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WHO元事務局長:中島宏氏

2024-06-10 11:30:35 | 備忘録

♫以前テレビの国会中継を見た時に、麻生副総理がWHOのことについて「前の事務局長はひどかった。詳しくはいえないけれど」と言っていた記憶がありました。

そこで前事務局長は誰だったのか、ふと調べてみましたところ、日本人が再選も経て10年間事務局長をしていた時期がありました。

それはテドロスになる何代か前のことで、テドロスも再選されて今2期目の事務局長です。

日本のウィキペディアでは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B6%8B%E5%AE%8F

その後、パリ大学において、薬物神経への効果を通していかにして人間の行動に影響するかを研究する、神経精神薬理を専攻した[4]。その間、1956年もしくは1958年(昭和31-33年)から1967年(昭和42年)までフランス保健医療研究局(INSERM)に科学者として勤務し、同分野での基礎研究と臨床研究を継続した[2]

1967年(昭和42年)、東京に戻り、日本ロシュの研究センターにおけるディレクターに就任した[2]

1974年(昭和49年)、科学者として世界保健機関(WHO)に入職[2]薬剤評価などに携わり、1976年(昭和51年)には薬剤政策管理部門(Drug policies and management unit)のチーフに昇進[2]。さらに、1978年(昭和53年)からは西部太平洋地域のディレクター(Regional director)を2期10年に渡って務めた[2]

1988年(昭和63年)、第4代WHO事務局長(Director-General)に選出され[1]、1993年(平成5年)の再選を経て、2期10年に渡って同職を務めた後に引退した[2]。在任中には、特にAIDS対策に関する活動が評価された。

2000年(平成12年)、勲一等瑞宝章を受章[2][5]

2013年(平成25年)1月26日、私邸を構えていたポワチエ(フランス)の病院にて死去[1]。84歳没。叙従三位

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このような経歴が書かれていましたが、日本人の殆どは知らなかったですね。そして英語版のWikipediaで見て見ると、

https://en.wikipedia.org/wiki/Hiroshi_Nakajima

中島宏は千葉県の日本人街に生まれました。 1950 年代初頭に、彼は東京医科大学の医学部を卒業しました。彼は 1974 年に科学者の職に就いて WHO との協力を開始しました。 1976年に彼はWHOの医薬品部門の責任者に就任した。彼は、いわゆる必須の医薬品のリスト。

1978 年、WHO アジア地域委員会は彼をこの機関の所長に指名しました。彼は 1988 年までこの職を務めました。同年、彼は世界保健機関の理事に選出されました。彼は1998年までこの職を2期務めた。彼の在任中、彼とエイズプログラム責任者のジョナサン・マンとの間に大きな対立があり、その結果マンはその後辞任した。中島氏は退任後、退職してフランスに渡り、2013年に85歳で死去した。

【一期目】

WHOでのリーダーシップの間、彼はWHOのエイズ対策世界計画(GPA)の当時の責任者であるジョナサン・マンと対立したことで有名で、その結果マンは辞任した。[5] [6]マンは、中島のエイズ対策は積極的ではないと考えていた。[7]エイズ対策世界計画の成功の多くはマンの功績だったが、[8]マンはエイズ対策世界計画の自主権も持っていたが、中島はそれを剥奪しようとした。[9]中島はマンの予算と出張も制限した。マンの辞任後、GPAのスタッフ数は250人以上から4人にまで減少した。[10]この対立とそれがWHOのエイズ対策に与えた影響は、 PBSフロントラインのドキュメンタリー「エイズの時代」の一部として記録されている。 [11]

在任中、中島氏はコミュニケーション能力と管理能力が低いとも非難された。[12]

1988年の最初の任期中に、世界ポリオ撲滅計画が開始された。[3]

 

1993年 - 1998年: WHO事務局長としての2期目[編集]

1993年5月、中島は93対58の投票で事務局長として2期目の任期に再選された。彼の再選は、米国を含むWHOへのすべての主要援助国から反対された。WHOは1月の執行委員会の投票前に執行委員会メンバーに契約を交付していたため、この再選をめぐって論争が巻き起こった。[13]監査が実施され、3月に終了し、中島がWHOの資金を不正に使用したことはなかった。[14]中島は、1992年8月に「不忠」を理由に解雇されていたアルジェリアの神経科医で中島の副官であるモハメド・アブデルムメネ[12]と対立した。[15]

1997年、中島氏は再選を目指さず、任期は1998年7月までとすると発表した。後任には米国と欧州連合の支持を受けたノルウェーのグロ・ハーレム・ブルントラント氏が就任した。 [16]

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♫ 麻生副総理の発言が中島氏の後のどの事務局長を指していたのかは、わかりませんが、英語版は厳しい意見がでています。特にエイズについての対立は、目に余る強引さが際立っています。日本語版ではもちろんよいしょしていますが。

不可解ですね。

 

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