アルビン・トフラー研究会(勉強会)  

アルビン・トフラー、ハイジ夫妻の
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第12章 変貌する主要産業(2-1)

2015年01月04日 21時00分43秒 | 第三の波
March,1980
Alvin Toffler, The Third Wave, William Morrow, New York, 1980
第三の波 昭和55年10月1日 第1刷発行 アルビン・トフラー著 徳山二郎 監修
鈴木建次 菅間 昭 桜井元雄 小林千鶴子 小林昭美 上田千秋 野水瑞穂 安藤都紫雄 訳

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第12章 変貌する主要産業(2-1)
 1960年8月8日、ウエストバージニア州生まれの化学技師モンロー・ラスボーンは、ニューヨークのマンハッタン、ロックフェラープラザを見おろすオフィスで、ひとつの決定をくだした。後世の歴史家たちは、この決定こそ、第二の波の時代の終焉を象徴するものだったと言うかもしれない。
 巨大石油会社エクソンの筆頭重役ラスボーンは、この日、エクソンが産油国政府に支払っていた税金を削減するための行動を起こしたのだ。当時、そのことに注目した者はほとんどいなかった。西側のマスコミはこれを取り上げもしなかった。しかし、彼の行動は産油国政府に電撃的な衝撃を与えた。これらの国の財政は、事実上、全面的に石油社会から取り立てる税金でまかなわれていたからである。
 数日のうちに、ほかのメジャー国際石油会社がそろって、エクソンにならって税金削減を働きかけた。そして一ヶ月後の9月9日、もっともひどい痛手をこうむったいくつかの産油国の代表が、アラビアンナイトの都バグダッドに集まって、緊急評議会を開くにいたった。追いつめられて会議に集まったかれらは、ここで石油輸出国政府による、ひとつの委員会を結成したのである。しかしその後13年間、この委員会の活動はむろんのこと、その名称すら、完全に黙殺されたままだった。わずかな例外は、一部の石油業界誌だった。13年後の1973年ユダヤ暦1月10日、第四次中東戦争の勃発とともに、石油輸出国機構(OPEC)は、突如、暗闇からその姿をあわらし、世界への原油供給を停止するという手段に訴えて、第二の波の経済をいっきょに転落の恐怖へつき落としたのであった。
 OPECは産油国の歳入を4倍に増大させたばかりではない。第二の波の技術体系にくすぶりはじめていた革命の火に、油をそそぐ結果となったのだった。

 太陽エネルギー、そのほかの代替エネルギー
 石油ショックによってエネルギー危機が起きたが、それをめぐって侃々諤々の大騒ぎとなった。その騒ぎのなかで、数多くの計画、提案、意見、それに対する反論などが飛び交った。あまりにも多種多様な議論が起こり、どれが正しいのか選択に困るほどであった。政府の混乱ぶりも、一介の市民となんら変わるところはなかったのである。
 こうした混沌を突き破るひとつの方法は、個々の技術や政策にとらわれず、それらの根底にある、いくつかの基本問題を把握することである。そうすれば、現在行なわれている議論の中には、第二の波の時代のエネルギー体系を前提にして、それを継続、維持しようとする立場と、まったく新しい原則を見出そうとする立場の、二つの考え方があることに気がつくだろう。それを理解すれば、エネルギー問題の全貌が、根本から明快になる。
 さきに述べたとおり、第二の波のエネルギー体系は、再生不可能な資源を前提にしている。エネルギー源は高度に集中化した有限の鉱床から、同じく集中化したカネのかかる技術によって掘り出されている。その種類は限られていて、採掘方法も、採掘場所も、限定されている。これが、産業時代を通じて第二の波の国家が使っていたエネルギー源の特徴である。
 こうした特長を考えた上で、石油危機が生んだいろいろな計画や提案を検討してみれば、どれが古い体系の延長線上にあるか、どれが根本的に新しいエネルギーの先駆となるかは、一目瞭然であろう。石油を1バーレル40ドルで売るべきか否か、原子力発電所をシーブルックにつくるべきかグロンデにつくるべきか、などといったことは基本的な問題ではないのである。産業社会のために開発され、第二の波の特性を前提としている古いエネルギー体系が、はたして将来も通用するかどうかということが、もっと大事な問題なのである。こうした形で問題が投げかけられれば、それに対する答えを考えざるをえない。
 過去50年間、全世界のエネルギー供給源の3分の2は石油とガスであった。しかし、地下に眠る化石燃料に依存する状態が、今後多少の油田が発見されたところで、永久に続くはずがない。これは衆目の一致するところである。この点では、狂信的な天然資源保護論者や追放されたイラン国王まで、太陽熱利用を熱心に唱える人やサウジアラビアの王族から、スマートななりをして書類鞄をかかえた諸国政府の高官にいたるまで、意見は同じであろう。
 統計が示す数字は、まちまちである。世界が暗礁にのりあげるまであと何年もつのか、さまざまな論議が行なわれている。予測は複雑をきわめているし、過去の予言の多くはいまでも馬鹿げて見えるが、ただひとつだけ確かなことがある。もはや石油やガスを油田に新しく補給することはできないということだ。
 結局はどのような形で到来するのか。急激な噴出の後に石油がぱったり止まってしまうのか、何度か石油不足によるひどい社会不安が続いたのちに終局がくるのか、短期間の石油過剰状態と深刻な石油不足の連続の末に終わるのか。いずれにせよ石油時代は終末に近づいているのである。イラン人もクウェート人もそれを知っている。ナイジェリア人もベネゼイラ人サウジアラビア人もこのことに気づいている。だからこそ、石油収入以外の経済基盤を固めようと競い合っているのである。一方、石油会社も石油時代が終わりに近づいていることを知っている。だからこそかれらは石油以外の投資対象に殺到するのである。
(つい先頃、東京である石油会社の社長と会食した際、彼は大石油会社は、ちょうど鉄道会社が現在そうであるように、死滅した恐竜のような存在になるだろうと語った。しかも、それが何十年後というわけではなく、数年のうちにそうなるだろう、と予測していた。)
 しかし、物理的な意味でのみ石油の枯渇を論じるのは、ピントはずれであると言ってよい。なぜかと言えば、今日の世界では、石油の供給量よりも石油の価格の方が、直接的な強いインパクトを持っているからである。しかし、この点から考えても、結論は同じことである。
 このさき何十年間かの間には、ひょっとすると、驚異的な技術革新とか経済変動が起こって、ふたたびエネルギーが豊富に、しかも廉価で入手できる事態が生ずるかもしれない。しかしたとえ、何事が起ころうとも、相対的な石油価格は上昇の一途をたどるであろう。採掘パイプはますます深く掘り下げなければならなくなるし、油田の開発はますます辺境の地へ移り、また石油の買い手が増加して競争が激化するからである。OPECは別として、この5年間にもうひとつの歴史的変化が起こっている。メキシコなどに新たな大型油田が発見されたり、石油の価格がうなぎのぼりに上がったりしているにもかかわらず、確認された、商業的に採算のとれる原油保有量は、増加するどころか減少していることである。こんなことは、過去数十年間見られなかった。この事実が、石油時代にブレーキがかかっていることを示すもうひとつの証拠である。
 一方、世界の全エネルギー源の3分の1は石炭である。石炭も、いつかは、必ず掘りつくされてしまうことに変わりは無いが、現在のところまだかなりの埋蔵量がある。しかし、石炭の大量消費は、大気汚染をもたらし、(空気中の炭酸ガスの増大によって)世界の気候を悪化させ、結局は地球を荒廃させることになるだろう。今後十数年間、これらの弊害を必要として許容したとしても、石炭を自動車のガソリンタンクに入れるわけにはいかないし、現在石油やガスを使っているすべての分野で、すぐ石炭に代役をつとめさせることもできない。一方、石炭をガス化したりするための工程は、莫大な資本と、農業用水が不足するほどの大量の水を必要とするので、結局、経費がかさむ割には効率が悪いということになる。石炭のガス化や液化は、不経済で、非能率であり、一時の便法にしかならないのである。
 原子力技術も、現在の開発段階では、よりいっそうむずかしい問題をかかえている。現在使われている原子炉はウラニウムを利用しているが、ウラニウムそのものが限りある資源である。また、安全性にも問題があり、たとえこの問題を完全に克服できるとしても、そのためには極端な経費がかかる。核燃料廃棄物の処理の問題も、完全に解決されてはいない。いまのところ、原子力は非常に高価なものであり、他のエネルギー源と競争していくためには、政府の補助金が不可欠である。
 高速増殖炉は、それ自体としては、非常にすぐれた技術である。核反応によって出てくるプルトニウムがそのまま燃料として使えるという話をはじめて聞いた人は、永久に運動を続ける機械だと思い込んでしまう。しかし、これも所詮は世界でほんの少量しか埋蔵されていない、再生不可能な資源、ウラニウムに依存しているのである。高速増殖炉は高度に集中管理された、おそろしく経費のかかるしろもので、危険物質がもれる恐れもある。その上、核戦争の可能性、テロリストによる核物質の盗難の危険性をもはらんでいる。
 エネルギ-問題が困難な状況にあるからといって、ふたたび中世の生活に戻らねばならないとか、経済進歩がこれ以上望めないなどと考える必要はない。ただ、人類がひとつの発展路線の終点に到達してしまっており、これまでとは違う、新しい路線で出直さなければならないことは確かである。第二の波のエネルギー体系を維持することができなくなったということである。
 世界が、まったく新しいエネルギー体系へ移行する必要性は、もっと根本的な原因によっても明らかである。エネルギーというものは、農村経済であれ産業経済であれ、その社会の技術水準や生産様式、市場や人口の分布、そのほかいくつかの条件に見合ったものでなければならない、というのがその理由である。
 第二の波のエネルギー体系は、技術上のまったく新しい発展段階に即してでき上がったものである。石炭や石油という化石燃料が技術発展を促進させたのは事実だが、その逆もまた真なり、ということが言える。産業時代に開発された、常に大量のエネルギー源を必要とする貪欲なテクノロジーが、急ピッチで石炭や石油を採掘させたのである。たとえば、石油を例にとると、石油企業が急速に成長したのはまったく自動車産業の発展の影響であり、一時は、石油会社はデトロイトの付属品のようなものだった。かつてある石油会社の調査部長だったドナルド・E・カーは、その著書『エネルギーと地球の仕組み』のなかで、「石油産業は、“ある種の内燃機関の奴隷”になった」と述べている。
 われわれは、いま、ふたたびテクノロジーの歴史的飛躍を迎えようとしている。来るべき新しい生産システムは、全エネルギー産業の抜本的な再構成を必要とするであろう。OPECがテントをたたんで、静かに歴史の舞台から退場することを余儀なくされる、といった事態も予想されるのだ。
 なぜならわれわれが見落としている重大な事実は、エネルギー問題は量の問題だけではなく、エネルギー体系の構造の問題であるということである。われわれが必要としているのは、一定量のエネルギーだけではない。いま、必要とされているのは、もっと多様な形で、さまざまな場所(あるいは変化する地点)で、昼夜を分かたず、一年をとおしてさまざまな時刻に、思いもよらぬ目的のために入手できるエネルギーである。
 世界中の人びとが従来のエネルギー体系にとって代わるエネルギーを探し求めているのは、まさにこういう理由からであった、OPECの価格決定がすべてではないのである。新しいエネルギーの探求は、巨額の金と想像力を駆使して休息に進められているが、その結果、多くの驚異的な可能性がつぎつぎと検討されるようになった。もちろん、経済変動そのほかの混乱が、エネルギー体系の移行をおくらせるマイナス要因になることも考えられるが、より大きなプラス要因も存在する。それは、歴史上かつてなかったほど多くの人びとがエネルギー探求に熱中しているということ、そしてかつてなかったほど多くの斬新で、関心をそそる可能性が眼前に開けているということである。
 現段階では、どんなテクノロジーを組み合わせればどの目的にもっとも効果的であるかを判断するのはどう見ても困難であるが、利用しうる道具立てと燃料は、膨大になるにちがいない。そして、石油の価格が上昇するにつれて、かなり風変わりなエネルギーでも十分商業的に成り立つ見込みが出てくる。
 現在、可能性のあるものとしては、太陽光線を電気に転換する光電池(テキサス・インスツルメンツ社、ソラレックス社、エネルギー・コンバージョン・デバイス社など多数の企業が研究開発中である)とか、ソ連で計画中の、対流圏と成層圏の境界に風車つきの風船を打ち上げて地上に向けてケーブルで電気を送る方法などがある。ニューヨーク市は町中から出るごみをある会社に燃料として売却しているし、フィリピンではヤシの殻で発電するプラントを建設中である。イタリア、アイスランド、ニュージーランドでは
地熱発電を行なっているし、日本では、本州の沖合いに500トンの箱舟を浮かべて、波力発電を実験中である。屋根に据えつける太陽熱温水器は全世界に普及しているが、南カリフォルニア・エジソン社では太陽熱をコンピュータで操作する多数の鏡で受け、それを蒸気ボイラーに送って発電して、同社と契約している家庭へ送電する計画を進めている。目下、「発電タワー」を建設中である。西ドイツのシュツットガルトでは、ダイムラー・ベンツ社が開発した水素を動力に使ったバスが街を走っている。ロッキード社のカリフォルニア工場では、水素燃料で飛ぶ航空機の研究が進められている。新しい手段がこのように、次から次へと開発されており、枚挙にいとまがない。
 これらの新しいエネルギーを開発する技術は、それを貯蔵し、輸送する新しい手段を開発することによって、さらに輝かしい将来を拓いてくれるだろう。ゼネラル・モーターズ社が最近発表したところによれば、同社は電気自動車用の高性能バッテリーを開発したと言う。NASAの研究所では、従来の鉛と硫酸を使ったバッテリーの3分の1のコストで製造できる「レドックス」という蓄電装置を完成した。さらに長期的な展望にたてば、超伝導の探究も行なわれているし、「まともな」科学の領域を超えたものと言われる、最小限のロスでエネルギーを伝導するテスラ波の研究も行なわれている。
 これらのテクノロジーは、大部分まだ初期の開発段階にあって、なかには実用化にほど遠いものも多い。しかし、いますぐにでも商業化できるものや、10年、20年先に商業ベースにのるものもある。この場合、飛躍的な進歩はひとつの独立した技術から生まれるというより、むしろ、いくつかの技術を併用したり組み合わせたりする、豊かな創造力によって生み出されるものだということを忘れてはならない。このことは、しばしば、見過ごされているようだ。たとえば、太陽光電池によって電気を起こし、その電気で水から水素を抽出し、それを自動車に使う、といった具合に考えねばならないであろう。残念ながら、われわれはまだ次の時代へ向かって離陸したとは言えない。しかし、以上述べたような多くの新しい技術を結合することによって、さらに多くの潜在的な可能性が陽の目を見ることとなり、第三の波のエネルギー体系の構築が急速に進展することになるであろう。
 第三の波のエネルギー体系は、第二の波のそれとはまったく異質な、いくつかの特徴を備えている。まず第一に、供給源は枯渇せず、再生可能なものが多くなる。また、高度に集中化された燃料にたよらず、広い範囲に散在する、バラエティに富んだエネルギーになるだろう。エネルギーの生産技術も、いまほど厳密に集中化されたものでなく、集中化した技術と拡散した技術とを、組み合わせたものになるだろう。
限られた生産方法と資源に過度に依存しているという危険な状態を脱して、エネルギー形態は極端なほど多様化するにちがいない。エネルギーの多様化によって、われわれは、ますます多様化する需要に合致した、エネルギーの種類と量を選択することができるようになり、その結果、エネルギーの浪費を防止することも可能になるだろう。
 一言で言えば、いまはじめて、過去300年間のエネルギー体系から180度転換した原則に立脚する体系が、われわれの眼前にその姿をあらわしはじめたのである。しかし、第三の波のエネルギー体系が確立するまでには、厳しい闘いが待っている。
 すでに高度の技術を持った国ぐにで、始まっているこの闘いは、アイデアと巨大な資本を要し、敵味方、二つの陣営で闘われているのではなく、まさに三つ巴の闘いとなっているようである。まず第一グループは、古い、第二の波のエネルギー体系に投資している人びとである。かれらは、石炭、石油、ガス、原子力、およびその代替品など、従来のエネルギー源と技術を支持しているから、第二の波の“現状維持”のために闘うのである。かれらは石油会社とか公共事業体、原子力委員会、鉱山会社、それにいま述べた組織、団体に働く労働組合のメンバーなどを砦として立て篭もっているので、第二の波の勢力は、難攻不落の陣をしいているように見える。
 これにくらべて、第三の波のエネルギー体系を推進しようとする勢力は、消費者グループ、環境保護運動家、科学者、産業界の最先端をゆく企業家やその同調者で構成されているが、かれらは散り散りばらばらで、資金も乏しく、政治的にも無力な場合が多い。第二の波のための宣伝に力を入れている人びとによれば、あまりに素朴で、経済観念が乏しく、空想的な技術に目がくらんでいるのがこの第三の波を支持する人びとだということになる。
 不幸なことに、第三の波の支持派は、第三の勢力の代弁者と誤解されがちである。第三の陣営とは、第一の波の支持者で、新しい高度の知識と科学にもとづく永続的なエネルギー体系を求めて前進しようとはせず、産業革命以前への回帰を主張する人びとである。その立場を極端におし進めれば、技術はほとんど排除され、人間の行動範囲は限定され、都市は縮小してやがて滅び、自然保護という名のもとに禁欲生活を強いられることになってしまう。つまり、第三の波の支持者たちはこのように誤解されがちなのだ。
 第二の波の陣営に属するロビイストや、広報担当者、政治家たちは、第三の波の勢力と第一の波の支持者とを意識的に同一視することによって世論を混乱させ、第三の波の勢力を不利な立場へ追い込んでいる。
 しかし、最後に勝利をおさめるのは、第一の波でもなければ第二の波でもない。前者は幻想を追い求め、後者は難問、というより解決方法のない問題をかかえた古いエネルギー体系にしがみついているのだ。
容赦なく上昇する第二の波のエネルギーのコストは、第二の波にはなはだしく不利に作用している。このほかにも第二の波の立場を不利にしている要素はたくさんある。たとえば第二の波のエネルギー技術の投資コストの急騰である。第二の波の技術では、ほんのすこしの「純」エネルギーをとり出すために、大量のエネルギーを消費するという事実がある。ますますエスカレートする公害問題も不利である。核利用
に伴う危険もある。多くの国で、自分たちの利益に反する原子炉、露天掘り鉱山、大発電所の建設に反対して、民衆は警察権力と闘うことも辞さない姿勢を示している。非産業世界に増大する自分自身のエネルギーを持ちたいという欲求、そして、自国の資源をより高く売りつけたいという欲求、これらのすべてが、第二の波のエネルギー体系にとって不利な要因となっているのである。
 要約すれば、原子炉とか石炭ガス化、石炭液化などの技術は、一見、「進んだ」「未来型」のものに見えるため、「革新的」な技術であると思われがちだが、実は、致命的な矛盾にしばられて身動きできなくなった、第二の波の過去の産物にすぎないのである。なかには、一時の便法として有用なものもあるだろうが、本質的には時代逆行の技術なのである。同様に、第二の波の勢力がいかに、強大に見え、それに対抗する第三の波の支持者が弱小に見えようとも、過去に多くを賭けるのは愚かなことである。問題は、第二の波のエネルギー体系が崩壊するか否か、新しい体系にとって代わられるかどうか、ということではなく、その時期がいつかということである。エネルギーをめぐる闘争は、それに劣らず重要なもうひとつの変革・・・第二の波のテクノロジーの崩壊・・・と複雑にからみ合っているからである。(2-1)