原子の運動の原因になり、第二の原子の動きは第一の原子の運動の結果であった。空間には運動のない行為は存在しなかったし、原子は同時にひとつ以上の場所には存在しえなかった。
複雑で雑然とした予測不能の世界、過密で神秘的で混沌とした宇宙が、にわかに整然と秩序正しい姿を見せはじめた。人間の細胞中の原子から、はるかな夜空に凍てついた星に至るまで、あらゆる現象が、運動する物質として理解されるようになった。各微粒子が隣接する微粒子を活性化させ、それを動かして永遠の生命の踊りを躍らせている、と解釈されるようになったのである。この思想は、のちにラプラスが主張したように、神という仮説を必要とせずに、無神論者が生命を説明することを可能にした。しかし、信仰深い人にとっては、依然として神の座は残されていた。神を最初に動きを起こしたものと考えることができたからである。つまり、神は最初に撞球棒で球を突いてから、おそらくゲームを降りてしまったのだ、と考えることができたわけである。
現実に関するこの比喩は、興隆期にあった産業主義の文化に対して、知的アドレナリン注射のような役割を果たした。フランス革命の土壌をつくりあげるのに力のあった急進的哲学者のひとり、ドルバック男爵は意気軒昂として言い放った。「この世に存在するもろもろの大集合である宇宙は、物質と運動以外のなにものでもない。われわれがその全体を熟視する時、すべては原因と結果の、限りない不断の連続にほかならないことがはっきりする。
この言葉が、すべてを物語っている。すべてがこの短い、勝利感に満ちた言葉に含まれている。すなわち、宇宙とは、ひとつの「集合体」にまとめあげられた個別の部分から成り、組み立てられたひとつの現実だ、という考え方である。物質は、運動すなわち空間における移動という観点からのみ理解された。事象は直線的に連続して起こり、過去から現在、現在から未来へと、時間の直線の上に並んでいく。ドルバックによれば、憎悪、利己心、愛など、人間の情念もまた反発力、慣性、静止摩擦のような物理的な力にたとえられ、ちょうど科学が物理的な力を公益のためにうまく利用するように、賢明な国家は、それらの人間的情念を大衆の福利のために操作することができる、と言うのである。
この産業社会の現実をふまえた宇宙像から、そしてそこに内蔵されたさまざまな仮説から、われわれを動かすもっとも強い私的行動様式、社会的、政治的行動様式が生まれた。そこには、宇宙や自然にかぎらず、社会や人間もある一定の予測可能な法則に従って行動するという、無言の前提が隠されている。たしかに、第二の波の思想家としてもっとも偉大と目される人びとは、もっとも首尾一貫して、強力に宇宙の法則性を論じた人びとであった。
ニュートンは、天体の運行プログラムを説明する法則を発見したかに見えた。ダーウィンは、社会的進化のプログラムをも説明することになる法則を発見した。そして、フロイトは心理の動きのプログラムを説明する法則を探りあてたかに見えた。ほかにも大勢の学者、技術者、社会科学者、心理学者が、こうした分野、あるいはまったく別な分野の法則をつぎつぎに追い求めた。
第二の波の文明は、いまや奇跡的と言ってよいほど強力で、幅広い応用性を持った因果論を、意のままに駆使するにいたった。それまで複雑に見えていたものも、多くは簡単な公式に還元して説明することが可能になった。こうした法則ないし通則は、ニュートンにしろマルクスにしろ、名のとおっただれかれが法則を定めたというだけで受け入れられたわけではない。実験や経験的テストがくりかえされ、そのうえで、妥当性が実証されたのである。こうした法則にしたがって動くことにより、橋を架け、空中に電波を送り出すこともできたし、生物学的変化を予知することもできた。経済を動かし、政治運動や政治機構を組織し、さらに、個人という究極的固体の行動まで、予測、形象化することが可能であると言われた。
必要とされたのは、いかなる現象をも説明できる方程式の変数を発見することだけであった。もし格好の「ビリアードの球」を見出し、それをもっとも適切な角度から打つことさえできれば、不可能なことはなにもなかった。
この新しい因果論は、新しい時間像、空間像、物質像と結びつくことによって、人類の大多数を、古い偶像の圧政から解き放った。それは、科学や技術の分野において輝かしい偉業をなしとげることを可能にするとともに、すべてをはっきりした概念でとらえ、実践上でも多くの業績を挙げるという、奇跡とも言うべき成果をもたらした。権威主義に挑戦し、人間の精神を幾千年にもわたる拘禁状態から解放したのである。
だが、産業的現実像もまた、みずからの新しい桎梏を生んだ。数量化できないものを蔑視するか、さもなければ無視し、しばしば分析の厳密のみを重視して、想像力をしりぞける産業主義的精神構造がそれで、人間をあまりに単純化し、原形質から成る個体としか考えず、いかなる問題に対しても、最終的には技術的解決しか求めようとしなくなった。
産業的現実像はまた、一見道徳的中立を装っていたが、実際にはそうではなかった。すでに見たように、それは第二の波の文明の好戦的スーパー・イデオロギーであり、自己を正当化する論拠であった。産業時代特有のイデオロギーは、左翼思想であれ右翼思想であれ、一様にそこから派生している。ほかの文化の場合も同じではあるが、第二の波の文明も歪んだフィルターをつくりあげ、この文明に属する人びとは、そのフィルターをとおして自分自身や宇宙を見ることになった。このフィルターをとおした一連の思想、観念、仮説、そしてそこから生まれたさまざまな類推が、歴史上かつてないほど強力な文化体系を形成したのである。
最終的に、産業主義の文化的側面とも言うべき産業的現実像は、みずからが建設の一翼を担った社会に適合した。それは資本主義社会、社会主義社会の別なく、大組織、大都市、中央集権的官僚制、すべてを巻き込む市場から成る社会をつくりあげる推進力となった。産業的現実像は、新しいエネルギー体系、家族体系、科学技術体系、経済体系、政治体系、価値体系と非常に密接なつながりを持ち、それらと手をたずさえて第二の波の文明を形成したのである。
第二の波に代わって第三の波が地球上をあまねくうねりはじめた現在、急激な変化のもとに崩壊しようとしているのは、この文明のすべてである。制度も、科学技術も、文化も含めて、この文明がそっくり崩壊しようとしているのだ。われわれは、もはや逆転することのない、産業主義の決定的危機のなかで生きている。そして、産業化時代が歴史のなかに組み込まれてしまうとき、新しい時代が誕生することになる。