ロックリー 最初に来日したのは21年前になります。弥助との出会いは2009年で、徳川家康に仕えたイギリス人外交顧問、三浦按針のウィキペディアを見ていたところ、「関連項目」の欄で弥助を発見したんです。「えーっ、こんな人がいたのか」と驚きました。
信長が愛した黒人侍「弥助」の謎 | 文藝春秋 電子版
https://note.com/just_eel601/n/n34331acc074f
https://note.com/just_eel601/n/n5bdd8116f483
在モザンビーク日本国大使館 池田大使挨拶
平成30年10月23日
このように日本とモザンビークの関係は近年極めて緊密ですが日本とモザンビークは両国が外交関係を樹立する遙か以前より歴史的絆がありました。1581年イタリア人宣教師ヴァリニャーノは織田信長に謁見した際に,従者として連れていた黒人を信長が召し抱えたいと所望したため献上しました。その黒人はモザンビーク出身であり,信長は弥助と名付け武士の身分を与えて家臣にしたと伝えられます。
弥助は訪日した最初のアフリカ人とされています。その5年後,1586年にはヨーロッパ訪問からの帰国途上であった天正遣欧少年使節団がモザンビーク島に立ち寄っており,アフリカの地を初めて踏んだ日本人として伝えられています。 駐モザンビーク日本国大使 池田敏雄(外務省)
http://totalnewsjp.com/2024/07/25/jiken-108/
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♬この黒人奴隷のサムライについて、今巷で騒ぎとなっているようです。
なぜか、ツイッターなどで火消しに躍起になっている組織的な動きがみられます。
この話がフィクションで作り話だとする人達がいる反面、歴史的に文書が残っているものもあると
いうことです。
なぜ、日本が奴隷を手にしたのかは、上のサイトに詳しくでていますので、ご覧になってください。
日本の現在の名古屋市のあたりの尾張を制定していた、織田信長とイエズス会の繋がりが、これで確かなものになってきました。
イエズス会はバチカンのウラ支配をしてきた勢力で、日本に残っているイエズス会のフランシスコザビエルは有名です。彼の絵は紙の上に油が塗られており、長く保存できるようになっていました。
上智大学はイエズス会でした。
イエズス会は実は武器商人で人身売買業者(奴隷商人)日本に爆薬、鉄砲を輸入する組織でした。
日本の大名は資金の代わりに、女性を売り飛ばしてきました。(からゆきさん)
それを知り怒った豊臣秀吉は、その後バテレン禁止令を発布したのです。
日本政府は人身売買業者の天皇家の正体を知っているでしょう。そして傘下かもしれません。
東京で起こった「プチエンジェル事件」は小児性愛者のエリートの名簿(2000名とも)があり、それは隠されています。実行犯のみ逮捕で終わっていますが、実体の解明には至っていません。
つまり日本にも小児性愛者のエリートたちがごっそりといると言うわけです。
日本は人身売買を隠してきました。ですから、この奴隷商人から渡ったサムライ弥助は、寝た子を
起こすドラマのように、慌てているのかもしれません。