たびたび京都に訪れるのは広隆寺への参拝の為ですが、今回はホテル泊ではなく、
智積院の宿坊にしました。
この1月に同院の講堂襖絵の展覧会に行った縁もあるのかも知れません。
その昔に妙心寺の宿坊「東林院」に泊まったことがありますが、比べると随分と一般的な宿坊です。もっとも東林院は禅宗なのでその精進料理に特徴があります。
比べて、この智積院は真言宗なので朝の勤行に参加するなどの特徴があります。
どちらも一度は体験してみるのも一興です。
到着したのが夜の為、夕食は門を出て南に少し下ったところにある「おばんざい」の店で取りました。先客に坊主頭の7~8人の若者が宴たけなわです。話のおりおりに写経云々と出てきますので、近くの仏教系の大学の学生でしょう。まあ、般若酒の酒盛りといったところでしょうか。これも京都らしい一面です。
翌朝、6時過ぎに宿坊宿泊客全員が金堂に案内されました。
黒色の僧衣の修行僧が30名程度。大半は若い男性ですが、中には女性や50過ぎの修行僧も多々いらっしゃいます。
この春には卒業して僧侶の一年生になるそうです。
他に黄色の僧衣のえらい?僧侶が20名程度揃っています。
我々達が席につくと、読経が始まりました。礼をする時に膝を少し折ったり、座る際には膝からストンと折れるように座る作法は少々見ものです。
真言密教の「声明」は噂に聞いていたので期待をしていましたが、期待ほどの驚きはありません。それに、三々五々に参堂する僧侶もいるのでなんだか凛とした空気がなく拍子抜けです。30分ほどの読経の後に隣の明王殿で護摩炊きが始まります。これは大太鼓と読経は結構な迫力があります。
その後、利休好みといわれる庭園を拝観し案内を頂いた僧侶から智積院の由来や現状などの説明を受けながらお茶と菓子の接待を受けました。
続いて、長谷川一門の障壁画を拝観します。
この収蔵庫には、桃山時代に長谷川等伯らによって描かれ、祥雲禅寺の客殿を飾っていた金碧障壁画が残されています。「楓図」「桜図」「松と葵の図」「松に秋草図」等は国宝に指定されています。
逸話には、長谷川一門と狩野一門との間で激烈な確執があったそうです。その為、長谷川等伯の息子の久蔵は狩野派によりって毒殺されたとも伝わっています。
「楓図」は等伯の、「桜図」は久蔵の手によるものです。宿泊客だけへのサービスとして収蔵庫の照明を落として暗くして頂けます。丁度、夕刻の薄暗い室内で障壁画を見た時の状況を再現してくれているわけです。
すると、「桜図」の桜花は「胡粉」で描かれているのでその薄暗い室内がまるで月明かりで輝くように満開となります。
※ちなみに、今年の夏頃から田渕氏の襖絵が講堂に納められます。はたして、長谷川久蔵氏の「桜図」と田渕氏の「桜図」を見比べてみるのも一興ではないでしょうか。
8時近くになって朝食を頂きます。宿坊に一階にある和風レストランにて。
御腹も満腹で、眠気も取れたし、夜半からの雨も上がって、清清しい一日の始まりです。?
【DATA】五百佛山(いおぶさん)根来寺 智積院
智積院は、五百仏山 根来寺 智積院と称し、紀州根来(現・和歌山岩出町)にあった真言宗の巨刹根来寺の学問所として、室町時代の初期の学僧、長盛によって創建。
以来、真言宗の学問の寺として栄えましたが、戦国時代に豊臣秀吉に攻められ智積院は根来寺とともに荒廃してしまいます。
その後、徳川家康の寄進を受け現在の地に智積院を再興。その後『近代師』と讃えられた中興大七世運敞僧正の時代には、全国から雲集する学侶が1000人を超え、その様は『朝粥をすする音が七条河原まで聞こえた』ほどであったと伝えられています。
また仏法研鑚のみならず、八宗兼学、諸学の道場として天下に『学山智山』とも讃えられた智積院には、『智積院の昼寝』という言葉も生まれました。これは、修行中に昼寝をしているような者でも勉強になると言う意味で、江戸時代の最高学府であった智積院の面目を良く伝える言葉です。明治期には、廃仏殷釈の影響によって再び苦難の時代を迎えました。
現在の智積院は、学問と修業道場としての伝統を守りつつ、真言宗智山派3.000カ寺の総本山として、また仏法や弘法大師の教えを広く社会に伝える真言密教密教の寺院として活動致しております。 (同院説明書より)
宿泊した後にしばらくしてから、下の絵葉書が届きました。宿泊の礼と次回のお誘いです。宗教心が希薄になっている現代では、お寺も運営・維持していくには大変です。
智積院と宿坊案内
東山七条下車徒歩3分 一泊朝食付¥6.500-(灯明代含む)
智積院の宿坊にしました。
この1月に同院の講堂襖絵の展覧会に行った縁もあるのかも知れません。
その昔に妙心寺の宿坊「東林院」に泊まったことがありますが、比べると随分と一般的な宿坊です。もっとも東林院は禅宗なのでその精進料理に特徴があります。
比べて、この智積院は真言宗なので朝の勤行に参加するなどの特徴があります。
どちらも一度は体験してみるのも一興です。
到着したのが夜の為、夕食は門を出て南に少し下ったところにある「おばんざい」の店で取りました。先客に坊主頭の7~8人の若者が宴たけなわです。話のおりおりに写経云々と出てきますので、近くの仏教系の大学の学生でしょう。まあ、般若酒の酒盛りといったところでしょうか。これも京都らしい一面です。
翌朝、6時過ぎに宿坊宿泊客全員が金堂に案内されました。
黒色の僧衣の修行僧が30名程度。大半は若い男性ですが、中には女性や50過ぎの修行僧も多々いらっしゃいます。
この春には卒業して僧侶の一年生になるそうです。
他に黄色の僧衣のえらい?僧侶が20名程度揃っています。
我々達が席につくと、読経が始まりました。礼をする時に膝を少し折ったり、座る際には膝からストンと折れるように座る作法は少々見ものです。
真言密教の「声明」は噂に聞いていたので期待をしていましたが、期待ほどの驚きはありません。それに、三々五々に参堂する僧侶もいるのでなんだか凛とした空気がなく拍子抜けです。30分ほどの読経の後に隣の明王殿で護摩炊きが始まります。これは大太鼓と読経は結構な迫力があります。
その後、利休好みといわれる庭園を拝観し案内を頂いた僧侶から智積院の由来や現状などの説明を受けながらお茶と菓子の接待を受けました。
続いて、長谷川一門の障壁画を拝観します。
この収蔵庫には、桃山時代に長谷川等伯らによって描かれ、祥雲禅寺の客殿を飾っていた金碧障壁画が残されています。「楓図」「桜図」「松と葵の図」「松に秋草図」等は国宝に指定されています。
逸話には、長谷川一門と狩野一門との間で激烈な確執があったそうです。その為、長谷川等伯の息子の久蔵は狩野派によりって毒殺されたとも伝わっています。
「楓図」は等伯の、「桜図」は久蔵の手によるものです。宿泊客だけへのサービスとして収蔵庫の照明を落として暗くして頂けます。丁度、夕刻の薄暗い室内で障壁画を見た時の状況を再現してくれているわけです。
すると、「桜図」の桜花は「胡粉」で描かれているのでその薄暗い室内がまるで月明かりで輝くように満開となります。
※ちなみに、今年の夏頃から田渕氏の襖絵が講堂に納められます。はたして、長谷川久蔵氏の「桜図」と田渕氏の「桜図」を見比べてみるのも一興ではないでしょうか。
8時近くになって朝食を頂きます。宿坊に一階にある和風レストランにて。
御腹も満腹で、眠気も取れたし、夜半からの雨も上がって、清清しい一日の始まりです。?
【DATA】五百佛山(いおぶさん)根来寺 智積院
智積院は、五百仏山 根来寺 智積院と称し、紀州根来(現・和歌山岩出町)にあった真言宗の巨刹根来寺の学問所として、室町時代の初期の学僧、長盛によって創建。
以来、真言宗の学問の寺として栄えましたが、戦国時代に豊臣秀吉に攻められ智積院は根来寺とともに荒廃してしまいます。
その後、徳川家康の寄進を受け現在の地に智積院を再興。その後『近代師』と讃えられた中興大七世運敞僧正の時代には、全国から雲集する学侶が1000人を超え、その様は『朝粥をすする音が七条河原まで聞こえた』ほどであったと伝えられています。
また仏法研鑚のみならず、八宗兼学、諸学の道場として天下に『学山智山』とも讃えられた智積院には、『智積院の昼寝』という言葉も生まれました。これは、修行中に昼寝をしているような者でも勉強になると言う意味で、江戸時代の最高学府であった智積院の面目を良く伝える言葉です。明治期には、廃仏殷釈の影響によって再び苦難の時代を迎えました。
現在の智積院は、学問と修業道場としての伝統を守りつつ、真言宗智山派3.000カ寺の総本山として、また仏法や弘法大師の教えを広く社会に伝える真言密教密教の寺院として活動致しております。 (同院説明書より)
宿泊した後にしばらくしてから、下の絵葉書が届きました。宿泊の礼と次回のお誘いです。宗教心が希薄になっている現代では、お寺も運営・維持していくには大変です。
智積院と宿坊案内
東山七条下車徒歩3分 一泊朝食付¥6.500-(灯明代含む)