小学校6年生の時目覚めたこと
遠い過去の事を振り返ってみると、私の6年生の一年間は壮絶でした。
あまりにも多くの出来事がその一年間に凝縮されていたのです。
そして、私はその時から自分の内部に深い自己を見つけました。社会という物が見た目のものとは違う事も知り、その年に母親を失ったこともあり、一人立ちすくすしか方法がありませんでした。
「大人であっても大人になっていない大人がいる」とその時に知りました。それは子どもの私をはねつけ、遠ざけるに十分な出来事だったのです。
それからの時間は、私であって以前の私ではなくなっていました。自分の環境の色さえも変わってしまったかのようでした。
もどる時間もわかりません。わかっても戻すことも出来なかったでしょう。
こうした経験は誰にでもあるわけではないですが、ことの多少に関わらず、このような子供時代を過ごされた方も全国にいるのではないでしょうか。
人は生きづらい人生を歩まねばならないこと、ただその時間に自分がまるでいないように感じる一年を過ごしていました。
そうした事をずっと心に秘めて少ない呼吸をして生きていたように思います。けれどもやがてその時間から徐々に救われることになって行きました。環境が変わったからでしたが、元に戻ったのではなく少しづつ私の身体が成長し、心もそれと同じく徐々に成長してきたように思います。
生きづらく、呼吸も浅いことは忘れることはありませんでしたが、そういった時間よりも友人との楽しい時間を楽しむことができたのです。そして読書でした。父親が買ってくれた世界文学全集があり、毎日それを読みふけることで、頭の中は物語に集中できました。別の世界を経験したことは、私にとってどれほど精神的に癒されたことでしょう。
机の椅子に座り、後ろの本棚の上にはラジオが置かれており、休日の午後はラジオから流れる音楽に私の心は満たされていきました。
子供時代の悲しい出来事、子供時代の忘れられない辛い出来事、これらを経験し私はこの経験を長い間背負って生きていました。このすべての凝縮された一年の出来事から派生していた精神的な苦痛も、大人になるに従って自分なりに心に折りたたんできました。
忘れるはずもありませんし、忘れることもできませんでした。けれどもようやくその時からの解放がやってきたのでした。
人は長く生きていると、心のひだの奥深くに折りたたまれた出来事にまた正面から向き合うことになるのでした。
それらを一つづつ、私は手放してきました。
そして私の過去の出来事も「すべてこの人生で学ぶことができた」と確信に変えることが自然に湧き上がってきたのです。
長く生きて来たことで、その恩恵が私にとって初めてやって来たのでした。それは暖かい南の風のように感じるものでした。私の心の解放は自己をより知る旅へと、また誘ってくれています。風の吹くままに気の向くままに私は歩いて行きます。私が私であるようにして。
(アイリス)