気楽に山歩き

山歩きもHPも気楽に楽しむ日々を綴ります。話題は主に山歩き関連です。

『下山の思想』 五木寛之著 (幻冬舎新書)

2018年01月22日 | 
下山といっても山登りの下山ではないことは周知のことでして^^;
人生の、時代の、あるいは世の中の、はたまた経済の成長し続けた後の現在の立ち位置乃至処し方といったようなことなのかなと思います。

成長過程を登山とするならば、山頂に到達して次に下山の時期があるという、つまりいつまでも成長が続くわけではなく、やがて下山の時が来る、今がその時期ではないかということなのですね。

登山は無事に下山するまで登山ですが、常に何が起こるか分かりませんから、安全な下り方が大切になります。

下るという言葉にこだわると成長の裏返しのような印象になりますが、五木寛之さんはそれをしきりに否定されています。実りの多い豊かな下山を続ける必要があると言われてもよくわかりませんが、私には下山すればまた次の山へ登ればいいじゃないかと思ってしまいます。何度でも登ればいい、縦走したっていいじゃないか・・・なんてね。そう、下山しているときは次に登る山を考えていますから(^^ゞ

でも人生はそうはいきません。生き物には寿命がありますから上り坂、下り坂は実感できます。体力も思考力もすべてが若いころと同じとはいきませんから。そして幸か不幸かその寿命の時期が分かりません。明日の事もわかりません。過ぎた時間は戻りません。大事なのは今精一杯生きること。とはいえ、いつもいつも必死に頑張れる訳ではないですけど、いろいろなこと(事件、災害など)が起きている中でこうして生かされているという事は無駄にしてはいけないと思っています。でも時には苦しいときだって死にたくなるときだって無いわけじゃないです。生きたくても生きられない人もいるというのに、日本では毎年自殺者が3万人以上とか。その原因の半分を占めるのが病気だそうで、医学は発達していると思われるのに、病を苦にする人がこんなにも?と驚きました。

医療制度には、私も違和感感じることあります。命の尊厳とはどういうことだろうと考えさせられます。

現代の交錯する情報について思うことは同感です。Aの品を食べすぎると毒だという人がいれば、反対に体に良いとか癌がなおるとかいう人もいて、一事が万事真逆の考え方をする人がいるわけで、実際何を信じたらいいのか分からないことが多いです。親のいう事は絶対だった時代ははるか昔で、今はやり方が違うと子供から指摘され、それこそ逆の考え方になっていたりするのですから親の威厳なんてもう無いも同然。皆が皆情報に振り回されていると感じます。

それならそれで自分らしく生きるしかないです。世の中には予測不能な色々なことが起き、いろいろな人が居る中で、不器用な人は何かと損するわけですが^^; 損する・・・不公平感を持たずに生きるというのは難しい、五木さんが書かれた孔子の言葉はこんな感じでしょうか?チガウカな?^^; 

「養生に貯金無し」「記憶にも貯金は無い」
五木さんが「昔学生の頃読んだ小説のことなど、今はほとんどおぼえていない。貯金はあっという間に消えてしまうものなのだ」と書かれてますが、五木さんでもそうなのか、私だけじゃないのかと思わずホッとしたりしました。「だから養生も日々これに努めるしかないのである。昨日これだけ運動したから今日はいいだろう、とはいかない。体も頭も、日々ちゃんとガソリンを入れなければもたないのだ。」はぁ、さすが!確かにそうですね。努力が足りない私とはここがやはり違うんだな・・・! (比較になりませんが)^^;

「人間というものは、自分が欲する現実しか見ていない。レンズの焦点のようなものだ・・・(中略)・・・心の欲しないものは焦点外にあって、ぼんやりと写っているだけなのだ」
これもなるほどね~と思います。もう記憶が薄れ掛けていますが(^^;)養老孟司さんの『バカの壁』を思い出しました。

見えるところを見るだけでなく、見えない所の大事な情報も見逃さないようにして、いろいろ見極めなければいけないのでしょうけど、いまやインターネットやらテレビ、新聞、雑誌などで情報は溢れていて益々迷うばかりです^^;

せめてのんびり山歩きの登り下りを楽しみながら心穏やかに過ごしたいものです。

気になったところを思いつくままに書いたら長くなってしまいました^^;



五木寛之:1932年生まれ 

2011年発行


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 大雪警報 | トップ | 大雪のピークは過ぎた? »

コメントを投稿

」カテゴリの最新記事