新宿区上落合1-17-1に学徒援護会 東京学生会館があった。この場所はもうない。現在はマンションが建っている。あの時代が生んだ希有な場所であった。貧しいが希望にあふれる学生達でいつも賑わっていた。住んでいる者もいたし、アルバイトを斡旋してもらいにやってくる学生達も多くいた。屋上で壁打ちテニスをしたり、ぼろぼろの自習室で学習したり、朝夕と食堂の飯を食べ、たまに施設内の愛想の悪いおばちゃんのナポリタンスパゲティを食べたりした。食堂のおばちゃんとおじちゃんは夜は「鳥ふじ」の居酒屋を切り盛りしていた。建物の隣には俳優養成所「俳協」があり、未来の役者を目指す若者の声が響いていた。西武下落合駅から歩いて2分ほどの場所にあり、立地条件は良かった。
神田川(妙正寺川)の向こうにはホテル桃山があった。ここから新宿歌舞伎町のパチンコ屋ラスベガスへ戸松氏と掃除のバイトに行った。居酒屋「鳥八」では深谷さんとホッピーをはじめて飲んで、竹輪バターを食べた。シンカという中華屋さんでよく食事をした。
学徒援護会からテキ屋のアルバイトの斡旋をうけて、ここから石井聡氏と千駄ヶ谷神社などでの夜祭りの風船ヨーヨー掬いのバイトに行った。檜不動産のチラシ配りのバイトをした。鳩森小学校の子供達と仲良くなった。どこかの短大生の女の子とも仲良くなった。
若き日の山下慎司氏、小田徹氏。いまはそれぞれ円熟した大人になっている。うるさい寮祭(落合祭)に背を向けて、たくさんの本を手提げ袋に詰めて喫茶店に読書に出かける玉田尚之氏。どことなく寂しそう、学究肌で小室直樹に憧れてた。共同のゴミ捨て場の新聞や雑誌を拾っては集めていた。
文部省の外郭団体である学徒援護会。電気水道ガス代が全てこみで当時月3000円の寮費だった。冬はスチーム暖房が入るが、ヒーターの配管ムキだしで通っていて、それが朝には変則的な騒音をあげて、各部屋に温風を送ってた。夏は暑かった。屋上で冷水シャワーをあびた。1階にはアルバイト紹介センターがあり、近隣の学生が日雇いアルバイトを探して、日中は徘徊していた。その4Fの西棟に住んでいた。新宿の高層ビルの夜景がきれいに見える場所だった。池袋のサンシャインビルも見えた。聖母病院の医師が寮医として診察をする事があった。内科医の無愛想な医者だった。診察が済んだら、医師は事務室で蜂の子をつまみに学生会館の職員達と共にウィスキーを飲んでいた。各階に受信専用の電話機があり、外部から電話を受けることができた。
新入生歓迎コンパ
下落合駅付近に不気味な旅館があった。荷物が届けば、名前が黒板に書かれていた。寮費滞納も張り出されていた、2,3ヶ月分ためている人もいた。さすがに寮費が安いのでそれ以上の人はいなかった。コメントがこの記事にはいくつもいただいていました。個人の日記ですが、誰が見ても構いませんというスタンスで書いているブログですが、記憶を共有している人がいるのは嬉しいです。ありがとうございます。戸松氏と一緒にラスベガスの掃除に行ったのなら、早稲田か、上智か学習院の学生さんですかね。新宿のラスベガスというパチンコ屋は歌舞伎町にはありませんが、あのビル、あのパチンコ屋のフロアーは昔のままで、掃除用具を仕舞っていた収納はまだあるんですよ。開けてみたい衝動にかられましたが、完全な不審者なので開けはしませんでしたが。我々は学生会館5F組(俳協側棟)は上智・学習院・成城・立正・東京外語大の連合でした。
鳥藤のおっちゃんが食堂のおじさんで、計算が遅く、列ができていました、おばちゃんの時は計算が早いので学生は、「おっちゃんの時は、おせえなぁ」とか陰口も言いましたが、おっちゃんは正直でいい人なので、学生のことを考え丁寧に計算していたし、間違えたら正直に訂正するので、みんな大好きでした。しかも、中央大学卒なので、中央大学の学生にはこっそりサーヴィスしてくれるという噂がありました。
今は俳協のたてものも小屋のような建物から、立派なビルになり、学生会館のあった場所はこれもまた立派な施設ができていました。
通行人の方、H31年1月23日のコメントをありがとうございました。(私の勘違いもありました。)学生会館は5階建てでしたね。私も5階最上階の上智大学分会でしたので、中央大学とは同じ階ですね。あの浴場の足拭きマットを思い出しますね。とにかく後半で入浴すると、汚れてくるので、いかに早く入浴するかというのに懸命でしたね。屋上の洗濯機も一人が何台も併用して、なかなかあかないし、自習室も私物が放置してありなかなか使えないけど、とにかく自由すぎるほど自由で、楽しかったですね。
コメントありがとうございました。学生会館は私たちが出たあとは四人部屋が二人部屋になり、やがて内部が仕切られて、個室になっていき、留学生が半数以上になっていったという変遷を聞いています。私も82年~86年まで学生会館にお世話になったので全くの同期ですね。あの交差点の交番は今もあります。学習院の石井氏が顔をボコボコに腫らして帰ってきたときに、「俺どうしたんんだろう、喧嘩をとめていたはずなんだけど、気がついたら中心になって暴れていて、派出所内でも中心になって暴れていた」と言っていたのが、面白かったですね。
コメントありがとうございました。