創業昭和10年老舗の出前・店頭販売専門の寿司店である。時分時に「食事できますか」と聞いたら、まだ若い女将さんが「出前しかやっていないんですよ、またお願いします」と元気に返事が返ってきた。旦那さんらしき職人さんは黙々と板場に向かっていた。
「らっぱや大谷商店」鳥取市川端2丁目112
大正時代創業。新宿の名店「若葉」と同じく、一つ一つ焼型でつくらている鯛焼きである。大きなペンチ状の鯛焼き型に生地を流し込み、あんこをはさみ直火で焼いていく。量産ができないが、味の仕上がりは丁寧である。鳥取大火(昭和29年)の時にはで焼失するが、当時の店主焼型だけを持って逃げたという。
「NOLLY & THE NATURES」鳥取市川端1丁目210 「寿司半」の近くにある。衣類・雑貨店である。何かを改造して作ったおしゃれな建物である。
鳥取市中心部、久松山の近くにある童謡・唱歌とおもちゃがテーマのミュージアムである。建物は旧鳥取県立図書館であり、1952年の鳥取大火による焼失を免れた数少ない建物の一つであった。
鳥取市は、作曲家岡野貞一の出身地であり、「故郷」「春が来た」「春の小川」「朧月夜」「紅葉」など、数多くの名曲を生み出している。
この板が、からくり時計へと変身し音楽を奏でる。
「五臓圓ビル」鳥取市鳥取市二階町
昭和6年に建てられた五臓圓ビルは、智頭街道と通称二階町通りの交差点に位置し、市内に現存する最古の鉄筋コンクリート造建築である。昭和4年に着工した旧県立図書館に影響され、市内で4番目の鉄筋コンクリート造建築として建てられた。昭和18年の鳥取大震災では影響を受けなかったが、昭和27年の鳥取大火では内部を全焼するも、改修が行われ、鳥取大火で焼け落ちた町に残る五臓圓ビルの姿は鳥取市民の心の故郷の一部になっている。
東京学生会館にはクーラーがなく、夏は暑かった。5階に住んでいたが、開けっ放しの窓からは麻雀パイを回す音がよく聞こえていた。屋上の冷水シャワーを浴びていた。畳のベッドにダニがいた。池袋サンシャインや新宿の夜景は抜群にきれいだった。高田の馬場の「質屋のスズヤ」を利用した。この質屋は漫画化されていたので、その雰囲気に触れたかった。栄通りを歩いて帰ったりした。ビックボックスの古本市で本を買ったり、またセールでテニスのラケットを買ったりした。早稲田松竹で二本立てて安く映画を観た。ブルースブラザーズを観た。あるときはエレファントマンとブッシュマンの二本立てを観た、不思議な組み合わせだった。はじめて牛丼を食べたのも高田馬場地下街だった。初めて王将で餃子を食べた。当時の店員さんは荒々しかった。今は王将でもラーメンはあるが、当時は餃子が圧倒的主力で、天津飯、焼きそば、回鍋肉などメニューの数もすくなく、「ラーメンないの」と尋ねるお客さんに、「うちは餃子屋でぃ!」と凄む店員もいた。
早稲田大学の先輩の葛原考三さんと早稲田のトレーニング室でウエイトをトレーニングをした。すると、ロスオリンピック銀メダリスト太田章氏に「ここは体育会部員しか使えないんだ!」と葛原さんと私の二人は注意された。葛原さんは「同好会だけど早稲田極真会のものだけど・・・」と抗弁するも、厳しく「駄目なんだ!」と注意された。トレーニングの後、早稲田界隈で 一緒に食事した。葛原さんのアパートにもいった。上智大学のトレーニングルームで二人でウェイトをした。高田の馬場の「純喫茶白百合」で夜更かししてよく読書をしていた。深夜料金を+50円取られたが、途中で昆布茶のサービスがあった。学習院の鈴木孝志さんは高田の馬場地下「喫茶ハンブルク」でアルバイトをしていた。「大戸屋」ができたのもこの頃で、玉田さんが「おい!ここはふりかけのボトルキープができるんだ」と話していたのを思い出す。この頃できた「洋包丁」は現在も同じ場所で営業している。スタミナ定食をよく食べたものだった。
下落合の駅の前のお弁当屋さんに指のない、おじさんが営業しているお店があった。よく通ったものだった。下落合から哲学堂のあたりまでよくジョギングをした。明治大学野球部のいっちゃんともジョギングをした。彼は一緒に走っても全く息が乱れていなかった。早稲田大学政治経済学部の学生で水泳部の学生とも一緒に組んでパチンコ屋ラスベガスの掃除のバイトをした。毎日7キロ泳いでいるという。優秀で誠実な男だった。帝国警備保障のバイトもした。青山学院大学、電気通信大学の学生と仲良くなった。青山学院大学の金川君とはピッタシめんめんをして遊んだ、実に楽しかった。
新宿区上落合に住んでいたので新宿や池袋によく出かけていた。誰が連れて行ってくれたのだろうか、「池袋スカイ劇場」に連れて行ってもらった。ストリップ劇場だが、前座の出し物がすごい、迫力あるマジック兼ファイアーダンスであり、天井が一瞬すごく焦げてしまったのを覚えている。
また、大学から近い四谷から歩いて市ヶ谷のカレーの王様でカレーを食べた。市ヶ谷のあたりの喫茶ルノアールでも、よく読書をした。市ヶ谷と言えば、「珈琲道」という渋いマスターがいる珈琲専門店でブルーマウンティングを初めて飲んだ。当時で一杯500円のコーヒーだった。
現在、高田馬場を歩いても、見る景色は当時とはほとんど違っている。湧き出してくる人々もあの当時とはまるで別世界の住民たちのように思える。あの頃の面影がほとんど蘇ってはこない。高田馬場界隈は私の記憶の中にしかない。葛原さんとゲームをしたゲームセンター、山下さんと「居酒屋兆治」を見た映画館。法政大学に通う高校の同級生松岡君とばったりあってコーヒーを飲んだ喫茶店などどれもどこだったのか思い出せない。「記憶は心の貯蔵庫」である現在の風景と心象があまりに異なるのは寂しい、語らうことができる山下慎司さんがいることは救いだ。抜群の記憶力と解析力を持つ有能な先輩である。
学徒援護会とは、学生の厚生・援護を目的とした財団法人で、戦時中に軍需工場などに動員された学生・生徒の業務上の災害救済や教養指導を行う動員学徒援護会として設立された。学徒援護会は、戦後に国の補助を得て学生支援の事業を行い、全国の主要都市に学生相談所・学生会館を設置した。学徒援護会は1989年に留学生の生活支援と交流を事業目的に加え、内外学生センターと改称しました。学徒援護会は、2011年に日本学生支援機構と統合された。