山南ノート4【劇団夢桟敷】

山南ノート4冊目(2008.10.3~)
劇団夢桟敷の活動や個人のことなどのメモとして公開中。

プライベートな夜とプラス

2016-05-27 10:51:51 | モノローグ【エトセトラ】
4月14日からテレビも無ぇ、デジタル機器(パソコンなど) も無ぇ、冷蔵庫もレンジもオーブンも炊飯器も無ぇ。つまり、友人や親戚からもらった保存食とコンビニ弁当、ファミレスなどの外食で食いつないでおります。自炊ができないのです。
今夜は久しぶりに座長と二人きりで居酒屋に行った。酵母菌は飲み過ぎなければ体に良し!免疫力が高まりますね。百薬の長だー。
6月10日より新居へ引っ越すのを指折り数えており、その作業と次の公演準備が同時進行となっている。
帰り道、方向は反対になりますが、娘夫婦の新居に4番の孫と猫の おおもり君に会ってきたよ。
清く正しく クルクルパー!をモットーにしながら日付が変わってしまった。
今夜はおとなしく寝て、明日は朝から劇団の制作会議のことを進めよう。はい、脱力!

【追加記事】

新宿梁山泊の金守珍さんの過日亡くなられた蜷川さんへの追悼記事です。
夜中に帰り着き、すぐにでも寝ようと思ったのですが、この記事を読んで、つるんとした脳が伸びたり縮んだり屈伸を始めた。眠れない!モヤモヤではなく頭がスッキリしてきたのだ。
追悼文の流れは唐十郎さんとの出会いや、そこで学んだこと、蜷川さんがそのきっかけを作ってくれたことが述べられています。
出会いですね。待っててもダメですね。守珍さんはとても素晴らしい環境と体験をされている。
私にも人生を変えてくれた良い出会いがありました。本当に感謝しています。
守珍さんが関係した蜷川さんや唐さんとは距離感が違い過ぎて羨ましいやら嫉妬したくなるやら!バネになります。
まずは、この記事を一番読んでもらいたいのは、今から取り組む「少女都市からの呼び声」(唐十郎 作)九州「劇」派メンバーだ。
今日の夜は制作会議がある。守珍さんのことが話題になるのが目に見えてきましたよ。
何故、space早稲田演劇フェスティバルに参加するのか。何故、唐十郎作品なのか。その道筋を立てて行こうと思います。

以下、金守珍さんの記事

シアターコクーンから演出の依頼を受けた。とても光栄な事ではあるが、同時に寂しさが込み上げてくる。役者の私を演出できるのは唐十郎と蜷川幸雄しかいない・・・。

追悼文(シアターコクーンに向けた)
 蜷川さんの訃報を聞き、あぁ、とうとうその日が来たのかと、全身の力が抜けた。それは14年前に父を亡くした時の感覚と、とてもよく似ていた。
 演劇を志した若い頃、初めて蜷川さんが演出する『オイディプス王』を見て、これほどダイナミックな表現をする日本人がいるのかと激しい衝撃を受けた。そこで私は「蜷川教室第一期生募集」の告知を見つけた時、迷わず応募した。
 教室で蜷川さんはしきりに「おまえら、唐十郎の状況劇場を見て来たか!」と檄を飛ばし、エチュードでは『盲導犬』が使われる。その台詞に感動を覚え、状況劇場の『ユニコーン物語』を見に行くと、意味はよくわからないがなぜか体がカッと燃え上がった。その後『近松心中物語』や『ノートルダム・ド・パリ』『ロミオとジュリエット』の舞台に立たせてもらったが、熱気をはらんだテント芝居が忘れられない。そこで『ロミオとジュリエット』の楽日に帝国劇場の屋上で打ち上げをしている時、蜷川さんに「しばらく状況劇場で修行し、成長して帰ってきます」と宣言した。1979年夏のことだ。
 翌日から毎日唐十郎の稽古場に押しかけ、6日目にやっと本人にお会いでき、「丁稚奉公をさせてください」と直談判。そこから研究生以下の「飼育生」としての生活が始まる。私は唐さんの小説を芝居化したりするなかで徐々に認められ、異形の役をもらえるようになった。たまに状況劇場を見に来る蜷川さんからは、「おまえ、がんばっているな」と声をかけてもらった。
1987年、唐さんの『少女都市からの呼び声』を自ら作り上げたいと思いから、新宿梁山泊を旗揚げした。旗揚げ当初は在日コリアンをテーマにした作品が中心だったが、満を持して唐十郎の作品を演出。以来、今に至るまで唐作品に取り組み続けている。
私は演出家としても、役者としても、若い日に蜷川さんから教わったふたつの言葉を自分の座右の銘としてきた。そのひとつが「幕開き3分勝負」。日常を背負って劇場に来た観客を、3分以内に日常から引き離さなくてはいけない。その仕掛けをいかにつくるかが、演出家の重要な仕事だ。もうひとつが、「役者は一生自分の言葉を持つな。そこに悲惨と栄光がある」。役者は自分の生理で台詞を変えてはいけない。作家の言葉を完全に消化する、精神と肉体のタフさを持たねばならない。そしてスペクタクルな演出も、蜷川さんから学んだ。
蜷川さんが演出する寺山修司作品『血はたったまま眠っている』に役者として出て呼ばれたのは、6年前のことだ。公演中、「僕の演出は、すべて蜷川さんからもらったものです。僕は蜷川さんの弟子でいいですよね」と言ったら、蜷川さんはすっと手を出して私に握手を求め、「ありがとう」とひとこと言ってくれた。その瞬間、涙があふれ出て止まらない。5年くらいで戻るつもりでアングラの世界に修行に出て、実に31年。放蕩息子はやっと演劇的父の懐に戻ってくることができたのだ。
 蜷川さんはもともとアングラ演劇から出発し、商業演劇で「世界の蜷川」となった。だが常に、アングラ演劇への強い思いを持ち続けていた。テントという子宮の中に咲く闇の花は、大きな劇場の光の元でも決してその魅力を失わない。そのことをダイナミックかつ繊細な演出で、私たちに見せてくれた。  
晩年はもう一度アングラと向き合い直したいという思いから、唐十郎や寺山修司の作品をたてつづけに演出した。そんな蜷川さんがどうしても手掛けたかったのが、唐十郎の『ビニールの城』だ。それだけ思いの深い作品だった。その願いがかなう前に逝ってしまったことは、本当に悔やまれてならない。
 私はこの作品に役者としてキャスティングされていたが、蜷川さんが入院したため、蜷川さんの演出を手助けできないかと考えていた。だが残念ながら、間に合わなかった。しかしBunkamuraに演出を依頼されたからには、蜷川さんはこうしたかったであろうとイメージし、そこに向かって全力で進むしかない。
 蜷川さんの死によって、アングラ1世代は確実に終わろうとしている。アングラ芝居は一種の風俗として始まり、世界に誇る日本の演劇文化として育っていった。この文化をしっかり定着させ、次代につなげていけるかどうかは、私たち2世代目、3世代目にかかっている。演出家・蜷川幸雄が最後まで抱き続けた、劇作家・唐十郎への敬愛の念を、なんとか形にしていきたい。この2人のエッセンスを後世につなげていくことが、私の使命だと思っている。

     2016年5月16日  新宿梁山泊代表  金 守珍