副題 ヘリ・レスキューに命を懸ける男、篠原秋彦
私がこの篠原秋彦さんの名前を知ったのは2002年1月6日(日)鹿島槍ヶ岳の遭難救助中に事故死した時でした。
この日折りしも白馬の麓のペンションに泊まっていて、テレビのニュースにくぎ付けになったのを今も鮮明に覚えています。
遭難救助に東邦航空のヘリが有能で活躍していたことは知っていましたが、当時は他人事のように思う反面、いつ我が身にふりかかるか分からないという危惧も感じないではありませんでした。
ペンションに泊まったのはこの時大学生の娘と私達三人で二泊したと記憶しています。オーナーさんたちにいろいろとお話を聞いて五六豪雪というのを知ったのもこの時。
五六豪雪とは1980年(s55)~1981年(s56)年のころ降り続いた豪雪を指し、立て続けに遭難が起きた年でした。当時は娘がもうすぐ産まれるという頃でしたから、それほど関心も持たなかったのですが、この頃(2002年)は既に北アルプス、中ア、南ア、八ヶ岳などにも行っていましたから遭難が起きるたびにニュースが他人事とは思えず視聴していたものでした。
白馬のペンションに居たお蔭で、よりリアルな出来事でしたが、この翌日娘はスキー、私たちは少しだけスノーハイクとスキーを楽しんだのでした。
その時の記録を見ると、やはり天気が悪く低い場所でも降雪が多かったのが分かります。
この時空飛ぶ山岳救助隊は懸命な捜索をしていたのだと今更ながら頭の下がる思いです。
今になってようやく読んだ本ですが、発行された1998年の3年数ヶ月後、救助中の事故により亡くなったのはどうして?と思う程、パーフェクトな救助活動を続けていた人でした。
当然ながら、当時の関係者の方々の衝撃は大きかったことでしょう。
享年54歳、お元気なら今頃は立場を代えて情熱を注ぎ続けていたのかもしれませんね。惜しい方を亡くしてしまいました。
遭難はしないように、皆それぞれに思い、行動しているはずですが、山の天候の急変、ちょっとしたミスで起きてしまうものなんですね。
読んでいて凍りつく場面、思わず泣けてしまうような場面や救助された人の後日談が胸に深く残ります。
私がこの篠原秋彦さんの名前を知ったのは2002年1月6日(日)鹿島槍ヶ岳の遭難救助中に事故死した時でした。
この日折りしも白馬の麓のペンションに泊まっていて、テレビのニュースにくぎ付けになったのを今も鮮明に覚えています。
遭難救助に東邦航空のヘリが有能で活躍していたことは知っていましたが、当時は他人事のように思う反面、いつ我が身にふりかかるか分からないという危惧も感じないではありませんでした。
ペンションに泊まったのはこの時大学生の娘と私達三人で二泊したと記憶しています。オーナーさんたちにいろいろとお話を聞いて五六豪雪というのを知ったのもこの時。
五六豪雪とは1980年(s55)~1981年(s56)年のころ降り続いた豪雪を指し、立て続けに遭難が起きた年でした。当時は娘がもうすぐ産まれるという頃でしたから、それほど関心も持たなかったのですが、この頃(2002年)は既に北アルプス、中ア、南ア、八ヶ岳などにも行っていましたから遭難が起きるたびにニュースが他人事とは思えず視聴していたものでした。
白馬のペンションに居たお蔭で、よりリアルな出来事でしたが、この翌日娘はスキー、私たちは少しだけスノーハイクとスキーを楽しんだのでした。
その時の記録を見ると、やはり天気が悪く低い場所でも降雪が多かったのが分かります。
この時空飛ぶ山岳救助隊は懸命な捜索をしていたのだと今更ながら頭の下がる思いです。
今になってようやく読んだ本ですが、発行された1998年の3年数ヶ月後、救助中の事故により亡くなったのはどうして?と思う程、パーフェクトな救助活動を続けていた人でした。
当然ながら、当時の関係者の方々の衝撃は大きかったことでしょう。
享年54歳、お元気なら今頃は立場を代えて情熱を注ぎ続けていたのかもしれませんね。惜しい方を亡くしてしまいました。
遭難はしないように、皆それぞれに思い、行動しているはずですが、山の天候の急変、ちょっとしたミスで起きてしまうものなんですね。
読んでいて凍りつく場面、思わず泣けてしまうような場面や救助された人の後日談が胸に深く残ります。
東邦航空のラマ(SA315B)というヘリ、空飛ぶエンジンという感じでとても特徴がある機体だったので・・・
この事故以来、民間の山岳救助はほとんど行われなくなったとか。
その分警察や防災のヘリが大忙しで、本来業務ができないという話も聞きます。
いずれにせよ、お世話にならないように気をつけたいですね。
それはそうと、本格的な紅葉シーズンまでに回復することと良いですね。
まあ今はこんな天気ですから・・・ (^_^)/
http://www.yamakei.co.jp/products/2816900975.html
2002年元旦、伊豆の玄岳に登り、熱海駅前でも看板が倒れるような強風でした。こんな時に北アルプス入る人ってマゾ気あるなぁ、と思っていたら、数日後、当時の会の仲間から近所の人が行方不明だというので検索したら、同じページになんとHさんの同行者から飛騨沢で救助要請していることを知り、近所の神社にお参りして、テレビにかじりついて動静を見守っていました。
6日までは悪天候続きでヘリが飛べず、岐阜県警山岳警備隊と民宿経営者たちなどで組織されている北飛山岳救助隊が徒歩で救助に向かい、雪崩などの危険や暴風雪の中での大変な救助だったことを報道とその後ご遺族から克明に伺いました。
篠原さんが亡くなられた1/6、ようやく北アルプスに晴天になり、ヘリが飛べることになって、槍ヶ岳山荘にいた2つの山岳会11人と1/4に低体温症で亡くなり、一旦槍平小屋に収容されていたHさんが岐阜県警のヘリで下りることが出来た日でもあります。
穂高・涸沢ムービーの時の宮田さんと涸沢ヒュッテの山口さんのお話によると、今は救助はすべて県警にバトンタッチされているようです。
一歩間違えて、白出沢出合に踏み出した一歩目のゴーロでこけて岐阜県警などに大変お世話になって、えらそうな立場が書ける立場には本来ありませんのに、失礼いたしました。
この時の奥さんのコメントも印象的でした。
いっぱい助けた人が結局こうして亡くなって、それでも他に犠牲者が出なくて良かったって。
お辛かったでしょうにね。
そうですか、警察の業務に支障が・・
偉大な人だったのですね。
本当に気をつけなければ・・です。
今年の紅葉は早くも終わっている所もあるようですが、こんな雨続きのお天気でこれからどんな感じでしょうね。
相変わらず詳細な情報をお持ちですね。
Hさんもこの時だったのですね・・・
何度か話したことありましたから、本当に驚きました。
篠原さんの映像はYou Tubeで見ました。
タッシーさんもトラブルありましたか。
大ごとにならなくて何よりでしたね。
山歩きを続ける限りいつ何があるか分かりませんから私達も気をつけたいと思います。