♬この投稿は「エンジェルナンバーに導かれて」の中に編集したものです。
エックハルト・トール著「ニューアース」より
不満と恨み・・・・・・・・・・・・・・・・P73
不満は、エゴが自分自身を強化するために用いる得意の戦略のひとつだ。不満はどれも心が作り出し、あなたが完全に信じ込んでいるささやかな物語である。不満を声に出そうと頭の中にとどめておこうと、違いはない。他に自分を同一化するものをあまりもたず、不満だけで楽々と生き延びているエゴもある。そういうエゴの虜になると、不満とくに他人に対する不満が無意識の内に習性となる。無意識だからもちろん自分では気づかない。人々を見た時、もっと多いのはその人達について話したり思い浮かべる時、心の中で否定的なラベルを張り付けるというのもこのパターンの一つだ。悪口雑言はこのラベルはりのもっとも露骨な形で、自分は正しいと勝ち誇らずにはいられないエゴの必要性を満たしてくれる。(略)
恨みは不満や精神的なラベル張りに付随する感情で、エゴはそこからさらに大きなエネルギーをくみ取る。恨むというのは苦々しい思いをする、憤慨する、バカにされたと感じる、傷ついたと思う事だ。人は他人の貪欲さ、不誠実さ、いい加減さ、現在や過去の行動、言ったこと、しなかった事、すべきだった事やすべきでなかった事を恨む。エゴはこれが大好きだ。他者の無意識を見過ごさず、相手と同一化する。誰がそうしているのか?
あなたの中の無意識、エゴである。ときにはあなたが他者に見る「過ち」は本当はありもしないものかもしれない。まったくの誤解で、敵を見つけたがり、自分が正しくて優れていると思いたがるよう条件づけられた心の投影に過ぎないかもしれない。また、過ちが事実あったとしても、そこにばかり集中し他の一切を顧みないことで、あなたはその過ちを拡大してみているかもしれない。それに他人の中にみて反応することほど、自分の中にもしっかりと存在している。
他者のエゴに反応しないこと、それが自分自身のエゴを乗り越えるだけでなく、人間の集団的なエゴを解体する為に最も有効な手段の一つである。
だが反応しないでいられるのは、誰かの行動がエゴから発したもので、人間の集団的な機能不全の表れだと認識できるときだけだ。そのような行動が個人的なものではないと気づけば、相手個人に反応しようという衝動はなくなる。
そしてエゴに反応しないでいると、相手の正気、つまり条件づけられていない意識を引き出せる場合が多い。状況によっては、根深い無意識に動かされている人々から、自分を守る為に現実的な手段を取らなければならないかもしれない。その場合も相手を敵とせずに行動することは出来る。しかし最大の防衛策は意識的であることだ。あなたがエゴという無意識を相手個人と同一視したとき、その相手は敵になる。反応しないのは、けして弱さではなく、強さである。反応しないとは許すことだ。
許すとは、見過ごすこと、いや見抜くことである。エゴを通してすべての人間の核心、本質である正気を見抜くのだ。
エゴは、他人だけでなく、状況にも不満や恨みを持つのが大好きだ。人に対して出来る事は、状況にもできる。つまり状況を敵にすることも出来る。(略)
不満と、誰かに過ちや欠陥を教えて正させることを混同してはいけない。不満を持たない事は、必ずしも質の悪さや劣等なふるまいを我慢することではない。ウェイターにスープが冷めているから温めなおす必要があると伝えることはー--事実だけを取り上げるなら、事実は常に中立だからーーーエゴではない。「よくも私にこんなスープを出せたもんだ。」これは不満である。ここには「この私に」という意識があり、冷めたスープに個人的な侮辱を感じてここぞとばかりに騒ぎ立てる「私」誰かが悪いときめつけて喜ぶ「私」がいる。
この不満は変化を起こすのではなく、エゴを喜ばせるのに、役立つだけだ。ときにはエゴがほんとうは変化を望んでいない事が明白な場合さえある。それなら不満を言い続けられるから。・・・・・・・・・・・・・P75
エックハルト・トール著「ニューアース」より
平和と波乱、どちらを望むか?・・・・・・・・・P88
あなたは平和を望むだろう。平和を望まない者はいない。だがあなたの中には波乱を、紛争を望む何者かがいることも事実だ。今この瞬間には、その何者かの存在を感じないかもしれない。だが何らかの状況が、(それどころか、ただの思考が)、あなたの反応の引き金をひいたらどうか。
誰かがあなたを非難した、あなたを認めなかった、あなたのテリトリーに侵入した、あなたのやり方をあげつらった。金品を巡って言い争いになった・・・その時あなたは自分のなかで、なにか大きな力が、多分怒りや敵意の仮面をつけたキョウフが盛り上がってくるのに気付けるか? 声が荒々しく、あるいは甲高くなったり何オクターブ低い大声になったと自覚できるか? 心があわてて自分の立場を防御し、正当化し、攻撃し、相手を非難しようとするのがわかるか? 言い換えれば、無意識が発動した瞬間にその事実に気付けるだろうか? 自分の中に戦闘態勢の何者かがいること、脅かされたと感じて、どんな犠牲を払ってでも生き延びようと望む者、波乱のドラマにおける勝利者と自分のアイデンティティを確認するために、劇的状況を必要とするものがいることを感じとれるだろうか? 平和よりも自分が正しい方がいいという何者かが、あなたのなかにいることを感じられるだろうか?・・・・・・・P89
すべての構造物は不安定・・・・・・・・・P91
(略) エゴは常に他者あるいは状況に何かを求めている。いつも隠れた課題を抱えているのだ。「まだ充分ではない。」と感じ、非充足感、欠乏感に苛立っていて、なんとかそれを埋めなければ、ならない。そのために人や状況を利用するが、たとえ一時は欠落を埋められても、その成功は決して長続きしない。目的を遂げられないことも多いし、たいていは「私が望む」ことと、「実態」とのギャップに動揺し苦しむ。今は古典となった有名な「サティスファクション」はまさにエゴの歌だ。
エゴの底流にあってすべての行動を律しているのは不安である。自分が何者でもないという不安、存在しなくなるという不安、死の不安だ。結局エゴの行動はすべてこの不安を解消するためなのだが、エゴにはせいぜい親密な人間関係や新しい所有物や、あれこれの勝利によって、一時的にこの不安を紛らすことしかできない。幻想はけしてあなたを満足させてはくれない。本当のあなたに気づくことが出来れば、それだけが、あなたを解放してくれる。
なぜ、不安なのか? エゴは形との同一化によって生じるが、実はどんな形も永遠ではなく、すべて移ろいゆくことをどこかで承知している。だから外見はどれほど自信満々に見えても、エゴにはいつも不安定な頼りなさがつきまとう。・・・・・・P92
優越感をもちたいエゴ・・・・・・・・・・・P93
エゴにはつい見過ごしがちな微妙な形がたくさんある。あなたはそれを他者に、そしてもっと大事なことだが自分にも見る事ができるはずだ。覚えておいてほしい。自分の中のエゴに気づいたとき、気づいているのはエゴを超えた自分、もっと深い「私」である、インチキに気づいた時には、すでに本物が現れているものなのだ。
たとえば、誰かにニュースを知らせようとする。「ねえ、聞いた?え、まだ知らないの?それじゃあ教えてあげる。」その時あなたが注意深くて、きちんと「いまに在る」ことが出来ていれば、たとえそれが悪いニュースでも話そうとする一瞬に満足感がよぎるのがわかるだろう。そのわずかな瞬間、エゴの目からすれば、自分に有利で相手には不利な不均衡が生じているからだ。その瞬間、あなたは相手より「多く」を知っている。あなたが感じた満足感はエゴのそれで、他人との関係で自分が強者になったと思う事から生じている。相手が大統領だろうが法王だろうが、その瞬間はあなたの方が「多く」を知っていることによって優越したと感じるのだ。たいていの人がゴシップに目の色を変える理由の一つはここにある。さらにゴシップのほとんどには、他人への悪意の批評や批判という要素があり、それも自分の方が論理的に優位に立ったという想像を通じてエゴを強化する。誰かに否定的な判断をするときには、きっとこの優越感がある。・・・・・・・・・・・P94
エゴと「いま」という瞬間・・・・・・・・・・・・P218
人生で最も根源的で重要な関係は「いま」との、と言うか、どのような出来事であれ「いま」という時がとった形との関係である。この「いま」との関係が機能不全なら、その機能不全はあらゆる関係、あらゆる状況に反映されるだろう。簡単に言えば、エゴとは現在という時との関係の機能不全であると定義してもいい。あなたが現在と言う時とどのような関係でいたいかを決められるのは、いまのこの瞬間だ。
あるレベルの意識に達していたら(本書を読んでおられれば、だいたいは達しているはずだが)現在という瞬間とどんな関係でいたいかも決めることが、出来るだろう。
現在という瞬間を友人としたいか、敵としたいか? 現在という瞬間は人生と切り離すことができないのだから、実は人生(生命)とどんな関係でいたいかを決めることでもある。いまという瞬間を友人としたいと決めたら、まずあなたが働き掛けるべきだ。それがどんな姿で現れようとも、友人らしく歓迎すること。そうすればどうなるかはすぐにわかる。人生(生命)はあなたの友人として接してくれる。人々は親切になるし、状況は都合よく展開する。一つの決断があなたの現実をまるごと変化させる。だがこの決断は何度も繰り返してしなければならないーーーそれが自然な生き方になるまで。
現在という瞬間を友人としようという決断は、エゴの終わりを意味する。エゴは決して現在という瞬間と仲良くできない。ということは、人生(生命)と調和できないということだ。
エゴの本質は、「いま」を無視し抵抗し、貶(おとし)めるようにできている。エゴは、時間の中で生きている。エゴが強ければ強い程、人生はいっそう時間に支配される。そうなるといつも過去か未来のことばかりを考え、自分がどんな人間かが過去によって決定され、自己実現を未来に頼ることになる。キョウフ、不安、期待、後悔、罪悪感、怒りなどは、意識が時間に縛られて機能不全状態になっていることを、示している。
現在という瞬間に対するエゴの対応は3つある。目的の為の手段として対応する、障害として対応する。敵として対応する、の3つだ。順番に見て行こう。そうすれば、あなたの中にいずれかのパターンが作動したときに気づくことが出来るだろうし、そのパターンを壊そうという決断もできる。
エゴにとって、現在という瞬間はせいぜい目的の為の手段でしかない。もっと大事だと、考える未来に連れて行ってくれる手段だ。ただしその未来は現在という瞬間として到来する以外になく、従って未来は頭の中の思考としてしか存在しない。言い換えれば、このパターンが働いていると、あなたはいつもどこかに行こうとして忙しく、決して「いま、ここに」腰を落ち着けることはできない。
このパターンがひどくなると(そういうことはまったく珍しくない)現在という瞬間が克服すべき障害に見えてくる。そこで苛立ちや欲求不満、ストレスが生じるのだが、私達の文明では、それが多くの人の日常、当たり前の状態になっている。こうなれば人生は、「問題」であなたは問題だらけの世界に暮らし、問題を解決しなければ幸せになれず、満たされず、ほんとうに生き始めることも出来ないと思い込む。ところが問題を一つ解決するたびに、次の問題が現れる。現在という瞬間を障害として見ているかぎり、問題に終わりはない。(略)
最悪なのは、(これもまったく珍しくない)現在という瞬間に敵として対応することだ。自分がしている事が嫌だとか、状況に不満だとか、起こっている事や起こったことを憎んでいる時、あるいは頭の中の対話がこうすべきだとかすべきでないという判断や不満や非難で溢れている時、あなたは「あるがままの今」に反論し、すでにある現在に文句をつける。人生を敵に仕立てているので、人生のほうも、「闘いが望みなら、闘わせてやろう」と応じる。外部的な現実はつねにあなたの内的な状態の反映だから、あなたは当然、敵対的な世界を経験する。
「私は現在と言う瞬間とどんな関係があるだろう?」と始終自分に問いかけることが大切だ。そしてしっかりと観察して答えを見つけなくてはいけない。私は「いま」を目的の為の手段にしているのか、それとも障害として見ているのか?敵にしてはいないか?現在という瞬間、それは唯一あなたが手にしているもので、人生は「今」と不可分だから、これは人生とどんな関係にあるかという問いかけなのだ。
この問いは、エゴの仮面をはいで「いまに在る」状態を取り戻すのにとても役に立つ。この問いには絶対的な真実はないが、(つきつめれば、私と現在の瞬間とは一つなのだから)正しい方向を指し示してはくれる。必要がなくなるまで、何度でも問いかけてみてほしい。
現在という瞬間との機能不全の関係は、どうすれば克服できるか?一番大事なのは、自分に自分の思考や行動に機能不全があると見極めることだ。それを見抜くことができ、自分と「いま」との関係が機能不全だと気づけば、そのときあなたは「いまに在る」事実を見極めることで、「いまに在る」状態が立ち上がる。機能不全を見抜いた瞬間、その機能不全は解体し始める。ここに気づいた人は、そうだったのかと笑い出す人もいる。見極めることによって選択する力が生じる。「いま」にイエスと言い、友人にするという選択が出来る。・・・・・・・・・・・・・P222
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