2006.6.7 REVOLUTIONARY WEALTH 富の未来(上)
日本語版に寄せて
最近、皇太子家の長女、愛子さまがご夫婦とともに幼稚園の入園式に出席されたと報じられた。この明るいニュースと並んで、全国各地で暴力団事務所などの家宅捜索が行われ、ロシアやフィリピンから密輸した武器が押収されたと報じられている。この二つのニュースは、日本の未来の対照的な動きを象徴しているかもしれない。一方は愛と学習を、他方は犯罪と対立を示している。
いまの日本のニュースをつぎつぎに読んでいくと、不思議な組み合わせや矛盾がいくつも目につく。たとえば、教育水準の高い労働力の必要が叫ばれる一方、日本の学校は危機的状況にあり、今後五年に私立大学四十八校が倒産すると予想されている。外交でもそうだ。日本は中国との間で強固な経済関係を築いているが、政府関係は危険なほど悪化しており、両国でナショナリズムが強まっている。
これらのいくつかの例は、革命的な富の波がアメリカ、アジアをはじめ、世界各地に広がっているなか、日本がはるかに深い水準で課題に直面していることを示すものだとみられる。
さまざまな変化が奔流のように押し寄せる混乱した現状で、日本は今後、どうなるのだろうか。穏やかな成長だろうか。長期の停滞だろうか。勃興する中国に圧倒された没落なのだろうか。日本が過去三十年に指導的な地位を確立したのはなぜで、いまはそれを失おうとしているのはなぜなのか。日本はどのような手段をとれば、あらゆる形の富を変えている革命にふたたび参加できるようになるのだろうか。
本書では、経済だけでなく、企業や文化、制度、社会で変化の必要をもたらしている新しい力を描いていく。日本の各界の指導者がこの力を理解しなければ、日本は今後、繁栄していくことができない。
いま、日本の未来がどうなるよう期待するかと問われれば、1970年代と80年代の成功を再現を期待すると答える日本人もいるはずだ。しかし、昔に戻ることはできない。そして、小さな改革を積み重ねて既存の制度を変えていっても、いま、さまざまな分野で勃興している新しい富の制度の要求にはこたえられない。(以下略)
はじめに(抜粋)
~何よりも重要な動きが、富の歴史的変化という動きが、それほど重要ではないニュースの氾濫の中で見失われているか、目立たなくなっている。本書はこの見失われた動きを描くことを目標にしている。
(中略)
富の創出に当たって知識の重要性が着実に高まっており、いまではこれがはるかに高い水準に飛躍し、多数の境界を越える段階に達している。世界の頭脳バンクが成長を続け、変化を続け、利用しやすくなりつづけており、これに接続する地域が世界の中で増え続けているからである。この結果、人類は豊かな人も貧しい人もみな、革命的な富の体制の中で、少なくともその影響を受けて生活し、働いている。
いまでは「革命」という言葉はじつは気楽に使われるようになった。新しいダイエットも「革命」と呼ばれ、政治的な激変も「革命」とされて、本来の意味が失われている。
本書では「革命的」という言葉を、影響の及ぶ範囲をもっとも広くとったときの意味で使っている。いま起こっている革命の規模と比較すれば、株式市場の暴落、政権の交代、新技術の導入、さらには戦争や国の解体すら、「革命的」とはいえない。
本書で取り上げる革命的な変化は、産業革命に匹敵するか、それを上回るほど大規模な激変である。相互に関係がないように思える何千、何万もの変化が積み重なって、新しい経済体制になり、産業革命によって「近代」が生まれたように、まったく新しい生活様式と文明が生まれる、そういう激変である。
(中略)もうひとつ、「富」という言葉について。
いま、ほとんどの人は金銭経済のもとで生活しているが、本書でいう「富」は金銭だけを意味するわけではない。生活を支えているものにはもうひとつ、ほとんど探求されていないが、じつに魅力的な並行経済がある。この並行経済でわれわれは、金銭を使わないまま、多数の必要や欲求を満たしている。この二つの経済、金銭経済と非金銭経済を組み合わせたものが、本書にいう「富の体制」である。
相互に関係するこの二つの経済で同時に革命が起こっており、過去に例のない強力な富の体制がいま、生まれようとしているのである。
この革命がいかに重要なのか理解するには、どの富の体制も単独で存続しているわけではない事実を認識しなければならない。富の体制は確かに強力だが、もっと大きな体制を構成するひとつの部分にすぎない。社会、文化、宗教、政治など、大きな体制を構成する他の部分とともに、常に互いに、そして大きな体制との間で、フィードバックを繰り返している。この全体の文明、生活様式になっていて、その時代の富の体制にほぼ見合ったものになっている。
このため、本書で革命的な富の体制について論じるとき、それが他の部分のすべてと関連していることをかならず考慮している。いまの時代にそうなっているように、富の体制で革命が起こるときにはかならず、前述の面など、生活のさまざまな面に変化が起こり、それに伴って既得権益集団の抵抗にぶつかることになる。本書は以上のような基本的な見方に基づいており、この見方を理解すれば、何の意味もないようにみえる無数の変化と衝突、いま荒れ狂っている変化と衝突に一貫した意味があることが分かるようになる。(中略)
だが経済学はどの学問にもまして、現実の生活に根ざしていなければならない。二人の筆者のどちらにとっても、若いころの「現実の生活」には、工場で働いた忘れがたい五年間がある。押し抜き機や組み立てラインで働き、自動車や航空機エンジン、電球、エンジン・ブロックなどの製造にくわわり、鋳物工場のダクトのなかをはいまわり、大ハンマーを振るうといった肉体労働を行った。こうして、製造業が底辺からどうみえるかを学んだ。失業がどういうものかも、実感している。(中略)
もちろん、未来を知ることは誰にもできない。とくに、何かがいつ起こるのか、確実なことは誰にも分からない。このため、本書で未来について論じている点はすべて「おそらくそうなるだろう」「筆者の意見ではそうなるだろう」という意味であることをここでお断りしておく。何度も同じ言葉を使えば読者の眠気を誘うことになるので、そのたびに但し書きを繰り返すことはしない。~もうひとつ、避けがたい現実を忘れないようお願いしたい。すべての説明は単純化である。
本書の執筆の過程について、重要な事実を二つ記しておきたい。
本書の執筆には十二年かかったが、運良くスティーブ・クリステンセンの支援が得られなければ、もっと長くかかっていたはずだ。あるとき、筆者はクリステンセンに本書の仕上げを手伝ってくれる編集者を推薦するよう依頼した。ありがたいことに、それなら自分が引き受けようといってくれた。大手通信社のUPIで西部地区編集者をつとめた後、ロサンゼルス・タイムズ・シンジケートの編集長兼ゼネラルマネジャーだった経験豊かなジャーナリストであり、三年前に本書の執筆に参加した。まさに一流の編集者だといえる仕事ぶりだった。そして、それ以上に、規律、頭脳、温かさ、優しさ、明るく皮肉っぽいユーモアのセンスを持ち込んだ。執筆の作業が楽しくなり、友情を深めることができた。
最後に、筆者夫婦の一人っ子、カレンの病気が長引き、ついに死亡したために本書に集中できなくなり、執筆が長引くことになった。妻のハイジは何年にもわたって昼夜を問わずカレンの病床に付き添い、病気と闘い、病院の官僚制度と闘い、医療の無知と戦ってきた。このため当然ながら、本書の執筆にはときおり参加できるにすぎなかった。それでも、本書の基礎にある想定、考え、モデルは夫婦で旅行し、インタビューを行い、長年にわたって議論し、建設的な論争を進めてきた結果である。
過去にはハイジはさまざまな理由で共著者として名前をだすことを望まなかった。それに同意してくれたのは1993年出版の『戦争と平和』、そして95年出版の『第三の波の政治』のときだけである。それでも、トフラーの著書はすべて、夫婦が協力した結果だと考えるよう、読者にお願いしたい。
アルビン・トフラー
第一部 革命
第一章 富の最先端
本書のテーマは富の未来である。目に見える富と見えない富、急速に近づいてくる未来に生活や企業、世界のあり方を根底から変える革命的な形態の富、これが本書のテーマだ。これが何を意味するのかを説明するために、家族や職から、日常生活にあらわれている時間の圧力や複雑さの増大まで、あらゆる点を以下で取り上げる。真実と嘘、市場と通貨について考えていく。われわれを取り巻く世界にあり、われわれ自身の内部にある変化と抵抗の衝突について、意外な事実をあきらかにする。
現在の富の革命によって、ビジネスの世界の創造的起業家だけでなく、社会、文化、教育の世界の社会起業家にも無数の機会が開かれ、新しい生き方が可能になるだろう。国内でも世界全体でも、貧困を撲滅する新たな可能性が生まれてくるだろう。だがこの豊かな未来への招待状には警告が書かれている。リスクが増えていくうえ、増え方が加速していくという警告が。未来は気の弱い人には向いていない。
(中略)
混乱としか思えない現実から、少なくとも現実を忘れようと、テレビに安らぎを求める人が多く、そこでは「リアリティ番組」が現実と称する芝居を見せている。~非現実性が広まっている。もっと重要な点を指摘するなら、かつて社会に統一性、秩序、安定をもたらしていた学校、病院、家族、裁判所、規制機関、労働組合などの制度が危機に直面して、無様に失敗している。~経済が綱渡り状態にあるうえ、いくつもの制度が破綻していることで、庶民は悲惨な結果になりうる問題に直面している。(中略)
今月の流行
これらの疑問に答えるのがむずかしいと感じているのは庶民だけではない。専門家もそう感じている。企業の経営者はラッシュ時の改札を通る通勤客のようにつぎつぎに交代しており、~経済専門家の多くも死知識の墓地をさまよっていて、混乱状態にあるのが現実だ。~本書では、未開拓の「基礎的条件の深部」、いわゆる基礎的条件を動かしている要因に注目する。
基礎的条件の深部に注目すると、意味を成さない混乱状態だと思えたいまの世界が違ってみえてくる。混乱ばかりが目につくことはなくなり、以前にはみえなかった機会があることが分かるようになる。混乱はものごとの一面でしかなかったのだ。そして混乱があるからこそ、あたらしいアイデアが生まれる。
たとえば今後の経済では、さまざまな分野に大きな事業機会が生まれる。超農業、神経刺激療法、カスタム・メードの療法、ナノ薬学、まったく新しいエネルギー源、連続支払い制度、スマート輸送システム、瞬間市場、新しい形態の教育、敵を殺さない武器、デスクトップ製造、プログラム可能な通貨、リスク管理、監視されているときに警告してくれるプライバシーセンサー、それにかぎらず、あらゆる種類のセンサー、そして当惑するほど多種多様な財とサービスと体験などである。
これらがいつ利益を生むようになるのか、あるいは利益を生むようにならないのか、これらがどのように収斂していくのか、確実なことは何もいえない。だが、基礎的条件の深部を理解すれば、いまですら、新しいニーズがあり、気づかなかった産業があることが分かる。たとえば「同時化産業」があり、「孤独産業」がある。
富の未来を予想するには、金銭を得るために行っている仕事だけでなく、「生産消費者」として誰でも行っている無報酬の仕事にも注目する必要がある(後に説明するが、個々人が生産消費者として日常的に行っている仕事がいかに多いか気づけば、たいていの人は衝撃を受けるのではないだろうか)。本章ではさらに、多くの人がそうとは気づかないまま、目に見えない「第三の職」についていることも論じていく。
生産消費は爆発的に増える状況にあるので、生産消費経済の未来と切り離していては、金銭経済の未来はもはや理解できないし、ましてや予測などできない。金銭経済と生産消費経済は切り離せないものなのである。この二つによって「富の体制」が形成されている。この点を理解すれば、そして両者が支えあっている経路を理解すれば、われわれの生活の現在と未来を深く見通す手掛かりが得られるだろう。(中略)
収斂の可能性
~航空機が飛ぶはずがないと主張した専門家が多かったことを思い出すべきだ。ロンドン・タイムズ紙が「電話」と呼ばれる機器が発明されたという報道について、「アメリカ流馬鹿話の最新例」だと伝えたことも。強力な知識工作機器とインターネットを使った科学者の協力に、変化を加速する別の要因がくわわっている。科学技術の発達をそれぞれ独立した動きとしてとらえるのは間違っている。知識の面でも、経済的利益の面でも、ほんとうに大きな成果が得られるのは、二つ以上の飛躍的な前進が収斂するか、組み合わされたときだ。多様な研究が行なわれ、科学者が増え、多数の分野で科学技術が発達するほど、大きな成果を生み出す斬新な組み合わせができる可能性が高くなる。今後何年かに、そうした収斂が多数あらわれるだろう。知識を拡大するための機器の開発は、燃料注入段階のロケットのようなものであり、富の創出の次の段階に向けて前進を準備しているのである。次の段階には、新しい富の体制が世界全体にさらに広まるだろう。いま、革命が起こっている。いまの革命で生まれる新しい文明では、富についての常識のすべてが疑問とされるようになるだろう。
第二章 欲求が生み出すもの
富の未来は明るい。いまの世界には確かに深刻な混乱があり逆流があるが、将来、世界で生産される富が減っていくのではなく、増えていく可能性が高い。しかし、富が増えるのは良いことだと誰もがみているわけではない。古代のアリストテレスらが、最低限の必要を満たせるもの以上に富を追い求めるのは不自然だと考えた。十九世紀には社会主義者や無政府主義者が、富とは不当に収奪されたものだと考えた。現在でも環境原理主義者が「簡素な生活の選択」を呼びかけ、大量消費を悪の元凶とみている。このように、富は悪評を受けてきた。~富とはカネを言い換えた言葉ではない。一般にはそう誤解されていることがあるが、実際にはカネは富を象徴するもののひとつでしかない。富で手に入るもののなかから、金で買えないものもある。自分自身の富であれ、他人の富であれ、富の将来を最大限に幅広い角度から理解するためには、富の源泉に遡って考えていかなければならない。富の源泉は、欲求である。
富の意味
欲求にはなくてはならない必要によるものから、気まぐれな欲望によるものまで、さまざまな種類がある。どのような種類の欲求であっても、それを満たすのが富だ。~富とは、おおまかに定義するなら、経済学で「効用」と呼ばれるものがある何かを、単独でか共有の形で所有していることである。つまり、何らかの形の満足を与えるか、あるいは何らかの形の満足を与える別の形態の富と交換できるものである。いずれの場合にも、富は欲求が生み出すものだ。この点も理由になって、富について考えること自体を嫌う人がいるのである。
欲求を管理する人たち
たとえばある種の宗教は、欲求は悪だと教える。禁欲的な宗教は貧困の中で忍耐を教え、欲求を満たすのではなく抑制すれば幸せになれると説く。物欲を抑え、何も持たずに生きていくよう教える。インドの宗教は何千年も前からまさにそう教えてきた。それも信じがたいほどの貧困と惨状の中で。
これに対してプロテスタンティズムはヨーロッパで生まれたとき、まったく逆の教えを説いた。物欲を抑えるのではなく、勤勉に働き、倹約し、高潔に生きるよう教え、この教えに従えば、神の恩寵によって、自分で自分の欲求を満たせるようになると説いた。欧米では広範囲な人たちがこの価値観を受け入れ、豊かになった。欧米ではさらに、欲求をつぎつぎ生み出していく永久機関、広告が生まれた。
もっと最近ではアジアで、中国のしたたかで老練な共産主義者、小平が1970年代に「金持ちになるのは良いことだ」と語ったと伝えられた。これによって世界人口が五分の一を占める中国で鬱積していた欲求が解き放たれ、時代を超えて続いてきた貧困から抜け出す動きが起こった。(中略)どの社会でも指導者層が欲求を管理している。富の創出の出発点にあたる欲求の管理をしているのである。
当然のことながら、欲求の水準を高めても、あるいは富や欲求からは少しずれるが、貪欲を奨励しても、それだけで金持ちになる人がでてくるとはかぎらない。欲求を強め、富を追求する文化であっても、富が獲得できるとはかぎらない。だが、貧しさの美徳を教える文化は、まさに求める通りのものを達成するのが普通だ。
日本語版に寄せて
最近、皇太子家の長女、愛子さまがご夫婦とともに幼稚園の入園式に出席されたと報じられた。この明るいニュースと並んで、全国各地で暴力団事務所などの家宅捜索が行われ、ロシアやフィリピンから密輸した武器が押収されたと報じられている。この二つのニュースは、日本の未来の対照的な動きを象徴しているかもしれない。一方は愛と学習を、他方は犯罪と対立を示している。
いまの日本のニュースをつぎつぎに読んでいくと、不思議な組み合わせや矛盾がいくつも目につく。たとえば、教育水準の高い労働力の必要が叫ばれる一方、日本の学校は危機的状況にあり、今後五年に私立大学四十八校が倒産すると予想されている。外交でもそうだ。日本は中国との間で強固な経済関係を築いているが、政府関係は危険なほど悪化しており、両国でナショナリズムが強まっている。
これらのいくつかの例は、革命的な富の波がアメリカ、アジアをはじめ、世界各地に広がっているなか、日本がはるかに深い水準で課題に直面していることを示すものだとみられる。
さまざまな変化が奔流のように押し寄せる混乱した現状で、日本は今後、どうなるのだろうか。穏やかな成長だろうか。長期の停滞だろうか。勃興する中国に圧倒された没落なのだろうか。日本が過去三十年に指導的な地位を確立したのはなぜで、いまはそれを失おうとしているのはなぜなのか。日本はどのような手段をとれば、あらゆる形の富を変えている革命にふたたび参加できるようになるのだろうか。
本書では、経済だけでなく、企業や文化、制度、社会で変化の必要をもたらしている新しい力を描いていく。日本の各界の指導者がこの力を理解しなければ、日本は今後、繁栄していくことができない。
いま、日本の未来がどうなるよう期待するかと問われれば、1970年代と80年代の成功を再現を期待すると答える日本人もいるはずだ。しかし、昔に戻ることはできない。そして、小さな改革を積み重ねて既存の制度を変えていっても、いま、さまざまな分野で勃興している新しい富の制度の要求にはこたえられない。(以下略)
はじめに(抜粋)
~何よりも重要な動きが、富の歴史的変化という動きが、それほど重要ではないニュースの氾濫の中で見失われているか、目立たなくなっている。本書はこの見失われた動きを描くことを目標にしている。
(中略)
富の創出に当たって知識の重要性が着実に高まっており、いまではこれがはるかに高い水準に飛躍し、多数の境界を越える段階に達している。世界の頭脳バンクが成長を続け、変化を続け、利用しやすくなりつづけており、これに接続する地域が世界の中で増え続けているからである。この結果、人類は豊かな人も貧しい人もみな、革命的な富の体制の中で、少なくともその影響を受けて生活し、働いている。
いまでは「革命」という言葉はじつは気楽に使われるようになった。新しいダイエットも「革命」と呼ばれ、政治的な激変も「革命」とされて、本来の意味が失われている。
本書では「革命的」という言葉を、影響の及ぶ範囲をもっとも広くとったときの意味で使っている。いま起こっている革命の規模と比較すれば、株式市場の暴落、政権の交代、新技術の導入、さらには戦争や国の解体すら、「革命的」とはいえない。
本書で取り上げる革命的な変化は、産業革命に匹敵するか、それを上回るほど大規模な激変である。相互に関係がないように思える何千、何万もの変化が積み重なって、新しい経済体制になり、産業革命によって「近代」が生まれたように、まったく新しい生活様式と文明が生まれる、そういう激変である。
(中略)もうひとつ、「富」という言葉について。
いま、ほとんどの人は金銭経済のもとで生活しているが、本書でいう「富」は金銭だけを意味するわけではない。生活を支えているものにはもうひとつ、ほとんど探求されていないが、じつに魅力的な並行経済がある。この並行経済でわれわれは、金銭を使わないまま、多数の必要や欲求を満たしている。この二つの経済、金銭経済と非金銭経済を組み合わせたものが、本書にいう「富の体制」である。
相互に関係するこの二つの経済で同時に革命が起こっており、過去に例のない強力な富の体制がいま、生まれようとしているのである。
この革命がいかに重要なのか理解するには、どの富の体制も単独で存続しているわけではない事実を認識しなければならない。富の体制は確かに強力だが、もっと大きな体制を構成するひとつの部分にすぎない。社会、文化、宗教、政治など、大きな体制を構成する他の部分とともに、常に互いに、そして大きな体制との間で、フィードバックを繰り返している。この全体の文明、生活様式になっていて、その時代の富の体制にほぼ見合ったものになっている。
このため、本書で革命的な富の体制について論じるとき、それが他の部分のすべてと関連していることをかならず考慮している。いまの時代にそうなっているように、富の体制で革命が起こるときにはかならず、前述の面など、生活のさまざまな面に変化が起こり、それに伴って既得権益集団の抵抗にぶつかることになる。本書は以上のような基本的な見方に基づいており、この見方を理解すれば、何の意味もないようにみえる無数の変化と衝突、いま荒れ狂っている変化と衝突に一貫した意味があることが分かるようになる。(中略)
だが経済学はどの学問にもまして、現実の生活に根ざしていなければならない。二人の筆者のどちらにとっても、若いころの「現実の生活」には、工場で働いた忘れがたい五年間がある。押し抜き機や組み立てラインで働き、自動車や航空機エンジン、電球、エンジン・ブロックなどの製造にくわわり、鋳物工場のダクトのなかをはいまわり、大ハンマーを振るうといった肉体労働を行った。こうして、製造業が底辺からどうみえるかを学んだ。失業がどういうものかも、実感している。(中略)
もちろん、未来を知ることは誰にもできない。とくに、何かがいつ起こるのか、確実なことは誰にも分からない。このため、本書で未来について論じている点はすべて「おそらくそうなるだろう」「筆者の意見ではそうなるだろう」という意味であることをここでお断りしておく。何度も同じ言葉を使えば読者の眠気を誘うことになるので、そのたびに但し書きを繰り返すことはしない。~もうひとつ、避けがたい現実を忘れないようお願いしたい。すべての説明は単純化である。
本書の執筆の過程について、重要な事実を二つ記しておきたい。
本書の執筆には十二年かかったが、運良くスティーブ・クリステンセンの支援が得られなければ、もっと長くかかっていたはずだ。あるとき、筆者はクリステンセンに本書の仕上げを手伝ってくれる編集者を推薦するよう依頼した。ありがたいことに、それなら自分が引き受けようといってくれた。大手通信社のUPIで西部地区編集者をつとめた後、ロサンゼルス・タイムズ・シンジケートの編集長兼ゼネラルマネジャーだった経験豊かなジャーナリストであり、三年前に本書の執筆に参加した。まさに一流の編集者だといえる仕事ぶりだった。そして、それ以上に、規律、頭脳、温かさ、優しさ、明るく皮肉っぽいユーモアのセンスを持ち込んだ。執筆の作業が楽しくなり、友情を深めることができた。
最後に、筆者夫婦の一人っ子、カレンの病気が長引き、ついに死亡したために本書に集中できなくなり、執筆が長引くことになった。妻のハイジは何年にもわたって昼夜を問わずカレンの病床に付き添い、病気と闘い、病院の官僚制度と闘い、医療の無知と戦ってきた。このため当然ながら、本書の執筆にはときおり参加できるにすぎなかった。それでも、本書の基礎にある想定、考え、モデルは夫婦で旅行し、インタビューを行い、長年にわたって議論し、建設的な論争を進めてきた結果である。
過去にはハイジはさまざまな理由で共著者として名前をだすことを望まなかった。それに同意してくれたのは1993年出版の『戦争と平和』、そして95年出版の『第三の波の政治』のときだけである。それでも、トフラーの著書はすべて、夫婦が協力した結果だと考えるよう、読者にお願いしたい。
アルビン・トフラー
第一部 革命
第一章 富の最先端
本書のテーマは富の未来である。目に見える富と見えない富、急速に近づいてくる未来に生活や企業、世界のあり方を根底から変える革命的な形態の富、これが本書のテーマだ。これが何を意味するのかを説明するために、家族や職から、日常生活にあらわれている時間の圧力や複雑さの増大まで、あらゆる点を以下で取り上げる。真実と嘘、市場と通貨について考えていく。われわれを取り巻く世界にあり、われわれ自身の内部にある変化と抵抗の衝突について、意外な事実をあきらかにする。
現在の富の革命によって、ビジネスの世界の創造的起業家だけでなく、社会、文化、教育の世界の社会起業家にも無数の機会が開かれ、新しい生き方が可能になるだろう。国内でも世界全体でも、貧困を撲滅する新たな可能性が生まれてくるだろう。だがこの豊かな未来への招待状には警告が書かれている。リスクが増えていくうえ、増え方が加速していくという警告が。未来は気の弱い人には向いていない。
(中略)
混乱としか思えない現実から、少なくとも現実を忘れようと、テレビに安らぎを求める人が多く、そこでは「リアリティ番組」が現実と称する芝居を見せている。~非現実性が広まっている。もっと重要な点を指摘するなら、かつて社会に統一性、秩序、安定をもたらしていた学校、病院、家族、裁判所、規制機関、労働組合などの制度が危機に直面して、無様に失敗している。~経済が綱渡り状態にあるうえ、いくつもの制度が破綻していることで、庶民は悲惨な結果になりうる問題に直面している。(中略)
今月の流行
これらの疑問に答えるのがむずかしいと感じているのは庶民だけではない。専門家もそう感じている。企業の経営者はラッシュ時の改札を通る通勤客のようにつぎつぎに交代しており、~経済専門家の多くも死知識の墓地をさまよっていて、混乱状態にあるのが現実だ。~本書では、未開拓の「基礎的条件の深部」、いわゆる基礎的条件を動かしている要因に注目する。
基礎的条件の深部に注目すると、意味を成さない混乱状態だと思えたいまの世界が違ってみえてくる。混乱ばかりが目につくことはなくなり、以前にはみえなかった機会があることが分かるようになる。混乱はものごとの一面でしかなかったのだ。そして混乱があるからこそ、あたらしいアイデアが生まれる。
たとえば今後の経済では、さまざまな分野に大きな事業機会が生まれる。超農業、神経刺激療法、カスタム・メードの療法、ナノ薬学、まったく新しいエネルギー源、連続支払い制度、スマート輸送システム、瞬間市場、新しい形態の教育、敵を殺さない武器、デスクトップ製造、プログラム可能な通貨、リスク管理、監視されているときに警告してくれるプライバシーセンサー、それにかぎらず、あらゆる種類のセンサー、そして当惑するほど多種多様な財とサービスと体験などである。
これらがいつ利益を生むようになるのか、あるいは利益を生むようにならないのか、これらがどのように収斂していくのか、確実なことは何もいえない。だが、基礎的条件の深部を理解すれば、いまですら、新しいニーズがあり、気づかなかった産業があることが分かる。たとえば「同時化産業」があり、「孤独産業」がある。
富の未来を予想するには、金銭を得るために行っている仕事だけでなく、「生産消費者」として誰でも行っている無報酬の仕事にも注目する必要がある(後に説明するが、個々人が生産消費者として日常的に行っている仕事がいかに多いか気づけば、たいていの人は衝撃を受けるのではないだろうか)。本章ではさらに、多くの人がそうとは気づかないまま、目に見えない「第三の職」についていることも論じていく。
生産消費は爆発的に増える状況にあるので、生産消費経済の未来と切り離していては、金銭経済の未来はもはや理解できないし、ましてや予測などできない。金銭経済と生産消費経済は切り離せないものなのである。この二つによって「富の体制」が形成されている。この点を理解すれば、そして両者が支えあっている経路を理解すれば、われわれの生活の現在と未来を深く見通す手掛かりが得られるだろう。(中略)
収斂の可能性
~航空機が飛ぶはずがないと主張した専門家が多かったことを思い出すべきだ。ロンドン・タイムズ紙が「電話」と呼ばれる機器が発明されたという報道について、「アメリカ流馬鹿話の最新例」だと伝えたことも。強力な知識工作機器とインターネットを使った科学者の協力に、変化を加速する別の要因がくわわっている。科学技術の発達をそれぞれ独立した動きとしてとらえるのは間違っている。知識の面でも、経済的利益の面でも、ほんとうに大きな成果が得られるのは、二つ以上の飛躍的な前進が収斂するか、組み合わされたときだ。多様な研究が行なわれ、科学者が増え、多数の分野で科学技術が発達するほど、大きな成果を生み出す斬新な組み合わせができる可能性が高くなる。今後何年かに、そうした収斂が多数あらわれるだろう。知識を拡大するための機器の開発は、燃料注入段階のロケットのようなものであり、富の創出の次の段階に向けて前進を準備しているのである。次の段階には、新しい富の体制が世界全体にさらに広まるだろう。いま、革命が起こっている。いまの革命で生まれる新しい文明では、富についての常識のすべてが疑問とされるようになるだろう。
第二章 欲求が生み出すもの
富の未来は明るい。いまの世界には確かに深刻な混乱があり逆流があるが、将来、世界で生産される富が減っていくのではなく、増えていく可能性が高い。しかし、富が増えるのは良いことだと誰もがみているわけではない。古代のアリストテレスらが、最低限の必要を満たせるもの以上に富を追い求めるのは不自然だと考えた。十九世紀には社会主義者や無政府主義者が、富とは不当に収奪されたものだと考えた。現在でも環境原理主義者が「簡素な生活の選択」を呼びかけ、大量消費を悪の元凶とみている。このように、富は悪評を受けてきた。~富とはカネを言い換えた言葉ではない。一般にはそう誤解されていることがあるが、実際にはカネは富を象徴するもののひとつでしかない。富で手に入るもののなかから、金で買えないものもある。自分自身の富であれ、他人の富であれ、富の将来を最大限に幅広い角度から理解するためには、富の源泉に遡って考えていかなければならない。富の源泉は、欲求である。
富の意味
欲求にはなくてはならない必要によるものから、気まぐれな欲望によるものまで、さまざまな種類がある。どのような種類の欲求であっても、それを満たすのが富だ。~富とは、おおまかに定義するなら、経済学で「効用」と呼ばれるものがある何かを、単独でか共有の形で所有していることである。つまり、何らかの形の満足を与えるか、あるいは何らかの形の満足を与える別の形態の富と交換できるものである。いずれの場合にも、富は欲求が生み出すものだ。この点も理由になって、富について考えること自体を嫌う人がいるのである。
欲求を管理する人たち
たとえばある種の宗教は、欲求は悪だと教える。禁欲的な宗教は貧困の中で忍耐を教え、欲求を満たすのではなく抑制すれば幸せになれると説く。物欲を抑え、何も持たずに生きていくよう教える。インドの宗教は何千年も前からまさにそう教えてきた。それも信じがたいほどの貧困と惨状の中で。
これに対してプロテスタンティズムはヨーロッパで生まれたとき、まったく逆の教えを説いた。物欲を抑えるのではなく、勤勉に働き、倹約し、高潔に生きるよう教え、この教えに従えば、神の恩寵によって、自分で自分の欲求を満たせるようになると説いた。欧米では広範囲な人たちがこの価値観を受け入れ、豊かになった。欧米ではさらに、欲求をつぎつぎ生み出していく永久機関、広告が生まれた。
もっと最近ではアジアで、中国のしたたかで老練な共産主義者、小平が1970年代に「金持ちになるのは良いことだ」と語ったと伝えられた。これによって世界人口が五分の一を占める中国で鬱積していた欲求が解き放たれ、時代を超えて続いてきた貧困から抜け出す動きが起こった。(中略)どの社会でも指導者層が欲求を管理している。富の創出の出発点にあたる欲求の管理をしているのである。
当然のことながら、欲求の水準を高めても、あるいは富や欲求からは少しずれるが、貪欲を奨励しても、それだけで金持ちになる人がでてくるとはかぎらない。欲求を強め、富を追求する文化であっても、富が獲得できるとはかぎらない。だが、貧しさの美徳を教える文化は、まさに求める通りのものを達成するのが普通だ。