山南ノート4【劇団夢桟敷】

山南ノート4冊目(2008.10.3~)
劇団夢桟敷の活動や個人のことなどのメモとして公開中。

熊本地震 3日間の記録

2016-05-17 17:46:04 | 熊本地震2016.4.震度7
まえがき

昨日(5月16日)夜の9時過ぎ頃、茨城県を震源とする震度5の地震があった。丁度、その頃、ブラジル公演2018年に向けての団結と計画の会議中だった。会議は途切れ、熊本地震のことが蘇った。うんざりする程、脳裏から離れない。今でも余震は続いており、いつになったら終息するのかわからない。トラウマになってしまった人々も多い。人間、自然現象の下ではそんなに強くはないものだと繰り返して思うようになった。
あれから1ヶ月が過ぎ、自分で勝手に命名した「引きづり地震」あるいは「ぬかるみの地震」が発生した3日間のことを振り返る。400年に一度と言われる震度6強と震度7を体験した個人的な体験談である。

4月14日(木)

明日の演劇ワークショップのテキストをまとめる作業で日中を過ごしていた。これが日常となっている。
いつもは気分転換で部屋から出て座長と夜の外食をするつもりだったのだが、その日は久しぶりに家でカレーライスを作って食べようということにした。テレビを見ながら「つまらん!」と思いながら笑っていた。食べ終わった夜の9時過ぎ、いきなりヤツがやって来た。顔面の縦じわが深くなった。
本やカセットテープ、CD、DVD、戸棚や机、タンスが流れ込んできたように思えた。大きく横揺れと縦揺れを感じる。私たちは鉄骨のアパートの2階に住んでいる。このまま落ちてしまうのではないかと恐怖に襲われた。階下には小学生の可愛い少年が住んでいる家族がいる。押し潰してしまうのではないか!無惨な光景を想像した。電気が切れた。早く外に出よう!と焦った。持って出るものは?座長はiフォンと現金、私はiPadを持ち出した。情報が欲しかった。まずはそれが先決だった。家族や友人たちの消息が知りたかった。
外に出ると夜空にヘリコプターが4機ほど旋回。救急車や消防車、パトカーのサイレンが鳴り響いていた。ご近所さんたちも続々と集まってきて、「大丈夫でしたか?」と挨拶を交し合った。
余震が切れ目なく続く中、「そうだ、食料と水を確保しよう。」と車を発進した。幸い、近くのコンビニは空いていた、店一面に落下した商品を片付けていた。売り物は菓子とジュースくらいしか並べていなかった。お客さんが殺到していた。
今夜は近くの小学校の体育館に避難しよう!と様子を見に行ったが、余震の揺れで照明器が落ちてきそうな予感と人々の悲鳴で、ここでは落ち着かない!と車中泊を決め込んだ。

4月15日(金)

いつまでも眠れない。iPadでこの地震の情報を収集していた。座長はメールでみんなの無事を確かめていた。電話が繋がらないのだ。家の中に帰ろうとする者はいない。夜中の道路は近所の人たちの溜まり場になっていた。
震源地は隣の益城町だということがわかった。震度7?個人的なLINEでも様子を探っていると、「動物園から虎が脱走した。」「水源に毒を入れた。」など、馬鹿げた情報が拡散されていた。
若い消防団の人が法被姿で近所の様子を見回っていた。「閉じ込められていませんか?」「ガスの元栓を閉めましたか?」「電気のブレーカーを落として下さい。」「独居老人の方、知っていたら教えて下さい。」「怪我をされた方はいませんか?」一生懸命に呼びかけていた。ありがたいことだ。自分の家のことや家族の心配なこともあろうに走り回っていた。目頭が熱くなった。滲んだ目で川内原発を止めたのだろうか?と調べていたが、一向に止めたという情報は入らなかった。涙は乾いた。縦じわが更に深くなった。
眠れないまま朝を迎えた。部屋の様子を見に行ったら、ガラスの破片が散乱していた。
劇団員タロー君が部屋の片付けを手伝いに来てくれた。スペースが確保できたところで「美味しいものでも食べに行こう!」ということになり、空いている食事処を探しに座長と3人で車で移動した。その時!信号待ちでブレーキをかけようとスピードを緩めている最中、猛烈な音が襲いかかった。痛い!ブレーキを強く踏みしめた。再び、猛烈に追突された。こんな時になんてこった。追突してきた老人は益城町で家を全壊された人だった。気が動転したまま、ブレーキとアクセルを踏み間違えたと言う。すぐに警察を呼び、ムチウチが心配だったから病院に向かった。立て続けの災難だった。
この夜は空いたスペースで家の中で寝ることにした。コンビニも食事処も閉店している。とにかく眠りたかった。

4月16日(土)

夜中の1時過ぎだった。ガシャーン!メリメリ!14日の揺れよりも大きなものを感じて飛び起きた。長い!揺れが止まらない。座長と手と手を取り合って揺れが止まるのを待った。まっすぐ歩けない。もう、いい加減にしてくれ!と地面を叩いた。アスファルトにヒビが入っていることが見られた。余震が更に大きく感じられた。道路に集まってきた住人たちも余震があるたびに立っていられず座り込んでいた。
川内原発が止まっていないことを知っていた。止めなかればならない!これが常識だと思うのだが、九州電力や行政、お国のオエライ人たちは「止めないこと。」を常識と思っているのだろうか。苛立ちは治らない。
瓦が落下していた。近くの公園や駐車場も人集りになっていた。
電気 ガス 水道 は完全に切れていた。車中泊である。
若い消防団の方たちが走り回っていた。一見、ヤンキーそうな若者も混じっていた。こころの中で叫んだよ。
「ありがとう、ヤンキー!」
近所の若い住人たちである。余裕があったら「一杯、飲めや。」と言いたいところだ。
この日も眠ることができなかった。
バス、電車も運行停止。ヘリコプター、消防車、救急車のサイレンが鳴り響き、これは夢の中の出来事ではないと理解しつつ、景色がぼやけてしまう自分に呆れていた。

あとがき

3日のことだけを記憶や気持ちで振り返ってみた。
この3日間、怯えながらも、あの人この人、あの時この時、眠れない夜の中で思い浮かべていた。
妊婦の娘もこの恐怖を体験して、無事に出産してくれたことに明るいニュースとして何倍にも幸せを感じことができたよ。
まだまだ予断は許されないが、不意に襲いかかった震災の体験を通じて、5年前の東日本大震災は他人ごとではないことを痛感した。
昨日の茨城の地震のニュースで他人ごとではない!と改めて感じる。この島国は天変地異の歴史でもあり、だからこそ戦争や原子力なる人災という危険からは人智で防ぐことを求めようと思う。