アルビン・トフラー研究会(勉強会)  

アルビン・トフラー、ハイジ夫妻の
著作物を勉強、講義、討議する会です。

第11章 新しい統合

2015年01月01日 00時11分18秒 | 第三の波
March,1980
Alvin Toffler, The Third Wave, William Morrow, New York, 1980
第三の波 昭和55年10月1日 第1刷発行 アルビン・トフラー著 徳山二郎 監修
鈴木建次 菅間 昭 桜井元雄 小林千鶴子 小林昭美 上田千秋 野水瑞穂 安藤都紫雄 訳

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第三の波
第十一章 新しい統合
 ちょうど20世紀後半の幕があがった1950年1月、22歳の痩身の青年でだった私は、インクの香りも新しい大学卒業証書を手にし、実社会の荒波のなかに乗り出すべく、夜どおしバスに乗っていた。隣席にガールフレンドを座らせ、座席の下にはぎっしり本のつまった安物のスーツケースを置いて、私は雨に洗われた窓の外を眺めていた。紫がかった暗灰色の夜明け・・そこには、行けども行けどもアメリカ中西部の工場群が続いていた。
 当時のアメリカは、世界の心臓部と言ってよかった。五大湖で知られるこの地帯は、そのアメリカの産業の中心であった。そして、工場こそ、この心臓のなかの心臓とも言える地域の、鼓動の源であった。製鋼工場、アルミニウム工場、工作機械工場や圧穿工場、製油所、自動車工場などのすすけた建物が立ち並んでいた。そしてその工場のなかでは、鉄板の打ち抜き、パンチやドリルによる穿孔、プレス、溶接、鍛冶、鋳造などの巨大な機械がうなりをたてて作動していた。工場は産業時代全体のシンボルであった。ほどほどに安楽な中流の下といった家庭で育ち、大学の四年間、プラトンやT・S・エリオット、美術史、抽象的な社会科学理論などを学んでいた青年にとって、工場に代表される世界は、エキゾチックだという点では、ウズベク共和国の首都タシケントや、南米大陸南端のフエゴ諸島と変わらなかった。
 私はそれから5年間、これらの工場ですごした。事務員でもなく、人事担当者のアシスタントでもなく、組立工、機械の据えつけ工、溶接工、フォークリフトの運転手、パンチプレス機のオペレーターとして働き、送風機のファンを打ち抜き、工場に機械を据えつけ、アフリカの炭鉱向けの巨大な粉塵制御装置をつくり、アッセンブリーラインの上をガタガタ、キーキー音を立てながら流れていく軽トラックの、最後の仕上げをしたりした。産業時代の工場労働者がいかに苦労しながら生計を立てているか、私はそれを肌で学んだのである。
 私は工場の粉塵や煙を吸った。耳は蒸気のシューシューいう音やチェーンのガチャガチャいう音、それにコンクリートミキサーのうなりで、鼓膜も破れんばかりであった。白熱した鋼鉄を注ぐ時のあの熱気。足には、アセチレンの火花でやけどした跡が残っている。私は交代時間がくるまで、心も筋肉もきしみ出すほど、まったく同じ動作をくりかえし、何千という部品を生産した。私は、労働者が持ち場を離れないように監督しているマネージャーを観察した。ホワイトカラーもまた、上役によって絶え間なく追いまくられ、はっぱを掛けられているのだった。機械に指を四本もぎとられて、血まみれになっている65歳の女性を助け出す手伝いをしたこともある。「畜生、これじゃもう、働けやしない。」その時の老女の叫び声は、いまでも私の耳にこびりついて離れない。

 工場、 ・・なんとその時代の長かったことか。しかし、今日では、建築中の新工場もないわけではないが、工場を聖堂とするような文明は滅びつつある。そして、いま現在、世界のどこかで、また別の青年男女が、姿をあらわしつつある第三の波の文明の心臓部に向かって、一晩中車を運転しているのだ。かれらの「明日への探究」とでも言うべきものに参加することこそ、本書のこの章以下の作業である。
 もし、かれらの後を目的地まで追っていくことができたとしたら、いったいわれわれはどこに行き着くことになるのだろうか。炎に包まれて大気圏外に突進していく、ロケットの発射台に行き着くのだろうか。それとも、海洋学の改訂実験室であろうか。原始生活を営む家族が集まったコンミューンなのか、人工頭脳の研究集団なのか。それとも狂信的な新興宗教の教団なのか。そうした青年たちは、自ら求めて簡素な生活を送っているのか。かれらは原始共同体のような生活をしているのだろうか。それとも、テロリストに銃を運んでいるのだろうか。いったいどこで、未来はつくられているのだろうか。
 もし、われわれ自身の手で同じような未来への探究を計画するとしたら、その地図をどうやって準備したらよいのだろうか。未来はすでに現在のなかではじまっている、などと言うのは簡単だ。しかし、いったいどの現在なのか。われわれの時代、現在は矛盾に満ちあふれ、散り散りに分裂している。
 現代のこどもは、麻薬とかセックス、宇宙ロケットの発射などについて、すっかり慣れっこになってしまっている。こどもによっては、コンピュータについて、親よりよほど知識が豊かだ。にもかかわらず、学校の試験はかれらの上に重苦しくのしかかっている。離婚率は依然上昇を続けており、しかしその一方で、再婚率も上昇している。反フェミニストさえ支持する女性の権利拡大が実現してきたかと思っていると、もうそれと時を同じくして、ほかならぬ反フェミニストたちの発言力も増してきている。ホモも自分たちの権利を主張しはじめ、勢いよく密室から出てくる。すると、それを待っていたかのように、突如、同性愛者に対する差別撤廃条令の制定に反対して、フロリダ州に住むアニタ・ブライアントという女性が、「ホモの手からこどもを救え」と叫びはじめる。
 手のほどこしようもないインフレが、第二の波に属するすべての国を襲っている。にもかかわらず、失業問題は深刻の度を加える一方で、古典的経済学理論ではどうにもならなくなってきている。そしてこの失業問題の深刻な時代に、需要と供給の論理を無視して、何百万という人間が、単に生活に困らなければよいというだけではなく、創造的な、心理的にも充足感があり、社会的にも責任ある仕事を求めているのだ。経済学だけでは、どうにもわかならないことがふえるばかりである。
 政治の世界では、たとえばテクノロジーといった、世の中の主要な問題がかつてないほど政治色を強めた時点で、政党は逆に、忠誠心の厚い党員から見放されてしまった。また、地球上の広範囲にわたって、グローバリズムの名のもとに国民国家が攻撃にさらされている時代に、逆にナショナリストの運動が勢力を強めている。
 こうした矛盾に直面して、われわれは世の中の動向とその背後にあるものを、どうやって見分けることができるだろうか。残念ながら、この問いに対して、魔法の答えの持主などひとりもいない。コンピュータがはじき出すさまざまな解答、さまざまな図表、未来学者がもっともらしく活用する数理的モデルやマトリックスにもかかわらず、われわれの未来を予測したいという欲求は、当然のことながら、客観的な科学というよりは、むしろ想像力の産物といった域を出ていない。さらに言えば、今日の状況の理解ですら、そうした段階にとどまっているのだ。
 体系的な研究は、われわれに多くを教えてくれる。しかし、いくら論理的にやってみても矛盾はある。推量をし、空想力をはばたかせ、そして大胆な(仮説としての)統合に頼らざるをえない。
 したがって、以下各章で未来を探究していくにあたっては、単に世の中の動向を知るだけでは十分でない。いかに困難であろうと、われわれは直線的思考の誘惑に抵抗する必要がある。多くの人びとは、大方の未来学者まで含めて、明日は単なる今日の延長と考えている。時代の趨勢というものが一見いかに強力に思えても、単純に、直線的に継続するものではない、ということを忘れてしまっている。こうした流れは頂点に達すると分裂を起こし、さまざまな新しい現象が生まれる。流れの方向が逆になることもあるのだ。流れが止まったり、また動き出したりする。なにかがいま起こっているからといって、あるいは過去300年続いて起こってきたからといって、今後も続いて起こるという保証はなにもない。そこで以下各章では、こうした矛盾、相克、方向転換、そして断絶点といった、未来を常に番狂わせなものにする要素を、正確に見つめていくことにしたい。
 さらに重要なことは、表面的には相互に無関係に見えるさまざまな出来事の間の、かくれた関係を発見していく、ということである。半導体やエネルギーの未来を予測しようと、(自分自身の家族も含めて)家族関係の将来を予測しようと、それ以外のものは不変だという前提に立っての予測であれば、ほとんど役に立たない。世の中に、不変なものなど存在しないからだ。未来は流動的であって、凍結状態にあるわけではない。未来はわれわれが毎日の決定をどう変えていくかにかかっており、ひとつひとつの出来事が、ほかのすべてに影響する。
 第二の波の文明は、われわれが問題をその構成要素に分解する能力を、極端なまでに重視してきた。それに対し、ばらばらに分解された部分を再構成する能力の方は、それほど重視しなかったのである。大多数の人間は、文化的には、統合より分析の方に手慣れている。われわれの未来に対するイメージ、そして未来におけるわれわれ自身のイメージが、非常に断片的で一貫性に欠け、したがって誤っているのは、このためである。本書の使命は、スペシャリストとしてではなく、ゼネラリストとして未来を考察していくことにある。
 今日、われわれは新しい統合の時代のスタートラインに身を置いている、と私は考える。自然科学から社会学、心理学、そして経済学と、学問のあらゆる分野で、ふたたびスケールの大きい考え方、総括的な学説、ばらばらになった部分の再編成に回帰する傾向が出てきているように思われる。とくに経済学にその傾向が強い。なぜなら、全体としての脈絡なしに細部を数量化することばかり重視し、次第に重箱の隅をつつくような問題に目を奪われてしまったからだ。しかも、ひたすらそれを上品な手つきで扱うことだけにこだわっていたのだ。そのようなやり方だと、われわれの知識そのものが次第に限定されてしまうということに、いま、ようやく気がつきはじめたのである。
 したがって、次章以下の概論は、われわれの生活をゆさぶっている変化の流れを探り出し、それらの流れの相互関係を明らかにすることになろう。流れのひとつひとつがそれ自体重要なこともさることながら、こうした変化の流れが合流して、より大きな、より深い、より早い変化の大河を形成し、そして今度はその大河が合流を重ねながら、次第により大きな流れ、つまり第三の波を形成する過程を明らかにしたいのである。
 今世紀のちょうど折り返し点で、当時の世界の心臓部を見ようと旅立った青年と同じように、われわれもいま、未来への探究の旅をはじめるわけである。この探究は、われわれの一生のうちでも、もっとも意味あることになるはずである。