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今日出かける予定の旅は、悪天候のため交通機関の欠航により中止になりました(涙)
行く予定だったところは書かないでおきます(^^ゞ
ということでボケ~っと本など読んでいます^_^;
ちょうど一冊読み終わったので、このところ読んでいたものをまとめてみます。
書きなぐりで読みにくいかもしれませんが、文章力がありませんゆえ御容赦ください^_^;
今回も山の本はありません。
『櫂』宮尾登美子著(ちくま文庫)
宮尾登美子さんの本は難しい字(ちょっと読めない)や言葉がでてきてちょっととっつきにくいですが、久しぶりに読み応えのある本でした。
宮尾登美子さんの両親と自身の生い立ちが書かれています。明治、大正、昭和を生きた女性の一生は読んでいて気が重くなりました。人の一生にはいろいろなことが起こりますが、それにしても波乱万丈な人生。年代的にわが身、我が親のことなど回想されました。
四国高知の情景や祭り、食べ物などは猿板ブログのお陰で目の前に浮かぶようでした。
『ひつじが丘』三浦綾子著(講談社文庫)
久々に三浦綾子さんの作品。
若い頃いろいろと読んでいましたが、これは本棚にならんでいたものの印象になく、再読?です。
読んでみて、これは私の好みでは無いと思い出しました^_^;
私の場合信仰心というものが希薄で敬虔なクリスチャンの作品は読みづらいものがあり、それはヘンだとか、オカシイとか、そりゃ無いだろうとか一人ツッコミを思いながらとにかく読み終えました。
自由な時代に不条理な理屈だと思うこと多々あり、ついていけませんが、愛とは何か?うわべだけでない深いところの人間のあり方を問うているのかもしれません。
『「赤毛のアン」に学ぶ幸福になる方法』茂木健一郎著(講談社文庫)
『赤毛のアン』は中学(小学生?)の頃初めて読んで、それ以来愛読書。もう、何回読んだことか。さすがに最近は読んでいませんでしたけど、また読んでみたくなりました(^^♪
アンが好きなのはおそらく人並みにコンプレックスがあって、それでも夢があり、自分の世界をもっているからでしょうか。その無心な一生懸命さが良かったのだと思います。
でもこの本の著者が男性で意外でした。ということはアンは読む人の性別関係なくその人間性に惹き付けられるものがあるのかもしれません。
少女文学の枠を超えた本であると語る文章の端々には難しい所もありますが、読んでいてとても嬉しくなりました。
アンのもつ強烈な想像力は「現実世界においてのやりきれなさ」をなんとかなだめて生きていくという精神活動のような気がする・・・って、そうなんですよね。その精神力いまだに欲しいと思います^_^;
でもその強烈な個性って、子供特有の財産なんですよね。だから大人は子供のことをよく見ててあげなければいけない。でもそれが大人になると難しくなってしまって、子供の個性を潰してしまったのではと思ったりもします。子供は成長していつか大人になりますから。アンも例外ではないですが。
そう思うと子供の頃が愛おしいです。自分自身にしても、わが子のことにしても。
著者は「今の人たちはインターネットや映画などで世界が広がりすぎている」と言っています。確かに仮想の世界が広がっているような気がしないではありません。それもまた夢があるといえなくも無いですが、現実の世界をおろそかにしてはいけないのでしょうね。ネット漬けの今を思うと耳が痛いです^_^;
子供の頃のような喜怒哀楽の感情は次第に萎んでしまっているのを感じます。「コレは何?あれは何故?」といった思いもピュアな子供の思いとは当然変わってきています。でも普遍的な疑問や探究心って、どこかにありますよね。普段深く考えなくても答えの見つからない疑問をどこかに秘めているのだと思います。
映画「おくりびと」、私はまだ見ていませんが、想像するに、人間の魂とか尊厳とか、そういう不思議を持っているのではないかなと思うんですよね。
子供の頃の礎があって、若いころの反抗や悩みがあって、それでもやはり持ち続ける思いというものが人間にはあるのだと思います。これはもう理屈じゃないような!
大人になってもアンのような気持ちが少しでも残っていたらいいなと思うこの頃、山に向き合う人たちは、みんなアンのような人たちかもしれません。だって、花を見て、景色をみて、動物を見て、山頂に立って・・・・それぞれが感動していますから。山歩きしていてよかったです(^^ゞ 感動して、そして元気をもらってこれるのですから最高です。
「感動することをやめた人は、生きていないのと同じことである」、これはアインシュタインの言葉だそうです。山に行っていなかったら、私生きていないのと同じなのかなぁ・・・(笑;汗;)
『向日葵の咲かない夏』道尾秀介著(新潮文庫)
不思議な作品・・・と私は思いました。途中で読むのやめようかと思ったりしましたが、中断するのも躊躇われ、とうとう最後まで一気に読みました。
読後感は10歳になろうとしている少年には重過ぎる人生、読むほうも別の意味で暗くて重いストーリーでした。
死後の生まれ変わりとか、さまざまな不可思議な出来事とかは差し引いて、行間の人の思いや感じ方などは現実的なこととして考えさせられます。
行間その1、「心が綺麗であれたら、疑うことをしないでいられたら・・・。もし自分があんなふうになれたら、振舞えたら」・・・とは思うことです。
行間その2、「誰だってそうじゃないか!いつだって何かを隠そうとしているし、何かを忘れようとしているじゃないか!」・・・そうそう、そう思いますよ。そうでもしないと生活やっていけませんから・・・^_^;
行間その3、「自分がやったことを、ぜんぶそのまま受け入れて生きていける人なんていない。失敗をぜんぶ後悔したり、取り返しのつかないことをぜんぶ取り返そうとしたり、そんなことやってたら生きていけっこない。・・・見たくないところは見ないようにして、見たいところはしっかり憶え込んで、みんなそうなんだ・・・」・・・うんうん、そうかもしれないです。でも人間ってそう簡単に忘れられなくて、忘れたいことほど憶えていたり、失敗や後悔などはましてそうですが、それが苦い思い出から懐かしい思い出に変わったりするというのは時間が教えてくれることなんですよね。
人生の矛盾を敏感に感じ取る年代、ピュアな感性を持っていたころが私にもあったのでしょうか。なんとも寂しい感慨です^_^;
この作品は読む人によって感想様々、好みの分かれるところではないでしょうか。
話し変わって、私にとって東野圭吾の作品には好きなものとそうでないものがはっきりしていますが、この作品はその、そうでないものの部類に入ります^_^;
この作品について飼い猫さんも感想を述べられていますよ(^^ゞ
偶然、私も持っていまして、すぐ読んでみました。
たしかにこれは映像には向かない、本なればこその世界だと思いました。
珍しく音楽を聴きながら♪
空がようやく明るくなってきたようです♪
行く予定だったところは書かないでおきます(^^ゞ
ということでボケ~っと本など読んでいます^_^;
ちょうど一冊読み終わったので、このところ読んでいたものをまとめてみます。
書きなぐりで読みにくいかもしれませんが、文章力がありませんゆえ御容赦ください^_^;
今回も山の本はありません。
『櫂』宮尾登美子著(ちくま文庫)
宮尾登美子さんの本は難しい字(ちょっと読めない)や言葉がでてきてちょっととっつきにくいですが、久しぶりに読み応えのある本でした。
宮尾登美子さんの両親と自身の生い立ちが書かれています。明治、大正、昭和を生きた女性の一生は読んでいて気が重くなりました。人の一生にはいろいろなことが起こりますが、それにしても波乱万丈な人生。年代的にわが身、我が親のことなど回想されました。
四国高知の情景や祭り、食べ物などは猿板ブログのお陰で目の前に浮かぶようでした。
『ひつじが丘』三浦綾子著(講談社文庫)
久々に三浦綾子さんの作品。
若い頃いろいろと読んでいましたが、これは本棚にならんでいたものの印象になく、再読?です。
読んでみて、これは私の好みでは無いと思い出しました^_^;
私の場合信仰心というものが希薄で敬虔なクリスチャンの作品は読みづらいものがあり、それはヘンだとか、オカシイとか、そりゃ無いだろうとか一人ツッコミを思いながらとにかく読み終えました。
自由な時代に不条理な理屈だと思うこと多々あり、ついていけませんが、愛とは何か?うわべだけでない深いところの人間のあり方を問うているのかもしれません。
『「赤毛のアン」に学ぶ幸福になる方法』茂木健一郎著(講談社文庫)
『赤毛のアン』は中学(小学生?)の頃初めて読んで、それ以来愛読書。もう、何回読んだことか。さすがに最近は読んでいませんでしたけど、また読んでみたくなりました(^^♪
アンが好きなのはおそらく人並みにコンプレックスがあって、それでも夢があり、自分の世界をもっているからでしょうか。その無心な一生懸命さが良かったのだと思います。
でもこの本の著者が男性で意外でした。ということはアンは読む人の性別関係なくその人間性に惹き付けられるものがあるのかもしれません。
少女文学の枠を超えた本であると語る文章の端々には難しい所もありますが、読んでいてとても嬉しくなりました。
アンのもつ強烈な想像力は「現実世界においてのやりきれなさ」をなんとかなだめて生きていくという精神活動のような気がする・・・って、そうなんですよね。その精神力いまだに欲しいと思います^_^;
でもその強烈な個性って、子供特有の財産なんですよね。だから大人は子供のことをよく見ててあげなければいけない。でもそれが大人になると難しくなってしまって、子供の個性を潰してしまったのではと思ったりもします。子供は成長していつか大人になりますから。アンも例外ではないですが。
そう思うと子供の頃が愛おしいです。自分自身にしても、わが子のことにしても。
著者は「今の人たちはインターネットや映画などで世界が広がりすぎている」と言っています。確かに仮想の世界が広がっているような気がしないではありません。それもまた夢があるといえなくも無いですが、現実の世界をおろそかにしてはいけないのでしょうね。ネット漬けの今を思うと耳が痛いです^_^;
子供の頃のような喜怒哀楽の感情は次第に萎んでしまっているのを感じます。「コレは何?あれは何故?」といった思いもピュアな子供の思いとは当然変わってきています。でも普遍的な疑問や探究心って、どこかにありますよね。普段深く考えなくても答えの見つからない疑問をどこかに秘めているのだと思います。
映画「おくりびと」、私はまだ見ていませんが、想像するに、人間の魂とか尊厳とか、そういう不思議を持っているのではないかなと思うんですよね。
子供の頃の礎があって、若いころの反抗や悩みがあって、それでもやはり持ち続ける思いというものが人間にはあるのだと思います。これはもう理屈じゃないような!
大人になってもアンのような気持ちが少しでも残っていたらいいなと思うこの頃、山に向き合う人たちは、みんなアンのような人たちかもしれません。だって、花を見て、景色をみて、動物を見て、山頂に立って・・・・それぞれが感動していますから。山歩きしていてよかったです(^^ゞ 感動して、そして元気をもらってこれるのですから最高です。
「感動することをやめた人は、生きていないのと同じことである」、これはアインシュタインの言葉だそうです。山に行っていなかったら、私生きていないのと同じなのかなぁ・・・(笑;汗;)
『向日葵の咲かない夏』道尾秀介著(新潮文庫)
不思議な作品・・・と私は思いました。途中で読むのやめようかと思ったりしましたが、中断するのも躊躇われ、とうとう最後まで一気に読みました。
読後感は10歳になろうとしている少年には重過ぎる人生、読むほうも別の意味で暗くて重いストーリーでした。
死後の生まれ変わりとか、さまざまな不可思議な出来事とかは差し引いて、行間の人の思いや感じ方などは現実的なこととして考えさせられます。
行間その1、「心が綺麗であれたら、疑うことをしないでいられたら・・・。もし自分があんなふうになれたら、振舞えたら」・・・とは思うことです。
行間その2、「誰だってそうじゃないか!いつだって何かを隠そうとしているし、何かを忘れようとしているじゃないか!」・・・そうそう、そう思いますよ。そうでもしないと生活やっていけませんから・・・^_^;
行間その3、「自分がやったことを、ぜんぶそのまま受け入れて生きていける人なんていない。失敗をぜんぶ後悔したり、取り返しのつかないことをぜんぶ取り返そうとしたり、そんなことやってたら生きていけっこない。・・・見たくないところは見ないようにして、見たいところはしっかり憶え込んで、みんなそうなんだ・・・」・・・うんうん、そうかもしれないです。でも人間ってそう簡単に忘れられなくて、忘れたいことほど憶えていたり、失敗や後悔などはましてそうですが、それが苦い思い出から懐かしい思い出に変わったりするというのは時間が教えてくれることなんですよね。
人生の矛盾を敏感に感じ取る年代、ピュアな感性を持っていたころが私にもあったのでしょうか。なんとも寂しい感慨です^_^;
この作品は読む人によって感想様々、好みの分かれるところではないでしょうか。
話し変わって、私にとって東野圭吾の作品には好きなものとそうでないものがはっきりしていますが、この作品はその、そうでないものの部類に入ります^_^;
この作品について飼い猫さんも感想を述べられていますよ(^^ゞ
偶然、私も持っていまして、すぐ読んでみました。
たしかにこれは映像には向かない、本なればこその世界だと思いました。
珍しく音楽を聴きながら♪
空がようやく明るくなってきたようです♪
宮尾登美子さんの「櫂」は先日再読したばかりでした。「蔵」もそろそろ忘れかけているので再読しようと思っています。「天涯の花」も美しいキレンゲショウマのことが書かれていて面白いと思います。「赤毛のアン」は家内が大好きで。プリンス エドワード島の土地を購入してしまいました。その証明書が居間に額に入って飾られてあります。といってもほんの10cmくらいですが・・・
コメントが遅くなって失礼しました(^^ゞ
「蔵」「天涯の花」もまたそのうち読んでみようと思います♪
「赤毛のアン」奥様もお好きでしたか、嬉しいです。若い頃、プリンスエドワード島にも行ってみたいと思ってまして、アンの家が出来た時はすぐにでも行きたいと思ったのに心無い人によって燃えてしまいとても残念に思ったことがあります。そのご再建されたのかどうか・・・?
ある作家には心底会ってお話しを伺ってみたいと思ったことがあって、それもウジウジしているうちにその方亡くなってしまいました^_^;
プリンス エドワード島の土地を購入、いいですね~。いかれたことありますか?いいな~♪
嬉しくなってしまいます♪
コレだけは捨てられないんですよ、私も。
私は全シリーズ読みましたけど、アンらしいのはやはり最初のですね。でも赤毛のアンを読むと次の青春の方もつい続けて読んでしまいました(笑)
やはり赤毛のアンのイメージが強いので、大人のアンは物足りなくなってしまいます^_^;
自分も大人になって失ってしまったものがそこにはある、ということで元気をもらっています(^^♪
感性豊かなsanaeさんの娘さん時代が彷彿されます。
それに引替え、全く読書から遠ざかっている己が恥ずかしい。
以前 朝の教育TVで松坂慶子さんが、赤毛のアンの原語版を読みながら、プリンスエドワード島を探訪していましたね!
でも楽しんでますよ~(^^♪
赤毛のアンの取材・・・・お仕事は大変でしょうけど、行けるのはいいな~と思います(笑)
原語で読めたら嬉しいですが、望むべくもありません^_^;