山南ノート4【劇団夢桟敷】

山南ノート4冊目(2008.10.3~)
劇団夢桟敷の活動や個人のことなどのメモとして公開中。

ハジマリはじまり。

2016-05-23 14:29:40 | 九州「劇」派2016
■ことのはじまり(2)

1979年ー1984年、ポストアングラ!を掲げて東京で劇団を旗揚げしたものの、そもそも「アングラ」と言われる演劇自体を曖昧模糊なものとしてしか捉えていなかった。要するに演劇を歴史的体系的に捉えようとはしていなかったのである。振り返れば、バカだ、アホだったと自虐的に思うことばかり。それも今だから楽しい。若気の至りは「どうもすみません。」で落着する。

(注)夢桟敷は東京時代、その前身を劇団ブラックホールと名乗っていた。1984年7月に熊本に戻って名称を「夢桟敷」に変更した。

正直に言うとアングラを一括することは出来なかった。劇団によって個性が強過ぎたもの。はみ出ていたもの。
一括りに言えることは1960年代の新劇批判にあったように思う。ところが、この新劇についても一括りにして良いものか疑問もあった。それは商業演劇から文芸路線、リアリズム社会派まで幅広くあったからである。

1980年代は新劇ーアングラ劇の境界線自体が薄れていった時代になっていたように思う。つまり、60年代ー70年代前半を知らない若い世代が小劇場の分野に台頭し始めたのが80年代からの特徴としてあった。知らないことも武器になるのか?何やらお子様ランチを食べているような演劇の楽しさも感じたのだが。
役者たちのメジャー志向も高まっていた。テレビ出演の下部組織が劇団のようにも位置付けられているではないか。
本来ならば、私たちの演劇も世代的に言うと小劇場第三世代に属するものであったかもしれないが、ここは本家アングラを頑固に意識していた。本家とは天井桟敷、状況劇場、黒テント、早稲田小劇場のアングラ四天王と言われる劇団だった。手に届かない雲の上の劇団。

その流れの中から突出して登場したように見えたのが、演劇団(現 流山児★事務所)と転位21だった。こころの師、流山児さんとは高田馬場群六舎スタジオを稽古場として使わせてもらっていたから身近にお会いする機会が多かった。演劇の教材はここから吸収しまくった。こころの師、転位の山崎哲さんへの批判とも悪口とも言えることも鵜呑み吸収した。とは言うものの転位から大きな影響も受けた。犯罪や事件を題材に日常や自身の中にもあるモヤモヤがえぐられる思いで接していた。自分の解体作業に立たされた。

政治の党派闘争と違って、演劇の内ゲバは面白いもんだ。兄弟喧嘩をすればする程、仲良しに見えたのだ。喧嘩って楽しいなーと思った。憧れた。その最たる事件が状況劇場と天井桟敷の新宿騒乱事件である。
あれこれどさくさ紛れに1979年ー1984年東京時代は演劇修行の時であったと思う。(実は今でも続いているのだが。)

※写真はセンターど真ん中が東京時代の「ピンク中毒」1980年の座長=夢現と海幸大介。周りは2005年 近畿大学唐十郎フェスに参加した劇団夢桟敷「愛の乞食」より。