アルビン・トフラー研究会(勉強会)  

アルビン・トフラー、ハイジ夫妻の
著作物を勉強、講義、討議する会です。

第九章 産業的現実像(インダスト・リアリティ)2-2

2014年12月19日 22時25分54秒 | 第三の波
March,1980
Alvin Toffler, The Third Wave, William Morrow, New York, 1980
第三の波 昭和55年10月1日 第1刷発行 アルビン・トフラー著 徳山二郎 監修
鈴木建次 菅間 昭 桜井元雄 小林千鶴子 小林昭美 上田千秋 野水瑞穂 安藤都紫雄 訳

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第九章 産業的現実像(インダスト・リアリティ)(2-2)
 現実像の本質
 第二の波の文明は、新しい時間像と空間像を打ち立て、それによって、われわれの日常の行動を規定したにとどまらず、人類積年の問いに対する、独自の解答を組み立てた。物はなにから成り立っているのか。この疑問に解答を与えようとして、あらゆる文化は、それぞれ独自の神話や比喩を生み出してきた。ある文化にとって、宇宙はあらゆるものを巻き込む「統一体(ワンネス)」だと考えられている。そこでは、人間は自然の一部とみなされ、祖先や子孫の生活と不可分に連帯し、動物や樹木、岩石、河川にまで自分たちと同じ「生気」を感じ取るほど、自然界にとけ込んで生活している。また、多くの社会で、個人は、自分を一個の独立した存在としてではなく、むしろ、家族、氏族、部族あるいは地域社会といった、もっと大きな、有機的組織体に属する存在としてとらえている。
 また、別の社会では、宇宙の全体性あるいは一体性ではなくて、宇宙がいくつもの要素に分類できるという面を強調してきた。現実を、ひとつに融合した存在としてではなく、多くの個別の部分から組み立てられた構成体と考えてきたのである。
 産業主義が出現するおよそ2000年前、デモクリトスは、当時としては驚異的な説を発表した。宇宙は縫い目のない完全な単一体ではなく、微分子から成り、その微分子はおのおの別個で、それ以上破壊できない、不可変、不可分の微小物体だ、と言うのである。かれはこの微小物体を「原子(アトモス)」と名づけた。そののち何世紀もの間、不可変の微小物体が集まって宇宙を構成するという宇宙観は、消長の歴史をたどる。中国では、デモクリトスの時代からわずかにおくれてまとめられた『墨子』のなかで、「点」をはっきり定義して、これ以上分割できない、短い一片に切断された線、としている。インドでも、原子、すなわち不可変の現実を構成する単位という考え方が、西暦紀元後ほどなく、忽然と起こっている。古代ローマの詩人ルクレチウスは、原子論の哲学をきめ細かに展開した。しかし、こうした物質像は召集意見の域を出ず、往々にして嘲笑を浴びるか無視された。
 第二の波の時代が幕を開け、さまざまな主張が入り混じった思想の流れが、何本も合流してわれわれの物質観を変革すると、ようやく原子論は支配的な思想に成長した。
 17世紀半ば、フランス人神父でコレージュ・ド・フランスの前身パリ王立学院の天文学者であり哲学者でもあったピエール・ガッサンディは、物質は「超微粒子」によって構成されていると主張した。ルクレチウスに影響を受けたガッサンディは、原始的物質観のきわめて有力な擁護者となり、その思想はまもなくイギリス海峡を渡って、気体の圧縮性を研究していた若い科学者ロバート・ボイルの知るところとなった。ボイルは、この原子論を観念の領域から実験室に移し、空気さえも微粒子によって構成されている、という結論をくだした。ガッサンディの死から6年後、ボイルは論文を発表して、いかなる物質も、・・たとえば土と言えども・・より単純な物質に分解できるかぎり元素ではありえない、と論じた。
 一方、イエズス会で教育を受けた数学者ルネ・デカルトは、ガッサンディに批判されたこともあったが、現実を理解するためには、それをより小さな部分に分解していくよりほかはない、と主張した。かれ自身の言葉によれば、「検討中の難問はひとつひとつ、可能なかぎり、多数の部分に分割すること」が、それを解くために必須だと言う。第二の波が高まると、物質についての原子論に並行して、哲学的原子論が発達したのである。
 こうして「統一体」という概念に対して、つぎつぎに反論が加えられた。この攻撃には、たちまち科学者や数学者、哲学者が参加し、かれらは宇宙をさらに小さな断片に分割し続け、画期的な成果を上げた。
デカルトが『方法叙説』を発表すると、「ただちにそれを医学に応用することによって、無数の発見がなされた」と微生物学者ルネ・デュポスは書いている。原子論とデカルトの原子論的方法論の結合は、化学そのほかの分野に驚くべき進歩をもたらした。1700年半ばには、宇宙を独立の部分から部分へと、どんどん分割していくことができるという概念は、常識となっていた。それは、形成されつつあった産業的現実像の一部となったのである。
 新しい文明が発生する時には、常に、過去から思想が抽出し、それを再構築して、周囲の世界との関連においてみずからの特質を明確にしようとする。ばらばらの部品を寄せ集めて、機械製品の量産体制にまさに移行しはじめたばかりの、萌芽期の産業社会にとって、宇宙を個別の構成要素から成る集合体であるとする考え方は、おそらく表裏一体のものだったにちがいない。
 現実に対する原子論的解釈が受け入れられた背景には、政治的ならびに社会的理由もあった。第二の波は、第一の波に属する既存の旧体制に激突した時、人びとを拡大家族、全能の教会、君主政体から力づくでも解放しなければならなかった。産業資本主義は、個人主義を擁護するための論拠を求めていたのである。古い農業文明が凋落し、産業主義の夜明けを待つ一、二世紀の間に、商業活動が拡大し都市の数が増すと、新興の商人階級は取り引きや融資、師情拡大の自由を求めて、新たな個人観を打ち出した。原子として、ひとりひとりの人間が集まって、はじめて社会が成立するという考え方である。
 人間はもはや部族、カースト、氏族の受動的な従属物ではなく、自由かつ自立的な個人であった。各個人は、財産を私有し、商品を買い、自分の思うままにどんどん事を運び、本人の積極的努力いかんによって金持ちにもなれば飢えもする権利を持つことになった。これに呼応して、宗教の選択、個人的幸福の追求という権利も手にした。要するに、産業的現実像は、原子に酷似する個人、つまり社会の基本的構成要素として、それ以上細分化できない、構成単位としての個人という考え方を生み出したのである。
 すでに見たように、原子論は政治の世界にもあらわれ、そこでは、投票が最小の構成要素になった。また、国際社会を考えてみても、それが、自己充足的な不可侵の、独立した国家と呼ばれる単位から成り立っているととらえるとき、同じ原子論が姿を見せていた。つまり、物質的問題にかぎらず、社会的、政治的な問題も、ちょうど、れんがを積み重ねていくように自立的な単位、つまり原子から成り立っていると考えられるようになったのである。原子論は生活のあらゆる領域に浸透した。
 現実がばらばらな個別の単位を組織化することによって成立するという概念は、また、新しい時間像にも空間像にも完全に適合した。時間と空間そのものが、次第に細かく分割され、定義づけられることの可能な単位に分割できると考えられるようになっていたからである。こうして第二の波の文明は勢力を拡大し、いわゆる「未開」社会と第一の波の文明の双方を制圧し、同時に、論理性、首尾一貫性を次第に強化しつつ、人間や政治、社会に対する、この産業主義的概念を世の中にひろめていった。
 しかし、この論理体系を完成するためには、さらにひとつ、最後の問題が残っていた。
 窮極の“なぜ”
 なぜさまざまな事象は起こるのか。文明にはこの「なぜ」に対して、なんらかの説明が必要である。たとえ分析が1割で残りの9割が謎のままであったとしても、なんらかの説明を容易しないかぎり、その文明は効果的な生活のプログラムを用意することはできない。文化的要請にしたがって行動を起こすにあたって、人間は自分の行為が「結果」を生むのだという、なんらかの確信を必要とする。そして、そのことがひいては、人類積年の「なぜ」に対して、ある種の解答を意味することになる。第二の波の文明は、すべてを説明できるかに見える、強力な理論を武器に登場した。
 池のおもてに石が投ぜられる、波紋が速やかに水面に広がる。なぜか。なにがこの現象をひき起こすのか。産業時代の子らなら、たぶん、こう答えるであろう。「だれかが石を投げたからさ」と。
 この問題に解答を試みるとして、それが12,3世紀のヨーロッパの学識豊かな紳士であれば、われわれとは著しく異なる考え方をしたであろう。彼はおそらくアリストテレスの運動の四原因という考え方によって、質料因、形相因、動力因、目的因を求めたであろう。しかし、四原因のいずれも、それ自体では何事も説明できなかったのである。また、中世の中国の賢者であれば、陰陽を語り、神秘的な力の相互作用について語ったであろう。かれらはそれによって、あらゆる現象を説明できると信じていたのである。
 第二の波の文明は、因果の謎に対する解答を、ニュートンの画期的な発見である万有引力の法則に見出した。ニュートンにとって原因とは、「運動を起こす物体に加えられる力」であった。ニュートン的因果論を説明する例としてよく挙げられるのが、つぎつぎに衝突してはそれに反応して運動するビリアードの球である。計測可能で、直ちに確認しうる外的力だけに注目したこの変化の概念は、時間と空間を直線的にとらえる新しい産業的現実像に完全に合致するところから、きわめて有力になった。事実、ニュートン的、力学的因果論は、産業革命がヨーロッパ全土にひろがるとともに受け入れられていき、それにつれて産業的現実像も、完全に確立したのである。
 もし世界がビリアードの球のミニチュアのような個別の微粒子から成り立っているとすれば、あらゆる原因は、これらの球の相互作用から生じることになる。ひとつの微粒子、つまり原子が第二の原子にぶつかる。第一の原子が第二の原子の運動の原因になり、第二の原子の動きは第一の原子の運動の結果であった。空間には運動のない行為は存在しなかったし、原子は同時にひとつ以上の場所には存在しえなかった。
 複雑で雑然とした予測不能の世界、過密で神秘的で混沌とした宇宙が、にわかに整然と秩序正しい姿を見せはじめた。人間の細胞中の原子から、はるかな夜空に凍てついた星に至るまで、あらゆる現象が、運動する物質として理解されるようになった。各微粒子が隣接する微粒子を活性化させ、それを動かして永遠の生命の踊りを躍らせている、と解釈されるようになったのである。この思想は、のちにラプラスが主張したように、神という仮説を必要とせずに、無神論者が生命を説明することを可能にした。しかし、信仰深い人にとっては、依然として神の座は残されていた。神を最初に動きを起こしたものと考えることができたからである。つまり、神は最初に撞球棒で球を突いてから、おそらくゲームを降りてしまったのだ、と考えることができたわけである。
 現実に関するこの比喩は、興隆期にあった産業主義の文化に対して、知的アドレナリン注射のような役割を果たした。フランス革命の土壌をつくりあげるのに力のあった急進的哲学者のひとり、ドルバック男爵は意気軒昂として言い放った。「この世に存在するもろもろの大集合である宇宙は、物質と運動以外のなにものでもない。われわれがその全体を熟視する時、すべては原因と結果の、限りない不断の連続にほかならないことがはっきりする。
 この言葉が、すべてを物語っている。すべてがこの短い、勝利感に満ちた言葉に含まれている。すなわち、宇宙とは、ひとつの「集合体」にまとめあげられた個別の部分から成り、組み立てられたひとつの現実だ、という考え方である。物質は、運動すなわち空間における移動という観点からのみ理解された。事象は直線的に連続して起こり、過去から現在、現在から未来へと、時間の直線の上に並んでいく。ドルバックによれば、憎悪、利己心、愛など、人間の情念もまた反発力、慣性、静止摩擦のような物理的な力にたとえられ、ちょうど科学が物理的な力を公益のためにうまく利用するように、賢明な国家は、それらの人間的情念を大衆の福利のために操作することができる、と言うのである。
 この産業社会の現実をふまえた宇宙像から、そしてそこに内蔵されたさまざまな仮説から、われわれを動かすもっとも強い私的行動様式、社会的、政治的行動様式が生まれた。そこには、宇宙や自然にかぎらず、社会や人間もある一定の予測可能な法則に従って行動するという、無言の前提が隠されている。たしかに、第二の波の思想家としてもっとも偉大と目される人びとは、もっとも首尾一貫して、強力に宇宙の法則性を論じた人びとであった。
 ニュートンは、天体の運行プログラムを説明する法則を発見したかに見えた。ダーウィンは、社会的進化のプログラムをも説明することになる法則を発見した。そして、フロイトは心理の動きのプログラムを説明する法則を探りあてたかに見えた。ほかにも大勢の学者、技術者、社会科学者、心理学者が、こうした分野、あるいはまったく別な分野の法則をつぎつぎに追い求めた。
 第二の波の文明は、いまや奇跡的と言ってよいほど強力で、幅広い応用性を持った因果論を、意のままに駆使するにいたった。それまで複雑に見えていたものも、多くは簡単な公式に還元して説明することが可能になった。こうした法則ないし通則は、ニュートンにしろマルクスにしろ、名のとおっただれかれが法則を定めたというだけで受け入れられたわけではない。実験や経験的テストがくりかえされ、そのうえで、妥当性が実証されたのである。こうした法則にしたがって動くことにより、橋を架け、空中に電波を送り出すこともできたし、生物学的変化を予知することもできた。経済を動かし、政治運動や政治機構を組織し、さらに、個人という究極的固体の行動まで、予測、形象化することが可能であると言われた。
 必要とされたのは、いかなる現象をも説明できる方程式の変数を発見することだけであった。もし格好の「ビリアードの球」を見出し、それをもっとも適切な角度から打つことさえできれば、不可能なことはなにもなかった。
 この新しい因果論は、新しい時間像、空間像、物質像と結びつくことによって、人類の大多数を、古い偶像の圧政から解き放った。それは、科学や技術の分野において輝かしい偉業をなしとげることを可能にするとともに、すべてをはっきりした概念でとらえ、実践上でも多くの業績を挙げるという、奇跡とも言うべき成果をもたらした。権威主義に挑戦し、人間の精神を幾千年にもわたる拘禁状態から解放したのである。
 だが、産業的現実像もまた、みずからの新しい桎梏を生んだ。数量化できないものを蔑視するか、さもなければ無視し、しばしば分析の厳密のみを重視して、想像力をしりぞける産業主義的精神構造がそれで、人間をあまりに単純化し、原形質から成る個体としか考えず、いかなる問題に対しても、最終的には技術的解決しか求めようとしなくなった。
 産業的現実像はまた、一見道徳的中立を装っていたが、実際にはそうではなかった。すでに見たように、それは第二の波の文明の好戦的スーパー・イデオロギーであり、自己を正当化する論拠であった。産業時代特有のイデオロギーは、左翼思想であれ右翼思想であれ、一様にそこから派生している。ほかの文化の場合も同じではあるが、第二の波の文明も歪んだフィルターをつくりあげ、この文明に属する人びとは、そのフィルターをとおして自分自身や宇宙を見ることになった。このフィルターをとおした一連の思想、観念、仮説、そしてそこから生まれたさまざまな類推が、歴史上かつてないほど強力な文化体系を形成したのである。
 最終的に、産業主義の文化的側面とも言うべき産業的現実像は、みずからが建設の一翼を担った社会に適合した。それは資本主義社会、社会主義社会の別なく、大組織、大都市、中央集権的官僚制、すべてを巻き込む市場から成る社会をつくりあげる推進力となった。産業的現実像は、新しいエネルギー体系、家族体系、科学技術体系、経済体系、政治体系、価値体系と非常に密接なつながりを持ち、それらと手をたずさえて第二の波の文明を形成したのである。
 第二の波に代わって第三の波が地球上をあまねくうねりはじめた現在、急激な変化のもとに崩壊しようとしているのは、この文明のすべてである。制度も、科学技術も、文化も含めて、この文明がそっくり崩壊しようとしているのだ。われわれは、もはや逆転することのない、産業主義の決定的危機のなかで生きている。そして、産業化時代が歴史のなかに組み込まれてしまうとき、新しい時代が誕生することになる。

第九章 産業的現実像(インダスト・リアリティ)2-1

2014年12月14日 21時22分43秒 | 第三の波
March,1980
Alvin Toffler, The Third Wave, William Morrow, New York, 1980
第三の波 昭和55年10月1日 第1刷発行 アルビン・トフラー著 徳山二郎 監修
鈴木建次 菅間 昭 桜井元雄 小林千鶴子 小林昭美 上田千秋 野水瑞穂 安藤都紫雄 訳

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第九章 産業的現実像(インダスト・リアリティ)(2-1)
 
第二の波の文明は、地球の果てまでぐんぐんと、その触手を伸ばし、その波をかぶったものすべてに変貌を強いた。この文明によってもたらされたのは、科学技術や商業だけではなかったのだ。第二の波は、第一の波の文明との衝突によって無数の人びとの周囲に新たな現実をつくり出したにとどまらず、現実についての考え方自体を、一新してしまったのである。
さまざまな地点で農業社会の価値、観念、神話、道徳と衝突しながら、第二の波は神や正義、愛、権力、美の定義を一新していった。新たな概念や身の処し方、類推の仕方を普及させた。時間と空間、事象とその原因についての昔からの前提をくつがえし、これを破棄してしまった。筋のとおった説得力のある世界観が出現し、第二の波の現実を説明し、正当化したのである。この産業社会的世界観には、これまで特定の名前がない。「産業的現実像(インダスト・リアリティ)」とでも命名すれば、もっともふさわしいのではないだろうか。
産業的現実像とは、産業社会を覆う一連の概念や仮説であって、産業主義社会に生まれるこどもたちは、こうした概念や仮説によって、自分たちの世界を理解するように教えられてきた。言ってみれば、それは、第二の波の文明によって採択されたさまざまな前提のパッケージのようなもので、この文明に属する科学者、実業界のリーダー、政治家、哲学者、プロパガンダの専門家などが、好んでこれを活用してきたのである。
当然のことながら、対立意見の持主もいた。そうした人びとは、産業的現実像の支配的な概念に挑戦した。だが、ここで問題なのは第二の波の思想の支流ではなく、本流だったはずである。概観上は、本流などまったくなかったかのように思えるかもしれない。むしろ、二本の強力なイデオロギーの流れがあって、それらが互いに対立してきたかに見える。19世紀半ばになると、産業化を進める国ぐにには、みなはっきりした左派と右派があらわれた。個人主義、自由競争主義の擁護者と、生産そのほかの経済活動の手段をすべて国家で統制しようという集産主義、社会主義の擁護者である。
このイデオロギー闘争は、はじめのうちは産業諸国間に限定されていたが、まもなく全世界にひろがっていった。1917年にソビエト革命が起こり、世界的規模の中央指令にもとづく宣伝機構が組織されると、イデオロギー闘争はさらに熾烈になった。そして、第二次世界大戦終結のころになると、アメリカとソビエトはおのおの自分に都合の良い世界市場、あるいは全世界とまでもいかないにしても、それに近い大市場をもう一度統合しようとして、いずれの側も巨額の金を注ぎ込み、非産業国の人びとに、それぞれ自分たちの教義をひろめていった。
一方の側には全体主義の諸政権があり、別の側には、いわゆる自由主義の民主主義国家群があった。討議決裂の際には、ただちに武力決着をつけるべく、銃と爆弾が用意されていた。宗教改革期のカソリックとプロテスタントの大衝突以降、二つの思想陣営の間に、これほど画然と主義主張による境界線がひかれたことはなかった。
ところが、この白熱のプロパガンダ戦争において、ほとんどの人が見逃していた事実があった。それは、いずれの側も相手とは異なるイデオロギーをひろめようとしていたにもかかわらず、双方ともに、本質的にはまったく同じ「スーパー・イデオロギー」をふれまわっていた、ということである。
両者の結論 -その経済計画と政治原理- はまったく異質であったが、出発点となった前提の多くは、実は同一だったのである。プロテスタントとカトリックの宣教師たちが、解釈が違うだけで、もとは同じ聖書を後生大事に守りながら、いずれも同じキリストの福音を宣べ伝えているように、マルクス主義者と反マルクス主義者、資本主義者と反資本主義者、アメリカ人とソビエト人は、一様に世界の非産業地域、アフリカ、アジア、ラテン・アメリカへ進出していった。そして、その進出に当って、かれらは同じ一群の基本的前提を携えていたのである。しかし、双方とも自分ではそのことに気がついていなかった。かれらはともに、ほかのあらゆる文明に対する、産業主義の優越性を説いた。両者はともに、産業的現実像の熱烈な使徒だったのである。

進歩の法則
かれらがひろめた世界観は、産業的現実像を構成する、互いに関連の深い三つの信条に基盤をおいていた。この三つの考え方は、第二の波に属する諸国をひとつにまとめ、地球上のほかの国ぐにから産業国をはっきり区別する役割を果たした。
この革新的信条の第一は、自然にかかわるものであった。社会主義者と資本主義者は、自然の産物をいかに分配するかについて激しく対立していたのは事実だが、自然を見る見方に変わりはなかった。双方いずれにとっても、自然はしぼり出せるだけのものをしぼり出す対象でしかなかったのである。
人間は当然、自然に対して支配権を握っているのだという思想を遡れば、少なくとも『創世記』の昔にいたる。しかし、産業革命までは、明らかにそれは少数意見でしかなかった。ほとんどすべての産業革命以前の文化が強調したのは、反対に、貧しさに耐えられること、人間と人間を取り巻く自然のエコロジーとを調和させることであった。
しかし、こうした産業革命以前の文化が、自然に対してとくに従順だったわけではない。山を切り開き、焼き払い、土地の面積に対して多すぎるほどの家畜を放牧し、森を薪木のために裸にした。しかし、当時の人間の自然破壊力には、限界があった。大地に決定的な衝撃を与えるようなことはなかったし、みずからの与えた損害を正当化するための、明解なイデオロギーを必要とすることもなかった。
第二の波の文明が登場すると、資本主義の産業家たちは、利潤追求のために地中から資源を大規模に堀り上げた。大気中に大量の有毒ガスを吐き散らし、広い地域にわたって森林を丸裸にした。そして、その副作用や遠い将来への影響については、十分な配慮がなされたわけではなかった。自然は搾取されるために存在するという思想は、近視眼的展望と利己主義を正当化する、格好の口実になったのである。
だが、一概に資本主義者だけがそうだったわけではない。(利潤追求が諸悪の根源であるという持論にもかかわらず)マルクス主義の産業家たちも、権力を握ればどこででも、まったく同じような行動をとった。事実、かれらは自然との闘争を、自分たちの聖典のなかへ組み込んでしまった。
マルクス主義者が思い描いた未開社会像によれば、人間と自然は調和を保ちながら共存していたわけではなく、自然を相手に、生死を賭した凄絶な闘争をしていたということになる。かれらの考えでは、階級社会の出現とともに、この「人間対自然」の闘争が、不幸にも、「人間対人間」の闘争に変わってしまい、共産主義による無階級社会が達成した暁に、人間は「人間対自然」という、第一義的闘争への回帰を許されると言うのである。
人間は自然と対立し、これを支配する。イデオロギーの分水嶺に隔てられていたはずの両陣営に、実は、この同じ人間像が存在していた。この人間像は、産業的現実増の主要構成要素であって、このスーパー・イデオロギーから、マルクス主義者も反マルクス主義者も、一様に、自分たちの仮説をひき出していたのである。

産業的現実像を構成する第二の信条は、第一の信条とも関連があるが、問題をさらに一歩前進させた。
それは、人間が単に自然を管理するにとどまらず、長い進化の過程の頂点に立っている、という考え方であった。進化論はそれ以前からぼつぼつ唱えられていたが、この概念に科学的根拠を与えたのは、19世紀半ば、当時の最先進産業国イギリスに育ったダーウィンの考え方であった。彼が唱えたのは、世の中には「自然淘汰」という無作為の機能が働いているということであり、生存競争によって、弱者、不適応者は容赦なく淘汰されていくのが必然の過程だというのだ。そして生き残る種が、最適者だと定義したのである。
 ダーウィンが注目したのは、主に生物学的進化であるが、その思想は明らかに社会的、政治的なふくみを持っており、人びとは早くからそのことに気がついていた。こうして、「社会ダーウィニズム論者」たちは、社会の内部でもこの自然淘汰の法則が機能すること、そして、もっとも富裕でかつ強い権力を保持する者が、まさにその事実によって、生存の最適者であり、富と権力に値する人間である、と主張した。
 この考え方をほんの一歩推し進めれば、社会そのものも、すべてこの淘汰の法則にしたがって進化する、という思想につながってくる。この論理によれば、産業主義は、その周辺の非産業文化にくらべてより高い進化の段階に到達している、ということになった。端的に言えば、第二の波の文明は、ほかのあらゆる文明よりすぐれている、ということであった。
 社会ダーウィニズムが資本主義を合理化したように、みずからの文化の優越を疑わないこのあつかましさは、帝国主義を正当なものと考えた。拡大する産業社会は、その生命線を安価な資源に求め、農業社会と、いわゆる未開社会とを抹殺してでも、安い資源を獲得するために、倫理的口実を考え出した。つまり、社会進化論は、非産業社会の人びとを産業社会の人間より劣った存在であると決めつけ、したがって生存不適格者として遇することに、知的、倫理的口実を与えたのである。
 ダーウィン自身、冷酷な筆致でタスマニア原住民の大量虐殺について書き、民族抹殺の情熱をほとばしらせた。彼は「将来のある時期までに・・文明人が世界中の野蛮人をことごとく駆逐し、これにとって代わることはほぼ確実であろう」と予言した。第二の波の文明の先駆者たちにとって、生き延びる資格をだれが持つのかは、一点の疑いもなかったのである。
 マルクスにしても、資本主義と帝国主義を痛烈に批判はしたが、産業主義は社会のもっとも発達した形態であって、ほかのすべての社会も必然的に、順次その段階に向って進んでいくと考える点では、同じ展望の持主であった。

 産業的現実像を構成する核心的信条の第三は、自然と進化とを連繋する思想、すなわち進歩の法則であった。歴史は人類によってよりよい生活に向って流れており、逆流ではない、とする考えである。こうした思想もまた、産業主義時代以前に、すでに多くの先例が見られる。しかし、固有の意味での進歩の思想が大輪の花を咲かせたのは、第二の波の進行と時を同じくしていた。
 第二の波のうねりがヨーロッパをおおったとき、にわかに無数の声が文明の賛歌を歌いはじめた。ライプニッツ、テュルゴー、コンドルセ、カント、レッシング、ジョン・スチュワート・ミル、ヘーゲル、マルクス、ダーウィン、そのほか大勢の思想家が、こぞって世の中の見方についての楽観主義を論証していった。なるほどかれらはいろいろと議論を闘わしている。進歩は歴史の必然なのか、それとも人類が手を貸さなければ進歩しないのか。よりよい生活の中身はなになのか、進歩は永劫に継続するのか、あるいは継続しうるのか、等々。しかしながら、進歩という概念そのものについては、かれら全員が賛意を表し、だれひとり疑義をはさむものはなかったのである。
 無神論者も神学者も、学生も教授も、政治家も科学者も、この進歩を奉じる新しい信仰を説いた。企業家も共産主義諸国の高官も、ともに、悪から善へ、善からさらにより高度の善へ向かうこのあらがいがたい前進の例証として、各地の新しい工場、新製品、新興住宅団地、幹線道路、ダムの誕生をひきあいに出した。詩人も劇作家も画家も、進歩を疑わなかった。進歩は、自然の破壊と「低開発」文明の征服を正当化した。
 そして、この点についても、アダム・スミスとカール・マルクスの著作には、平行して同じ思想が説かれていた。ロバート・へイルブローナーが記しているように、「スミスは進歩の信奉者であった。『国富論』において、進歩はもはや人類の観念的な目標ではなく~人類が必然的に行きつく到達点であり、私企業が経済目標を達成しようとすれば、進歩はその副産物として、おのずから丹精されるのであった。」マルクスにとっては、当然のことながら、私的に経済的目標を追求することは資本主義を生み、かつその自己崩壊の種を播くだけのことであった。だがその彼にとっても、この現実それ自体は、人類が社会主義、共産主義、さらにそれを超えるよりよき体制へと進化していく、長い歴史のとうとうたる流れの一部であった。
 こうして、第二の波の文明期を通じて、自然との闘争、進化の意義、進歩の法則という三つの主要概念は、産業主義の代理人たちが、産業主義を世界に向かって説明し、これを正当化する際に援用される武器となった。
 こうした確信の背後には、現実についてのいっそう深い仮説が存在した。人間の経験そのものを構成する要素に対する、一連の暗黙の信念である。人間である以上、これらの要素と無関係ではありえないし、あらゆる文明が、それぞれ異なる表現によってこれを説明している。あらゆる文明はその社会のなかで育っていくこどもたちに、時間と空間にどう取り組むかを教えなければならない。神話によってであれ、比喩あるいは科学理論によってであれ、いかに自然が作用するかを説明しなければならない。なぜ物事が現に起こっているように起こるのか。この問いに対するなんらかの答を与えてやらなければならない。
 こうして、第二の波の文明は、その成熟に伴い。時間と空間、事象とその原因について、この文明独自の明解な仮説を立て、それを基盤に、まったく新しい現実像を生み出した。過去から断片的事実を拾い上げ、新しい手段でそれらを組み合わせ、実験や経験的試行を重ねながら、人間が自分をとりまく世界を認知する道筋を根本から変え、ひいては、日常生活の行動様式まで変えてしまったのである。

 時間のソフトウエア
 人間の行動を機械のリズムに合わせることが、産業主義の普及にどれほど貢献したかは、すでに第六章で見たとおりである。人びとが正確な、同じ時刻を刻む時計に従って生きるという同時化は、第二の波の文明の主導的法則のひとつであった。産業主義に取り込まれた人びとは、この波の社会以外の人びとの目には、どこにいても時間に追われ、いつもいらいらと時計ばかり気にしているように見えた。
 しかし、この時間意識を徹底させ、同時化を完璧にするためには、時間についての人びとの基本的仮説、つまり観念としての時間像を変革する必要があった。いわば「時間に関する新しいソフトウェア」が要請されたのである。
 農耕に従事する人びとは、種を播く時期と収穫の時期を知らなければならなかったから、一年を単位とした時間については、きわめて正確な計測法を発達させていた。しかし、日々の労働には、別に綿密なスケジュールは必要なかったので、農民の間では、短い時間を測るための、正確な単位はほとんど一般化しなかった。されらは普通、一時間、一分というように、時を一定の単位に分割せず、なんらかの家事労働に要する大雑把で、曖昧な塊(かたまり)に分けていた。農民なら、たとえば「乳搾りの時間」といった表現で、一定の時間経過を表した。マダガスカルでは、時間の単位として通用していたもののひとつに「飯が炊けるまで」というのがあり、また一瞬の短い時間を表現するのには、この地方の食生活を反映して「バッタが一匹揚がるまで」という言い方をしていた。イギリス人は、「主に祈りの間」つまり「天にましますわれらの父よ・・」という祈祷文を唱える時間とか、あるいはもっとくだけた表現で「小便をする間」などと言った。
 同じことだが、隣接した共同体あるいは村落でも交流はほとんどなかったし、労働形態も正確な時間を必要としなかったので、頭のなかで時間を測る単位そのものが、土地につれ、季節につれて変化した。たとえば、中世の北部ヨーロッパでは、日の出から日没までは等分に分けられていたが、日の出から日没での長さは日ごとに変化するので、12月の「1時間」は3月や5月の「1時間」より短かった。
 産業社会では「主に祈りを唱える間」といった、漠然とした時間区分に代わって時、分、秒という、きわめて正確な時間単位を必要とした。そして、これらの単位は季節が変わっても、隣りの共同体へいっても適用するように、規格化、標準化されていなければならなかった。
 今日では、全世界が整然たる時間帯に分類されている。われわれは「標準時」を口にする。地球上のどこにいても、パイロットは「ズールー時間」、つまりグリニッジ標準時に頼っている。国際会議によって、イギリスのグリニッジが、あらゆる時差を測定する基点となった。無数の人びとが、定期的、かつ、一斉に、まるで一個の意志に動かされているかのように、時計を一時間進めたり、遅らせたりしている。そして、いかにわれわれの心のなかで主観的に時がのろのろと過ぎているように思えようと、あるいは逆に飛び去るように早く過ぎると思えようと、いまや、一時間は一時間であり、普遍的な、標準化された一定の長さなのである。
 第二の波の文明は、時間をより正確で、標準的なかたまりに分割したばかりではない。これらのかたまりを無限に過去へさかのぼり、未来へ伸びる直線上に配列した。時間を直線であらわしたのである。
 たしかに、時間が過去、現在、未来へ伸びる直線につながっているという仮設は、われわれの思考の根底に植え付けられてしまった。第二の波の社会に育った人間は、それ以外の考え方など、思ってもみないということになってしまった。しかし、産業化以前の社会では、ほとんど例外なく、いまなお時間は直線ではなく、円環とみなされている。マヤ人から仏教徒、ヒンズー教徒にいたるまで、時はめぐりめぐる円環をなして歴史は無限にくりかえし、生命もおそらく、輪廻によって生まれ変わる、と考えられていた。
 時間が大きな円環に似ているという考えは、ヒンズー教における、循環する劫(宇宙の生成と滅亡との間の極めて長い時間)の概念に見られる。一劫は40億年に相当するが、それすらヒンズー教の創造神ブラフマーの、再生にはじまり崩壊に終わり、また再生をくりかえす、たった一日をあわらすにすぎない。時間が循環するという概念は、プラトンやアリストテレスにも見られる。アリストテレスの弟子エウデムスは、時間が循環するにつれて同じ瞬間を幾度も繰り返し生きるものとして、自分の姿をとらえていた。それはピタゴラスの教えであった。『時間と東洋人』のなかで、ジョーゼフ・ニーダムは述べている。「インド=ギリシャ文化圏の人々にとって、時間は周期であり、永遠であった。」さらに、中国では時間の直線的概念が支配的であったにもかかわらず、ニーダムによれば、「古代道教の思弁哲学者の間では、明らかに時間の円環的なとらえ方が顕著であった」と言う。
 ヨーロッパでも工業化に先行する数世紀の間、この矛盾するはずの二つの時間観が共存していた。数会社G・J・ホイットロウはこう書いている。「中世を通じて、直線的な時間の観念と円環的な時間の観念とが、相克状態にあった。直線的な時間の観念は、商人階級と貨幣経済の登場によって助長された。というのは、土地の所有者に権力が集中しているかぎり、時間は潤沢だと感じられていたし、農民の生活は大地の不変の周期に結びついていたからである。」
 第二の波が勢いを得ると、この年来の葛藤は決着をみた。勝利をおさめたのは直線型の時間観であった。直線型の時間観は、洋の東西を問わず、あらゆる産業社会において、支配的な概念となった。時間は、はるかな過去から現在を経て未来へと長く延びる、主要道路の観を呈することになった。そして、この時間認識は、産業化以前の文明のもとに生きた何十億という人びとにとってはそぐわないものであったが、第二の波をかぶった社会では、経済、科学、政治の各分野にわたって、あらゆる計画の基盤となった。IBMの経営陣も、日本の経済企画庁も、ソビエトのアカデミーも、例外ではない。
 だが、注目に価するのは、直線型の時間観が、進化と進歩を疑わない産業的現実像が成立する、不可欠の前提条件だったということである。進化と進歩の信憑性を与えたのは、直線型の時間観だった。なぜなら、もし時間が直線状でなく円環状なら、もし歴史上の事件が一方向に進行するのではなく、遡行するものならば、それは歴史自体がくりかえしであることを意味する。そうなれば、進化と進歩はもはや幻覚にしかすぎず、時間という壁面に落ちた影でしかないことになってしまう。
 同時化、規格化、直線化、この三つは、第二の波の文明を成立させた基本的仮説に影響をおよぼした。一般の人びとが生活のなかで時間をどう操作するか、そのやり方に大変革をもたらしたのである。だが、時間が変貌を遂げた以上、空間もまた、新しい産業的現実像に適応するような組み変えが必要だった。

 空間の組み変え
 第一の波の文明があらわれるはるか以前、われわれの遠い祖先が狩猟や牧畜、漁労や採集によって生きていたころ、生活は絶え間ない移動の連続であった。飢えや寒さなど、環境の異変に追われ、あるいは温暖な気候や獲物を求めて移動を続けた。高度の移動性は現代人の特性のように言われるが、実は古代人こそ、最初の「ハイ=モビール」であった。荷やっかいな家財類を一切蓄えず、身軽に旅し、広範な地域を渉猟した。男女こども、あわせて50人の人間が生きていくためには、マンハッタン島の六倍の広さの土地が欠かせず、毎年周囲の状況に左右されながら、文字通り何百マイルも放浪しなければならなかった。かれらは、今日の地理学者が言う「広域的」生活を送っていた。
 これとは対照的に、第一の波の文明は、「空間的守銭奴」とも言うべき、土地に執着する人種を育てた。農業が遊牧にとって代わると、放浪の民がさまよっていた土地は、耕地と恒久的な村落に変わっていった。広い地域をやすみなく漂泊することをやめて、農夫はその家族とともに定住し、大海原にも似た空間のなかの、小さな畑を懸命に耕した。縹渺たる大海原のなかだけに、こうした人間の生活はいっそう矮小化されて見えたのである。
 産業文明が誕生する直前まで、みすぼらしい農家の群落は、どれも広大な原野に囲まれていた。ひとにぎりの商人、学者、兵士をのぞく大多数の人たちの生活領域は、きわめて限定されていた。かれらは夜明けとともに畑に出て、日暮れとともに家路についた。畑以外には教会へ通った。ときには6,7マイル離れた隣村を訪ねることもあった。気候や地形によって当然事情は変わってくるだろうが、歴史家のJ・R・ヘイルは、「大多数の人が経験した旅は、一生のうちでもっとも長いものでも、平均すれば15マイルどまりと見て差し支えないであろう」と言う。農業は、「空間的に制約された」文明を生んだ。
 18世紀になってヨーロッパを襲った産業化の風は、ふたたび「空間的ひろがりのある」文化を生んだ。しかも、こんどは、ほとんど地球的規模の広がりを持った文化であった。何千マイルも隔てた商品、人間、思想が行き交うようになり、何十万、何百万という人びとが、職を求めて移動した。各地の農地で、てんでんばらばらに行なわれていた生産は、いまや都市周辺に集まった。膨大な人口が少数の地点に集中し、極端な人口密集地を形成した。古い村落は凋落した。煙突が林立し、溶鉱炉が立ち並ぶ産業の中心地が発生した。
 田園風景が一変して、都市と農村の間には、いままでより、はるかに入念な調整が必要になった。こうして、食糧、燃料、人間、原料が都市へ流れ込む一方、都市から農村へは製品、流行、思想、財政政策が流れた。この二方向の流れは、時間的にも空間的にも注意深く統合され、調整された。さらに、都市内部においても、いっそう多様多種な空間形態が要請された。古い農業体制のなかでの基本的建造物と言えば、教会、領主の館、それにみすぼらしい農家といったところで、ときたま居酒屋や修道院が加わる程度であった。だが、第二の波の文明の場合、分業がさらに複雑多岐になったため、目的別に特殊化された空間が、数多く要求されることになった。
 こうした理由から、まもなく建築家たちは事務所、銀行、警察、工場、鉄道のターミナル、デパート、監獄、消防署、養護施設、劇場などを建て始めた。さまざまなタイプの、これら変化に富む空間は、合理的に機能するように配置されなければならなかった。工場や家から商店までの道の位置、鉄道引込み線と積み降ろしホームや操車場との関係、学校や病院、水道管、発電所、地下配管、ガス管、電話局などあらゆる設備が空間的にうまく配置される必要があった。空間はバッハのフーガのように、細心の配慮をもって構成される必要があった。
 用途別に特殊化された空間をこのように入念に配置することは、適当な時に適材を適所に得るために不可決な条件であって、時間について同時化が進んだと同じように、空間の面でも、こうした変化が一般化したのであった。つまり、空間的同時化である。産業社会が機能するためには、それに先行する時代よりいっそう綿密に、時間と空間とを構成しなければならなかったのである。
 時間について、より正確で規格化の進んだ単位が必要になったように、空間についても、より正確で普遍的な単位が必要となった。産業革命以前、まだ時間が「主の祈りを唱える間」といった、大雑把な単位で分けられていたころは、空間の計測法もまた、ばらばらであった。中世イギリスでは、たとえば1「ルード」は、最短で16.5フィート、最長で24フィートをあわらした。16世紀当時、どうやって1ルードの長さを測ったかというと、最善の方法は、教会から出てくる男16人を任意に選び出し、「互いに左足と右足をくっつけて」一列に並ばせ、その列の長さを計るのがよいと言われていた。「馬で一日の距離」、「歩いて一時間」、あるいは、「馬を軽く走らせて30分」など、もっとあいまいな言い方もあった。
 ひとたび第二の波が労働形態を変えはじめ、目に見えない楔によって市場が拡大し続けると、こうした大雑把なやり方ではどうにもならなくなった。たとえば、貿易が盛んになるにつれて、正確な航海術がますます重要視され、各国政府は商船に正確な航路をとらせるため有効な方策を工夫した者には、莫大な褒賞をとらせた。陸地でも、ますます精密な計測と、より正確な単位が導入された。
 第一の波の文明の時代に幅を利かせていた地域によって異なる様々な習慣や法律、商取引の実態は、混乱と矛盾と無秩序とを伴うために、それらをすべて一掃して、合理的なものに改めなければならなかった。正確さの欠如と計測基準の欠落は、製造業者や新興の商人階級にとって、日常生活上の大問題であった。産業時代の黎明期にフランス革命を断行したブルジョアジーが、新暦による時間の規格化とメートル法による距離の規格化に示した熱意のほども、こうした背景から説明することができる。この問題はきわめて重要視され、国民議会が共和国宣言のために、はじめて召集されたとき、まっさきに採決すべき事項のひとつとされた。
 すべてを変えずにはおかない第二の波はまた、境界線の数を増加させ、しかも鮮明にした。18世紀まで、各王国の境界線は、厳密さに欠けることも少なくなかった。無人の土地が広域にわたっていたので、正確さを問われることもなかったのである。しかし、人口が増加し、交易が盛んになり、工場がヨーロッパ全域に建ちはじめると、諸国の統治者は、自国の国境を整然と地図に書き込むようになった。関税を課すべき境界について、とくに明確な線が引かれたのである。地方領や私有地さえも、前の時代とくらべると入念に境界を定め、標識を立て、囲いをつくり、記録をはっきりさせるようになった。地図はますます詳細をきわめ、包括的になり、規格化された。
 新しい時間像に対応して、ここにはっきり新しい空間像があらわれたのである。スケジュールを立て、時間を守って生活するようになると、いろいろな制約が生まれて期限を切られることが多くなったと同じように、境界線がここかしこに出現すると、空間的にも限界が設定された。時間の直線化に見合う現象が、空間についても起こったのである。
 産業化以前の社会では、陸海を問わず、直線をたどる旅は異例であった。農夫のとおる道、牛のとおる道、インディアンの踏み固めた道など、すべての道は地形なりに曲りくねっていた。町を囲む城壁も曲線を描き、ふくらみを見せるかと思うと、不規則な角度に折れ曲がっていた。中世都市の道路は相互に入り組んでおり、曲がったり、ねじれたり、うず巻き状だったりした。
 第二の波の社会は、船舶に正確な直線航路をとらせただけでなく、光り輝く二本の平行な線がどこまでも一直線に続く線路を敷設し、その上に汽車を走らせた。アメリカ合衆国政府の企業担当官グラディ・クレイが言及しているように、鉄道の線路(この言葉自体が無意識に直線的性格を物語っている)が、中心軸となって、その周辺に、基盤目状の新都市が出現した。直線を直角に組み合わせた碁盤目模様は、自然の景観に独特の機械的規則性と直線的性格を加えた。
 いまでもひとつの都市を丹念に観察すると、旧地区では街路、四角形の広場、円形広場、錯綜した交差点などが雑然と続いている。ところが、同じ都市内でも、時代をくだって産業化がさらに進行した段階で開発された地区では、しばしばこのような雑然たる状態に代わって、整然とした碁盤目状の都市があらわれる。こうした現象は、ある地域、あるいは国全体を見た場合にも同じことが言える。
 農地ですら、機械化によって直線模様を見せはじめた。産業化以前の社会では、農民は牛に畑を鋤かせたから、うねは不規則な曲線を描いた。農夫はいったん歩き出した牛を中途で休ませたくなかったので、牛はうねの端までくると大きくカーブして、畑にS字型に似た模様を描いた。しかし、今日、飛行機の窓から俯瞰すると、農地は四辺形に区画され、まるで定規でもあてたように直線の鋤き跡がついている。
 直線と直角の組み合わせは、農地や街路だけでなく、一般の人びとがもっとも見慣れた空間にもあらわれた。生活の場である住宅がそれである。産業時代になると、壁が曲線を描いたり、壁と壁が直角に交わらないような建築はめったに見られなくなった。整った直方体が不整形な部屋を駆逐し、高層ビルは空に向かって垂直に伸びていった。道路も一直線になり、それに面した建築の大きな壁面には、直線状、または碁盤目状に窓がつくことになった。
 こうして、われわれの空間についての観念と経験は、時間の線型化に並行して、空間の線型化という過程を経ることになった。資本主義社会、社会主義社会を問わず、洋の東西を問わず、すべての産業社会において、建築空間の特殊化、精密な地図、同形の反復、正確な計測単位、そしてなによりも直線が文化の恒常的特質となった。それは、新しい産業的現実像の基本だったのである。
(続く)

第八章 帝国主義への道(2-2)

2014年12月06日 23時20分19秒 | 第三の波
March,1980
Alvin Toffler, The Third Wave, William Morrow, New York, 1980
第三の波 昭和55年10月1日 第1刷発行 アルビン・トフラー著 徳山二郎 監修
鈴木建次 菅間 昭 桜井元雄 小林千鶴子 小林昭美 上田千秋 野水瑞穂 安藤都紫雄 訳

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第八章 帝国主義への道(2-2)
 
 アメリカ人による統合
しかし、統合する側もすべてが平等というわけではなかった。第二の波の国家の間でも、成長過程にある世界経済機構の支配権をめぐって、仲間うちで次第に血なまぐさい戦闘がはじまった。第一次世界大戦では優位に立っていたイギリスとフランスに対して、新興ドイツの産業力が挑戦した。戦争による破壊、それに続いたインフレと不況との破滅的なくりかえし、ロシアにおける革命、すべてが産業社会の世界市場をゆさぶった。
こうした激しい動乱は、世界貿易の成長率をひどく鈍化させ、貿易網の中に組み入れられた国の数はふえたにもかかわらず、実際に国際的に取り引きされた物資の量は減少した。第二次世界大戦は、さらに統合的な世界市場拡大の速度をおくらせた。
第二次世界大戦が終わった時、西欧は見わたすかぎりくすぶり続ける廃墟であった。ドイツではまるで月面のようにすべてが破壊されていた。ソビエトも人的、物的両面で、言語に絶する被害を出していた。
日本では、産業が破壊しつくされていた。主要な産業国列強のなかで、アメリカだけが、経済的被害を受けていなかった。1946年から1950年にかけて、世界経済は、国際貿易が1913年以降では最低のレベルに落ち込むという、ひどい混乱状態をむかえていたのである。
 そのうえ、ヨーロッパ列強が戦争によって打ちひしがれ、すっかり弱体化してしまったので、植民地が次から次へと独立を要求しはじめた。インドのガンジー、ベトナムのホー・チミン、ケニアのケニヤッタ、そのほかの反植民地主義者が排斥運動を盛り上げていったのである。
 したがって、戦火が収まる前に、戦後の世界産業経済が新しい基盤の上に立って再構成されなければならないということは、すでに明らかだった。
 二つの国が第二の波のシステムを再構成、再統合する仕事を引き受けた。アメリカとソビエトである。
 アメリカはその時まで、大帝国主義戦線では限られた役割しか演じていなかった。北米大陸におけるフロンティアを開拓していくなかで、この国もアメリカ大陸の原住民であるインディアンを、大量に殺戮したり、保留地へ押し込めたりしてきた。また、メキシコ、キューバ、プエルトリコ、フィリピンにおいては、イギリスやフランス、ドイツの帝国主義的戦略を模倣した。ラテンアメリカでは、今世紀はじめ何十年にもわたって、アメリカの「ドル外交」は、ユナイテッド・フルーツ社など多くの自国の大企業に、この地方から輸入する砂糖、バナナ、コーヒー、銅、その他の原料の低価格を保証してきた。にもかかわらず、ヨーロッパ諸国と比較すれば、アメリカは、活発な大帝国主義展開運動のなかでは、新参者にすぎなかったのである。
 これに対して第二次世界大戦後のアメリカは、世界最大の債権国として立ち現われた。この国は、最新の科学技術を保有し、もっとも安定した政治機構を誇った。そして、競合関係にあった列強が植民地から手を引かざるを得なくなったために生じた空白に乗じて、権力を握る絶交の機会をつかんだのである。
 1941年、早くもアメリカの金融政策立案者は、戦後の世界経済を自国にいちばん都合が良い方向で再統合する案を立てていた。国際通貨、金融問題を処理するために、1944年、アメリカの提唱でニューハンプシャー州ブレトンウッズで開かれた国際会議において、44ヵ国が二つの重要な統合組織の設立に同意した。国際通貨基金(IMF)と世界銀行である。
 IMFでは、参加各国が自国通貨の為替レートをアメリカのドルか、金との関係で固定させることを義務づけられた。そのドルも金も、当時はほとんどをアメリカがほゆうしていたのである。(アメリカの金保有量は1948年現在、世界全体の金保有量の72%を占めていた)IMFはこれによって、世界の主要通貨の基本的な関係を固定化したのである。
 一方、世界銀行は、当初、ヨーロッパ諸国に戦後の再建資金を提供するために設立されたのだが、私大に非工業国へも貸し付けを行なうようになっていった。主に道路、港湾その他いわゆる「基幹施設」の建設を目的とした貸し付けで、これらの施設は、結局、第二の波諸国への工業製品の原料や農産物輸出品の流れをスムーズにするのに役立ったのである。
 まもなく、このシステムに第三の要素が加わった。「関税および貿易に関する一般協定」、略称GATTである。この協定もまた、最初、アメリカによって推進されたもので、貿易の自由化を目指していた。したがって、この協定によって、実際には、比較的経済力や科学技術の面でおくれている国が、競争力の弱い自国の産業を保護することがむずかしくなった。
 IMFへの加盟やGATTの受け入れを拒否した国には、世界銀行の貸し付けを禁じるという規定があり、この3つの組織はかたく結びついていた。
 このシステムによって、アメリカに対して債務を負った国は、通貨や関税率を巧みに操作して負担を軽減するということがむずかしくなった。このシステムは、世界市場におけるアメリカの産業の競争力を強化した。そして第一の波の諸国が政治的独立を達成したのちにも、それらの国の経済計画に対して、産業化の進んだ強国、とくにアメリカの影響力が強化されたのである。
 これら相互に結びついた3つの期間が、世界貿易に対するひとつの、統合的な組織を形成した。そして、1944年から1970年代のはじめまで、基本的には、アメリカはこのシステムにのっとって政策を動かしていたのである。国家と国家の関係では、アメリカがほかの統合国をさらに統合していた、ということになる。

 社会主義国の帝国主義
 しかし、第二の波の世界に対するアメリカのリーダーシップは、ソビエトの台頭とともに、次第にその挑戦を受けるようになった。ソビエト社会主義共和国連邦そのほかの社会主義諸国は、みずから反帝国主義者を名乗り、世界の植民地化された国ぐにの友邦だと主張した。レーニンは政権を握る一年前、1916年に、資本主義諸国の植民地政策に対して痛烈な攻撃を行なった。彼の著作『帝国主義論』は、今世紀においてもっとも影響力のあった本で、いまなお、世界中の何百万という人びとの考え方を方向づけている。
 しかし、レーニンは帝国主義を純粋に資本主義的現象と見ていた。資本主義国は、彼の主張によれば、好んで他国を虐げ、植民地化するわけではなく、必要にせまられてそうするのだ、と言う。マルクスの主張のなかに、資本主義経済では、利潤は一般に時とともに逓減する傾向が避けられない、という説がある。多分に疑わしい学説だが、これは社会主義者にとってひとつの鉄則になった。この学説を前提にしてレーニンは、資本主義諸国が最終段階では自国内の利潤の逓減を補完するため、海外により大きな利益を求めることを余儀なくされる、と考えたのである。
レーニンが見のがしていたのは、資本主義にもとづく産業国家をつき動かしている原理原則の大部分が、社会主義に立つ産業国家をも同じように動かしているという点である。社会主義産業国もまた、世界的規模の貨幣制度を持つという点で資本主義国と変わりなかった。社会主義国の経済もまた、生産と消費の分離の上に成り立っていた。やはし、もういちど生産者と消費者を結びつける市場を必要としていた。(必ずしも利益をめざした市場ではなかったが。)社会主義国家もまた、自国の鉱業機械を運用するために、外国からの原料を必要としたのである。そして、これらの理由によって社会主義産業国もまた、自国の必需品を手に入れ、自国の製品を外国に売るための、統合された世界経済機構を必要としたのである。
実のところ、レーニンは帝国主義を攻撃した一方で、まったく同じ時に、社会主義の目的について「単に諸国間の関係を緊密にするだけでなく、国ぐにを統合することである」と言っている。ソ連の経済分析学者M・セニンが、その著書『社会主義的統合』のなかで書いているように、レーニンは1920年に「諸国の統合を・・最終的には共通の計画によって・・調整される単一の世界経済をつくり出すための、目的のはっきりした過程である」と考えていた。これはどちらかといえば、基本的には産業主義的見通しだった。
表面的には、社会主義産業国も資本主義国とまったく同じ資源の必要にかられていた。社会主義産業国も、自国の急速に増大する工場と都市人口に原料や食糧を確保するために、木綿やコーヒー、ニッケル、砂糖、小麦、そのほかの物資が必要だった。ソビエトは膨大な自然の資源に恵まれていた。(現在も依然として恵まれている。)マンガン、鉛、亜鉛、石炭、リン酸塩、それに金を保有している。しかし、同じ資源はアメリカも持っていた。だからといって両国とも、可能なかぎり低価格で他国から資源を買い続けることをやめたわけではなかった。
そもそも発端から、ソビエトは世界的な貨幣制度の一端を担っていた。いかなる国も、いったこの貨幣経済に組み込まれ、一般的な通商上の慣習を受け入れてしまうと、すぐ型に嵌ったように効率と生産性に関する定義にしばられてしまった。こうした定義自体、初期の資本主義までさかのぼることができる。そして社会主義国といえども、ほとんど無意識のうちに、伝統的な経済概念、カテゴリー、定義、会計手続き、一連の度量衡などを受け入れざるをえなかったのである。
こうして社会主義国の経営者や経済学者も、資本主義国の同業者とまったく同じように、自国で原料を生産する場合のコストと、外国から調達する場合のコストを比較計算した。「つくるか買うか。」資本主義国の企業が日々決断をせまられるのとまったく同じ明確な決断を迫られたわけである。そして、ある種の原料については、世界市場で購入した方が自国で生産するより安上がりなことが、すぐに明白になったのである。
いったんこの決定がくだされると、ソビエトの抜け目ない買い付け担当者がいっせいに世界市場に散って行き、あらかじめ帝国主義国の貿易業者が意図的に低くおさえていた価格で調達しはじめた。ソビエトのトラックは、イギリスの商人が、マラヤで定めた低廉な価格で買い付けたゴムでつくったタイヤやチューブで走り回ることになった。近年、ソビエトはさらに一歩をすすめて、ギニアにソビエト兵を駐屯させ、アメリカが1トン23ドルで買っていたボーキサイトを、6ドルで買っている。ソビエトはその製品をインドに入れるにあたり、ソビエトの国内より30%も割高な価格で買えと請求をしながら、インド製品をソビエトに入れるにあたっては30%も値引きを要求する。このことについて、インドはソビエトに抗議を申し入れている。イランやアフガニスタンは、ソビエトに提供した天然ガスの代金として、相場以下の金額しか支払ってもらえなかった。このように、ソビエトは資本主義国の競争相手と同じように、植民地
の犠牲によって利益を得たのである。もし、これ以外のやり方をやっていたら、ソビエトの工業化は大幅におくれていたであろう。
 ソビエトもやはり戦略的考察によって、帝国主義的政策に追い込まれた。ナチスドイツの軍事力に直面したソビエトは、まずバルト海沿岸諸国を植民地化し、フィンランドで戦争をはじめた。第二次大戦後は軍隊による侵略をちらつかせながら、東ヨーロッパのほとんど全域に、「友好的」政権を樹立ないし維持した。ソビエト自体より産業化の面では進んでいたこれらの国ぐにも、しばしばソビエトに搾取され、植民地ないし「衛星国」という性格を明白にした。
 新マルクス主義経済学者ハワード・シャーマンは、こう書いている。「第二次世界大戦直後の数年間、ソビエトが東欧の資源を、それに見合う見返りの物資を渡さずに自国に搬入した事実は疑う余地がない。露骨な略奪が行なわれ軍事的賠償が要求された。ソビエトが経営上の支配権を持った合弁企業が生まれ、ソビエトがこれらの国ぐにから利益を吸い上げたのである。また、極端に不平等な通商条約が締結され、結局、二重に賠償金を支払われているに等しかった。
 今日では、表面的には露骨な略奪は行なわれていないし、合弁企業も姿を消した。しかし、シャーマンはこうつけ加えている。「ソビエトと大部分の東欧諸国との間の交易は、ソビエトがずいぶん構成になった現在でも、いまだに不平等なものだと思われるふしが多い。」それでは、こうした手段で、どのくらい不当な利益を得ているのかということになると、ソビエトで出版される統計が不十分なため、はっきりした数字をあげることはむずかしい。おそらく、東ヨーロッパ全域にソビエト軍を駐在させておく軍事費は、こうした経済的利益を上回っているのであろう。しかし、議論の余地のない、明白な事実がある。
 アメリカが、IMF-GATT-世界銀行という構造をつくりあげたのに対し、ソビエトは「経済相互援助会議(COMECON)」をつくり、東欧諸国に加盟を強制することによって、唯一の統合的世界経済システムというレーニンの夢の実現に、一歩をふみ出したのである。COMECON諸国は、モスクワによってソビエトそのほか加盟国との通商を強制されたばかりでなく、自国の経済発展計画をモスクワに提出し、その承認を得なければならなかった。モスクワは、分業化することによって利益が大きくなるというリカードの学説を盾にとって、古い帝国主義的列強がアフリカ、アジア、ラテン・アメリカの経済に対して行なったのとまったく同じ政策を実行し、東欧諸国の経済に、それぞれ分業的機能を割りあてたのである。これに対して公然と、しかも腰のすわった抵抗を試みたのは、ルーマニアだけであった。
 ルーマニアは、自分たちの国を、ソビエトが「石油井戸つきの庭」にしようとしていると主張し、ルーマニアの多面的な発展、つまり偏りのない産業化をめざして歩みはじめた。ルーマニアはソビエトの圧力にめげず、「社会主義的統合」に抵抗したのである。要するに、アメリカが資本主義産業国の間でリーダーシップを発揮して、第二次世界大戦後、あらたに自国に有利な世界経済機構をまとめ上げていた間に、ソビエトも支配下の地域において、それに対応する機構とつくりあげていた、ということになる。
 帝国主義のように広大なひろがりを持ち、複雑で変転きわまりのない現象は、単純には説明できない。
帝国主義が宗教や教育、保健衛生、文学や美術の主題、人権問題に対する受けとめ方、世界各国の国民の心理構造に与えた影響は、より直接的な経済的影響と並んで、いまなお、歴史家たちが解明しようとしているところである。帝国主義は極悪非道なこともいろいろやった。評価すべき、積極的役割を果たした面もあることは疑う余地がない。しかし、第二の波の文明が興隆していくなかで帝国主義が果たしたマイナスの役割は、いくら強調しても強調しすぎることはない。
 われわれは帝国主義を、第二の波の世界が産業化を推進していく上での火付け役であり、先導者でもあったと考えることができる。アメリカや西欧、日本、ソビエトは、もし外国からの食糧やエネルギー、原料の導入がなかったとしたら、どうやって急速な産業化を実現できたであろうか。ボーキサイトやマンガン、スズ、バナジウム、銅のような、さまざまな必需品の価格が、もし何十年もの間、30%も50%も高かったとしたら、一体どうなっていたであろうか。
 おそらく、無数の最終製品の価格が、それにつれて高騰していたであろう。場合によっては、大量消費が不可能になるほど価格が高騰する製品もあらわれたにちがいない。1970年代初頭の石油価格の急騰による、いわゆる石油ショックを考えてみれば、起こりうる影響を、おぼろげにではあっても想像できるはずである。
 たとえ国産品で代替できる場合でも、第二の波に属する諸国の経済成長は、どう考えても遅れたであろう。帝国主義が利益をもたらさなければ、資本主義国であれ社会主義国であれ、第二の波の文明は、いまでもせいぜい1920年か1930年のような状態にあったのではないだろうか。帝国主義は、いわば第二の波の諸国の経済成長に、かくれた補助金を出していたことになる。
 いまや、全体的な見取り図がはっきり見えてきたと思う。第二の波の文明は世界を細分化し、それぞれ独立した国民国家に再構成した。そして、地球上の国民国家以外の地域の資源を必要とするところから、第二の波の文明は、第一の波の社会と、まだ地球上に残っていた未開民族とを貨幣経済に巻き込んだ。そして、全世界的に統合された市場をつくり出したのである。しかし、地球を席巻した産業主義とは、単に経済的、政治的、あるいは社会的体系だけの問題ではない。それは生活様式、ものの考え方の問題でもある。産業主義は、第二の波に特有の精神構造を生み出した。
 こうした精神構造が今日、第三の波の文明の展開をはばむ、最大の障害になっているのである。


 

第八章 帝国主義への道(2-1)

2014年12月03日 23時53分10秒 | 第三の波
March,1980
Alvin Toffler; The Third Wave, William Morrow, New York, 1980
第三の波 昭和55年10月1日 第1刷発行 アルビン・トフラー著 徳山二郎 監修
鈴木建次 菅間 昭 桜井元雄 小林千鶴子 小林昭美 上田千秋 野水瑞穂 安藤都紫雄 訳

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第八章 帝国主義への道
 
 いかなる文明も、ほかの文明と対決することなしに伝播することはない。第二の波の文明は、第一の波の世界に対して大がかりな攻撃を浴びせ、その闘いに勝利を収めた結果、何百万という人間、究極的には何十億という人間を、思うままに支配した。
もちろん、第二の波が起こるはるか以前の16世紀から、ヨーロッパの支配者は、広範囲にわたって植民地帝国を築きはじめていた。スペインの司祭と征服者、フランスのわな猟師、イギリス、オランダ、ポルトガル、イタリアの探検家などが地球を横断し、出会った人びとを次から次へと奴隷にしたり、虐殺したりしながら、広大な土地の支配権を手に入れ、祖国の王に貢ぎ物を送っていた。
しかし、これらすべては、そののちに起こった事態にくらべれば、とるに足りない出来事にすぎなかった。
これら初期の探検家や征服者が祖国に送った金銀財宝は、実際には、個人的な戦利品の域を出なかった。それは軍資金になり、私的な財産になった。たとえば、冬期滞在用の別荘といった、働くことを知らない安逸な宮廷人の、虚飾に満ちた個人生活を彩る資金になった。しかし、植民地主義国とはいえ、まだ本質的には自給自足の段階だったその国の経済には、ほとんど無関係だったのである。
貨幣制度とか市場経済とはまったく関係なく、太陽で焼かれたスペインの大地や、イギリスの霧深いbヒースの茂った荒野でどうにかこうにか暮らしを立てていた農奴は、輸出するものなど、ほとんど持ち合わせていなかった。かれらは、その地方で消費するだけのものさえ、十分栽培できないほどであった。もちろん、他国から盗んだり買い付けたりした原料を当てにすることはできなかった。ともかく、農民はぎりぎりの生活を続けていたのだ。外地を征服した成果は、農民として生きてきた一般大衆ではなくて、支配階級や都市を豊かにするだけだったのである。この意味で、第一の波の時代の帝国主義は、まだ採るに足らず、一国の経済に組み込まれていなかったと言ってよい。
第二の波は、この相対的にみれば小規模な、こそ泥的行為を大事業に変えてしまった。小帝国主義を、大帝国主義に変えたのである。
こうして生まれた新しい帝国主義の目的は、金やエメラルド、香料、絹などを、トランクにつめて持ち帰ろうとすることではなかった。大量の硝酸塩、木綿、ヤシ油、スズ、ボーキサイト、タングステンをどんどん船に積み込んで自国に運び込む、本格的な帝国主義が成立したのである。コンゴ川流域に銅山を掘り、アラビアに石油掘削装置をつくりあげることになる帝国主義の出現であった。植民地から原料を吸い上げ、それを加工し、さらに、完成した製品を植民地に吐き出して莫大な利益を吸い上げる帝国主義が成立した。要するに、もはや一国の経済と無関係な帝国主義ではなく、産業国家の経済の基本構造にしっかりと組み込まれた、何百万という労働者が、それに依存して暮らしを立てるような帝国主義が出現したのであった。
そして、それは単に働き口ができたなどいう問題ではなかった。新しい原料に対する需要に加えて、ヨーロッパでは、次第に食糧の需要が増加した。第二の波の国家が製造業中心となり、農業労働力が工場に集中されるようになるにつれて、より多くの食糧を海外から輸入せざるをえなくなったのである。インドから、中国から、アフリカ、西インド諸島、中央アメリカから、牛肉や羊肉、穀物、コーヒー、紅茶、砂糖が輸入された。
反対に、大量生産体制が確立するにつれ、新しい産業エリートはより大きな市場と、新しい投資の場の開拓を迫られた。1880年代から90年代にかけて、ヨーロッパの政治家は自分たちの目的を、臆面もなく、大っぴらに語った。「帝国は貿易によって成り立つ」と言ったのはイギリスの政治家ジョゼフ・チェンバレンであった。フランスの首相ジュール・フェリーは、もっとはっきりしていた。フランスに必要なのは「産業と輸出品と資本のはけ口である」と明言したのだ。好景気と不況の間を激しく揺れ動き、慢性的な失業に直面することによって、ヨーロッパの指導者は幾世代にもわたって、植民地の拡大が止まるようなことになると、失業が発生して自国に武力革命が起こるのではないか、という不安につきまとわれていたのである。
しかし、大帝国主義のルーツは、経済的要因にとどまらなかった。戦略上の配慮、宗教的情熱、理想主義、冒険心、これらすべてが一役買っていた。白人またはヨーロッパ人がほかの人種よりすぐれているということを無言の前提とした人権観も関係していたことは、言うまでもない。多くの人びとが、帝国主義的征服を、神に対する責任を果たすことだと考えていたのである。「白人に負わされた重荷」というイギリスの作家キップリングの表現は、キリスト教と「文明」をひろげようとしたヨーロッパ人の使命感を、端的に表現している。もちろんこの場合、文明とは第二の波の文明を意味する。植民地主義者たちは第一の波の文明がいかに洗練されていようと、複雑化していようと、それをおくれた文明、未発達な文明としか考えなかったからである。農業従事者は幼稚な存在とみなされた。たまたま有色人種に生まれついていれば、なおさらのことだった。かれらは「ずるくて不正直」だと決め付けられた。「勤勉でなく、生命の貴さを知らない」とされたのである。
こうした感じ方は、第二の波が勢力を伸ばしていく途上で、行き当たる人びとを片っ端から絶滅させることまで正当化しかねなかった。
『機関銃の社会史』のなかで、著者のジョン・エリスは、19世紀に完成された、この新しい、まさに致命的な武器が、まず最初に組織的に使われたのが未開の土地の「原住民」に対してであって、けっしてヨーロッパの白人に対してではなかったと書いている。対等の相手を機関銃で殺すのはスポーツマン精神に反すると考えられていた、と言うのである。しかし、植民地人を射殺することは、戦争というより、むしろ狩猟のようなもので、また別な基準で考えるべきことだとされていた。エリスは書いている。「南ローデシアのマタベレ族やイスラム教の托鉢苦行僧、それにチベット人をやっつけることは、本当の意味の軍事行動というより、むしろ、少々危険な一種の“遊猟会”だと考えられていた。」
スーダンの首都ハルツームからナイル川を渡ったところにあるオムドルマンという町で、この最新のテクノロジーの威力が遺憾なく発揮された。1898年、みずから救世主マーディと称してスーダン独立政府を樹立していたムハマド・アーメドにひきいられた回教僧が、六丁のマキシム機関銃で武装したイギリス軍によって打ち負かされたのである。目撃者はこう伝えている。「それは救世主マーディの降臨信仰と、偉大な指導者の最後であった・・とても戦争などと言えたものではなく、まるで処刑であった。」このたった一回の交戦によって、イギリス人の死者28人に対して、回教僧の死者は、実に、1万1,000人にのぼった。なんと、イギリス人ひとりに対して、植民地人は392人も死んだのである。エリスは、続けて次のように書いている。「この戦いがまた、イギリス精神の勝利の例となり、白人一般の優越性の証しになったのである。」
イギリス人、フランス人、ドイツ人、オランダ人などが世界中にひろめた人種差別的考え方や、宗教的信念による正当化などの背後に、ひとつの冷厳な事実があった。それは、第二の波の文明が、単独では存続できないということである。外部から安い原料が入るということが、いわばかくれた補助金のようなもので、これなしにはどうにもやっていけないのである。第二の波の文明にとってなにより必要だったのは、こうした補助金を吸い上げるサイフォンの役目を果たす、統合的なひとつの世界市場だった。

庭の石油井戸
統合されたひとつの世界市場をつくりあげようという動きの根拠にあった考え方は、イギリスの経済学者ディビッド・リカードの「分業は工場労働者と同様に、国家の間にも適用されるべきである」という言葉に、もっとも端的に表現されている。リカードは、有名な一節でこう指摘した。「もしイギリス人が繊維産業を、ポルトガル人がブドウ酒醸造を専門とするならば、両国ともに利益がある。各国がおのおの自国のもっとも得意とする産業に従事すればよいのだ。そうすることによって“国際的分業”が成り立ち、さまざまな国がそれぞれ限定された役割を担うことになって、すべての国が潤うことになるであろう。」
この信念は、その後数世代を経る間に不動のドグマになってしまい、今日でも、世間一般に幅広い説得力を持っている。しかし、この考え方の言外の意味には、気づいていない人が多い。どのような経済体制のもとでも、分業にはどうしてもまとめ役が必要となり、そのために統合のためのエリートが発生したわけだが、国際的分業の場合もまったく同じように、全世界的な統括者が必要となり、そのため、世界的な規模で、国際的なエリートを生むことになったのである。これが第二の波に属する少数国家のグループで、これらの国が、あらゆる現実的な目的のために、ほかの大多数の国ぐにを交代で支配してきたのである。
ひとつの総合的な世界市場をつくり出そうという積極的な努力が成功を収めたのは、ヨーロッパがひとたび第二の波をかぶると、世界貿易がおどろくべき成長ぶりを見せたことからも明らかである。1750年から1914年の間に、世界貿易の取引額は50倍以上、7億ドルからほぼ400億ドルにまで増加したと推定される。もしリカードの説が正しかったとすれば、この世界貿易の利益は、多少の差はあれ、すべての取引参加国に平等に分配されていたはずである。だが実際には「分業化することこそすべての国の利益になる」という身勝手な信念は、公正な競争というありもしない幻想の上に成立していたのである。
この説は、労働と資源の完全に効率的な利用を前提にしていた。政治力や軍事力に威嚇されない、公明正大な取り引きを前提にしていた。多少なりとも対等にわたり合える契約当事者間の、普通の相対取引関係を前提としていたのである。要するに、リカードの理論は現実そのものを見逃していた。
現実には、第二の波に属する商人と第一の波に属する人びととの間の砂糖や銅、ココアそのほかの資源をめぐる売買交渉は、しばしば、まったく一方的なものであった。テーブルの一方には、金勘定に抜け目のないヨーロッパ人またはアメリカ人が、大会社や銀行の広大なネットワーク、圧倒的なテクノロジー、強力な政府を背にして座っており、もう一方には、ほとんど貨幣制度さえ知らず、小規模な農業か素朴な工芸に基礎をおいた経済生活を送っている人びとを従えた、地方領主か族長が座っていたはずである。一方に座っていたのは力づくで押してくる機械力の進んだ文明の代表者であり、自分たちの優越性を確信し、すぐにも銃剣や機関銃で、その優越性を証明しかねなかった。それに対しもう一方に座っていたのは、武力といっても弓や槍しか持たない、まだ国民国家以前の小さな部族国家か、属国の代表にすぎなかった。
後進国の支配者や企業家は、西欧人の手にかかると簡単に金でだまされてしまい、賄賂とか個人的な利得に目がくらんで、原住民の労働力を搾取されるにまかせ、抵抗運動を抑えたり、法律を外国人に遊離に変えてしまうなどということも多かった。ひとたび植民地化してしまうと、帝国主義国は原料の価格を自国の企業家に都合のよいように定め、競争国の貿易関係者が価格の引き上げをできないように、堅固な防衛壁をつくってしまうのである。
このような状況のもとで、産業化の進んだ国ぐには、当然自由競争の市場価格より安く、原料やエネルギー資源を手に入れることができた。
しかも、価格については「最初の価格はすべてを決める」とでも言うべき法則があって、さらに買い手に都合よい低廉な価格が設定された。第二の波の国ぐにが必要とした原料の大部分は、その所有者である第一の波のもとで生活している人びとには、実際上、ほとんど無価値であった。アフリカの農民にはクロムなど必要なかったし、アラブの族長は、自分たちの住む砂漠の砂の下にある黒い黄金、石油の使い道を知らなかった。
ひとつの商品について、それまで売買の実績が無い場合には、最初の取り引きで決まった価格が、決定的な意味を持った。そして、価格はコストとか利益、競争といった経済的要素よりも、相互の軍事力とか政治力によって左右された。これといった競争相手がいないのが典型的なケースであり、こうした場合、自分の手持ちの資源の価値を知らなかった首長や族長は、ガトリング砲を備えた軍隊の大群に囲まれてしまうと、ほとんど買い手の言いなりの価格を認めてしまった。そして、この「最初の価格」がひとたび安く決まってしまうと、それ以後の価格は、みなそれに引きずられて低くなってしまうのだった。
安い原料が船で産業国に持ち帰られ、最終的な産物として商品化されると、はじめの低価格は、事実上、がっちり固定されてしまった。結局、こうしてあらゆる商品について世界価格が確立し、すべての産業国は「最初の価格」が無競争で低レベルに設定されるという事実によって、多大の恩恵をこうむった。したがって、帝国主義者たちが弁舌さわやかに自由貿易、自由企業の美徳を強調したにもかかわらず、第二の波の国ぐにには、婉曲に言えば「不完全競争」によって、大きな利益をあげたのであった。
帝国主義者のレトリックやリカードの学説にもかかわらず、貿易を拡大したことによる利益は、平等に分配されはしなかった。利潤はおもに、第一の波の世界から第二の波の世界へと流れたのである。

マーガリンのためのヤシ農園
第一の波の世界から第二の波の世界への利潤の流れを容易にするために、産業主義列強は、懸命に世界市場を拡大し、統合していった。商業が国境を越えて行なわれるようになると、各国単位の市場は、より大きな、相互に関連を持った一定地域、またはひとつの大陸全体の市場連合体の一部になり、ついには、第二の波の文明を支配する統轄エリートが夢みていた、たったひとつの、一体化した交易システムの一部
になってしまった。世界中が、金銭で織り上げられた一枚の織物と化してしまったのである。
 第二の波の国ぐには、世界のそれ以外の国を、すべて自分たちのガスや食糧、石炭、石材、それに安い労働力の供給者として扱い、地球上の非産業国の人びとの社会生活に、深刻な変化を与えた。何千年も、自分たちの食糧はみずからの手で作り出す自給自足の生活を続けてきた人びとの文化が、否応無しに世界貿易のシステムに巻き込まれ、貿易をするか滅亡するかの選択を迫られたのである。貪欲な産業国の胃の腑を満たすためのスズ鉱山やゴム園が出現するとともに、突然、ボリビア人やマラヤ人の生活水準は、地球の裏側の産業経済に左右されることになってしまったのだ。
 家庭用の原始的なマーガリンづくりの変貌は、この間の事情を明らかにする、まことにドラマチックなケースである。マーガリンはもともとヨーロッパで、その地方特有の材料を使ってつくられていた。ところが、マーガリンづくりがあまり盛んになったので、そうした手近な材料が不足してきたのである。1907年、研究家はココナッツとヤシ油でも、マーガリンができることを発見した。ヨーロッパにおけるこの発見が、西アフリカ人の生活様式に、大混乱をひき起こしたのである。
 イギリス食糧科学技術研究所の前所長マグナス・パイクはこう書いている。「長年ヤシ油をつくってきた西アフリカ主要部では、土地は共同体全員の共有であった。」ヤシの木の利用を規定していたのは、複雑な地方ごとの習慣や規則であった。ある場合には木を植えた人間が、死ぬまでその木になる実を自分のものにする権利を与えられた。場所によっては、女性が特権を持っていたところもある。パイクの記述によれば「ヨーロッパやアメリカの産業社会の住民が、手近な店でいつでもマーガリンを買えるようにするため、欧米の企業家はヤシ油の大規模な生産組織をつくりあげた。ところが、これが産業化されていない、複雑な、外圧にはひとたまりもないアフリカ人の社会組織を破壊してしまった。」ベルギー領コンゴ、ナイジェリア、カメルーン、アフリカ西部のイギリス植民地ゴールドコーストに、壮大なヤシ農園がつくられた。西欧人はそこからマーガリンを入手したが、アフリカ人はこれら大農園で、半奴隷の状態におちいったのである。
 もうひとつの例がゴムである。今世紀のはじめ以降、アメリカにおける自動車の製造が、タイヤとチューブの原料であるゴムの需要を、突然、大幅に高めた。貿易業者は現地の支配者と結託してゴムの生産に従事するアマゾン流域のインディアンを、奴隷のように使った。リオデジャネイロ駐在のイギリス領事ロジャー・ケースメントは、「アマゾンの支流プトゥマヨ川流域で、1900年から1911年の間に4,000トンのゴムが算出されたが、このため三万人のインディアンが死んだ」と報告している。
 これらは「極端な」場合であって、大帝国主義の典型的な例とは言えない、という反論もありうるだろう。たしかに、植民地主義列強は、常に残酷無比だったわけではない。場合によっては支配下の住民のために、学校が建てられ、初歩的な保健施設も設けられた。衛生設備、上下水道なども改善された。一部の人びとの生活水準を引き上げたことは明らかである。
 また植民地主義以前の社会をロマンチックに理想化したり、今日の非産業国の貧困の原因を、もっぱら植民地主義に求めてこれを責めることも、公平な態度とは言えないであろう。貧困の原因には風土、その地方の道徳的水準の低さ、専制政治、無知、外国人嫌い、その他もろもろの原因が作用している。ヨーロッパ人がやってくるずっと以前から、さまざまな窮状や圧制はあったのだ。
 にもかかわらず、ひとたび自給自足の生活が破れ、金銭のため、交易のための生産を余儀なくされ、自分たちの社会組織を、たとえば鉱業や大規模農園を中心に再構成するように奨励されたり強制されたりすると、第一の波の社会の住民は、自分たちの手ではほとんど動かすことのできない市場に、経済的に依存せざるをえない状態に追い込まれてしまった。指導者はしばしば買収されてしまうし、固有の民族文化は嘲笑の対象に変わり、自分たちの言語をしゃべることも禁止された。その上、植民地主義列強は、被征服民の心のなかに、深い劣等感を植え付けてしまった。この劣等感が、今日なお、かつての植民地の経済的、社会的発展にとって、ひとつの障害になっている。 
 しかし、第二の波の社会では、大帝国主義はみごと成功したのだ。経済史家ウィリアム・ウッドラフが書いているように、「これら領地の開発と、その領地を相手とした貿易の増大こそ、西欧諸国民の家族を、歴史上かつてない規模で豊かにしたのであった。」第二の波の経済機構そのものと深く結びついて、あくことのない資源の需要を満たしながら、帝国主義は地球上を席巻していったのである。
 1492年、コロンブスが最初に「新世界」に足を踏み入れた時、ヨーロッパ人が支配していたのは、地球上のわずか9%にすぎなかった。それが、1801年には三分の一を支配しており、1880年には三分の二に達した。そして1935年には、ヨーロッパ人は地球上の陸地の85%、全人口の70%を、政治的に支配するにいたった。第二の波の社会と同じように、世界が統合する側と統合される側に分かれたのである。



第七章 国家に対する熱狂

2014年11月20日 21時08分07秒 | 第三の波
March,1980
Alvin Toffler; The Third Wave, William Morrow, New York, 1980
第三の波 昭和55年10月1日 第1刷発行 アルビン・トフラー著 徳山二郎 監修
鈴木建次 菅間 昭 桜井元雄 小林千鶴子 小林昭美 上田千秋 野水瑞穂 安藤都紫雄 訳

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第七章 国家に対する熱狂
 
 アバコ島は人口6,500、フロリダ海岸沖の、バハマ諸島のひとつである。数年前、アメリカ人実業家、武器商人、政府の規制を最小限にすべきだとする「自由企業」論者、それに黒人情報工作員とイギリス上院議員といった人びとからなるグループが、いまこそ、アバコは独立を宣言すべき時だ、という断定をくだした。
 かれらは原住民に、革命が成功すれば、ひとり当たり1エーカーの土地を無償で与えると約束し、バハマ当局の支配を排して、島を接収しようともくろんだのである。(実現すれば、島の住人に1ケーカーずつ与えても、なお、陰謀を背後で操った不動産業者や出資者に、25万エーカー以上の土地が残るはずであった。)かれらの最終的な夢は、アバコ島に税金のないユートピアを建設することであった。そうすれば、社会主義が蔓延して自分たちの存立基盤を失うという終末論的恐怖心にかられた富裕な実業家連中が、このユートピアに逃げ込んでくる、と考えたのである。
 残念ながら、アバコ島民は束縛をたち切ろうとせず、新しい国家をつくるという計画は流産に終わった。
 しかし、世界各地で独立運動があいつぎ、国家間の同業組合とも言うべき国連に152ヵ国が加盟しているといった現状では、こうした独立運動の茶番劇も、きわめて重要な問題を含んでいる。つまり、国家とはいったいなにかという本質的な問題を、われわれに提起しているのである。
 アバコ島6,500の住民は、奇特な実業家から資金援助を受けるかどうかはともかく、国家をつくりえたのだろうか。シンガポールが人口230万で国家なら、なぜニューヨーク市は、800万の人口がありながら国家ではないのか。ニューヨークのブルックリン区は、ジェット爆撃機さえ持てば国家と言えるのであろうか。ばかげた話だと一笑に付されるかもしれないが、いまや第三の波が第二の波の文明をその根底から揺り動かしているとき、この問いはけっして無意味ではないだろう。というのは、第二の波の文明の基礎のひとつが、ほかならぬこの国民国家だったからである。
 第三の波が第一の波と第二の波の双方にはげしく打撃を加えている現在、我々は民族主義の問題をめぐるあいまいな論議に決着をつけないかぎり、新聞紙上をにぎわしている出来事を理解することもできないし、第一の波と第二の波とのぶつかりあいを理解することすらできない。

 馬を乗り代える
 第二の波がヨーロッパ全土に打ち寄せる以前、世界のほとんどの地域は、まだ国家というものに整理統合されていなかった。当時の世界は、部族、氏族、公爵領、公国、王国など、多かれ少なかれ特定の地方に限られた単位に分かれ、それらが混在していたにすぎない。「国王や属国の君主は、ほんのわずかな権限しか持っていなかった。」と、政治学者のS・F・ファイナー教授は書いている。国境は明確になっていなかったし、政府の権利も、はっきりしなかった。一国の支配力にもまだ基準がなく、地方によってばらばらだった。ファイナー教授によれば、ある村では風車の使用料を徴収するのがせいぜいで、ほかの村では農民から税金をとりたて、また別のところでは修道院の院長を任命する、といった程度であった。ひとりの個人が各地に資産を持っていれば、何人もの国王に忠誠を捧げることになったろう。もっとも偉大な皇帝でさえ、ちっぽけな地方自治体の寄せ集めを統治していたにすぎない。政治的な支配力は、まだ場所によって一様ではなかった。「ヨーロッパを旅行するときは、馬をしばしば乗り代えるように、法律まで乗り代えなければならない」と言うヴォルテールの嘆きは、この状態を端的に要約している。
 もちろん、この警句にはさらに深い意味があった。馬を頻繁に乗り代えなければならないということは、輸送力と通信手段が原始的な水準にとどまっていたということであり、君主がどんなに権力を持っていようと、その支配力を効果的におよぼしうる範囲は、それによって限られてしまう。首府から遠ざかれば遠ざかるほど、国の権威は弱まっていった。
 政治的統合がなければ、経済的統合も不可能であった。多額の資金を必要とする第二の波の新しいテクノロジーは、地方市場の範囲を越えた、より大きな市場に向けて商品を生産することによって、はじめて採算がとれた。しかし、企業家が自分たちの所属する共同体を一歩踏みだすと、さまざまな関税や、税金、労働条件があり、また通貨も異なっているとしたら、とても広域にわたる売買などできるはずがなかった。新しいテクノロジーが利益を生むためには、各地の経済が、全国的なひとつの経済に統合されていなければならなかった。つまり、全国的見地から見て分業が成立し、商品と資本のための全国的な市場が開かれなければならなかった、ということである。そのためには、結局、政治的にも、全国的な統合が必要になった。
 簡単に言えば、第二の波の経済単位の規模が拡張していくにつれ、第二の波の政治単位も、その規模を拡大していかざるをえなかった、ということである。
 当然のことながら、第二の波の社会が全国的な経済圏を確立すると、明らかに大衆の意識にも根本的な変化がもたらされた。第一の波の社会における小規模な、特定の地域に限られた生産形態は、地方色豊かな人間を育てあげた。かれらの多くは、もっぱら近隣や自分たちの村にしか関心を持たなかった。例外はごく少数で、二、三の貴族や僧侶、各地に散在していた商人、それに社会の片隅で生きていた芸術家や学者、傭兵、こういった人びとだけが、村の外にまで関心を払っていたにすぎない。
 ところが、第二の波が到来すると、たちまちのうちに、より広い世界に利害関係を持つ人間がふえていった。蒸気や石炭を基礎にするテクノロジーと、そののちの電気の出現によって、フランクフルトの衣類、ジュネーブの時計、マンチェスターの織物などの製造業者なら、だれでも、地方の限られた市場ではさばききれないほど、生産量を上げることができた。かれらはまた、遠方からの原料を必要とした。工場労働者でさえ、何千マイルも離れた遠隔地の、金融の成り行きに影響を受けるようになった。つまり、仕事が遠隔地の市場に左右されることになったのである。
 こうして心理的な地平線が、少しずつひろがっていった。新しいマスメディアが、遠方からの情報やイメージを増加させた。これらの変化が刺激になって地元偏重の考え方は後退し、国民意識が芽生えた。
 アメリカの独立とフランス大革命に端を発し、19世紀を通じて高揚し続けた国家というものに対する熱狂は、世界の産業化地域を席巻していった。ドイツの350にのぼる小規模で多様な、互いに反目し合っていた小国が、連合して、ただひとつの国民的な市場をつくりあげる必要がでてきた。これが「祖国ドイツ」である。当時のイタリアは、サヴォイ家、教皇、オーストリアのハプスブルグ家、スペインのブルボン家によって、分割統治されていたが、これも統一の必要があった。ハンガリー人、セルビア人、クロアチア人、フランス人、そのほかすべての民族が、にわかに自分たちの同胞に対して、神秘的ともいうべき親近感を抱くようになった。詩人は愛国心を謳いあげた。歴史家は、長い間忘れられていた国民的英雄や、文学、民間伝承を再発見した。作曲家は民族への頌歌を書いた。それらの現象はすべて、まさに工業化がそれを必要とした時点で起こったのである。
 統合が産業の面から必要だったということさえ理解すれば、国民国家とはなんであるかが明らかになる。国家は、シュペングラーの言うように「精神的な統一体」でもなければ、「心の共同体」あるいは「魂を共有する社会」でもない。また国家は、ルナンの言葉のように「記憶の豊かな伝承」でもなく、オルテガが主張するように「未来についての共有のイメージ」でもない。
 われわれが近代国家と呼ぶものは、第二の波に特有なひとつの現象である。統合された唯一の政治的権威は、統合された単一の経済と表裏一体をなし、不可分に結びついている。地域ごとに自給自足し、相互の関連が稀薄な経済がいくら寄り集まっても、国家とはなりえない。地域経済の雑多な集積の上に、かりにゆるぎない統一的政治制度が成立したとしても、それは近代国家ではない。統一された政治制度と統一された経済、この二つの融合こそが、近代国家をつくり上げたのである。
 アメリカ、フランス、ドイツ、そのほかのヨーロッパの国ぐににおいて、産業革命が引き金となって起きた民族主義者の蜂起は、政治的統合の水準を、第二の波がもたらした、急速な経済的統合の高まりにまで引き上げようとする努力であったと見ることもできよう。世界が特徴のはっきりした国家の国境線で区分されるようになったのは、詩などの持っている神秘的な影響力によるものではなく、こうした努力の結果であった。

 黄金の大釘
 各国の政府が、みずからの市場と政治的権威を拡張していこうとすると、すぐに限界につき当った。言語のちがいや、文化的、.社会的、地理的、戦略的な障害にぶつかったのである。ひとつの政治組織によって効果的に統治しうる領域をいかにひろげようとしても、輸送力や通信手段が整備されているか、エネルギー供給や技術的生産力が見合っているかどうかといった、もろもろの事業が制約として働いたのである。さらに会計手続き、予算管理、行政手段などがどれほど洗練されているかによっても、政治的統合のおよぶ範囲は限定された。
 これらの制約のなかでまとめ役をつとめたエリートは、企業のエリートも政府のエリートも同じように、規模の拡大をめざして闘ったのである。支配下の地域がひろがればひろがるほど、また、経済市場が拡大すればするほど、富と権力は増大した。各国が経済的、政治的フロンティアを極限まで押しひろげていけば、その国固有の限界にぶつかるだけではなく、競争相手の国家とも衝突することになった。
 こうした限界を打ち破るために、まとめ役をつとめたエリートたちは、高度なテクノロジーを利用した。かれらがとびついたのは、たとえば19世紀の「宇宙開発競争」、つまり鉄道の建設であった。
 1825年9月、イギリスでストックトンとダーリントン間に、鉄道が敷設された。ヨーロッパ大陸では、1835年5月、ベルギーでブリュッセルがマリーヌと結ばれた。その年の9月、ドイツのババリア地方でニュールンベルクとフュルト間に、翌年、フランスでパリとサンジェルマン間に鉄道が開通した。ずっと東では、1838年4月、ロシアでツァースコエ・セロがペテルスブルクと結ばれた。その後30年あまりの間、鉄道労働者たちはつぎつぎに鉄路を開き、地域と地域を結んでいった。
 フランスの歴史家シャルル・モラゼは、こう説明している。「1830年にほぼ統一を終わっていた国ぐにには、鉄道の出現によって、結束を強固にした・・・だが、まだ統一の気運が熟していなかった国ぐににとっては、鉄道は新たな鋼鉄のたがであり、・・・この鋼鉄のたがが、未統一の国ぐにを外側から締めつけた・・・やがて近代国家としてまとまる可能性のある国ぐにには、輸送体系を確立することによって国家として認知されるために、鉄道が建設される以前から、あわてて国家としての存立権を宣言している観があった。事実、その後1世紀以上にわたって、ヨーロッパの政治的境界線を確定したのは、輸送体系であった。
 アメリカでは、歴史家ブルース・マズリッシュが書いているように、政府は「大陸横断鉄道が大西洋岸と太平洋岸の連帯の絆を強めるであろうと確信し」、広大な土地を民間の鉄道会社に譲渡した。最初の大陸横断鉄道の完成を記念して打ち込まれた黄金の大釘は、まさに、アメリカ合衆国が全大陸的な規模で統合された象徴である。それはまさに全国的な市場への門戸が開かれたことを意味したのだ。これによって、政府の全国に対する支配権のどこへでも、すみやかに軍隊を送りこみ、その権威に従わせることができるようになった。
 このように各地でつぎつぎに国家という新しい強力な実体の発生するという事態が起こったのである。世界知事は、赤、ピンク、オレンジ、黄、緑といった色によって、整然と、しかも重なり合うことなく色分けされるようになった。そして国民国家(ネーション・ステート)という体系は、第二の波の文明を支える主要な基本構造のひとつとなったのである。
 国家成立のかげには、統合を促進しようという、産業主義のきわめて強い要請がかくされていた。
 しかし、統合は、国民国家それぞれの国境ではとどまらなかった。産業文明は、その強大な力にもかかわらず、外部から栄養をとらなければ存続しえなかったのである。産業文明は、世界のほかの地域を貨幣経済に巻き込み、貨幣経済というシステムを、おのれの利益のために支配しないかぎり、生き延びるすべがなかった。
 それがどのようになされたかは、第三の波がつくる世界を理解するうえでも、きわめて重要である。