オウム真理教による一連の事件の裁判が、21日にも終結する
地下鉄サリン事件の実行犯でありながら、事件解明につながる供述が評価され、極刑を免れた元教団幹部の林郁夫受刑者(64)は、無期懲役刑を受けている千葉刑務所でその日を迎える。供述を引き出した警視庁の取調官は、林受刑者と面会や文通を続け、事件といつまでも向き合っていくよう語りかけている。
事件当時、同庁機動捜査隊の警部補だった稲冨功さん(65)は年に1~2度、刑務所の面会室で林受刑者と会っている。6月の面会では、林受刑者の手紙にあった「犯罪はなぜ起きるのか」という問い掛けに、自らの考え方を20分にわたり語った。坊主頭の林受刑者は時折うなずきながら、真剣に聞き入っていたという。
石川県内で1995年4月8日、自転車を無断で使った容疑で逮捕され、移送されてきた林受刑者と、連日、向き合った。表情はこわばり、目はうつろだった。
医師だった受刑者を「先生」と呼び、同い年として思い出の音楽やドラマの話をして心を解きほぐした。5月6日夜、林受刑者は「サリンをまきました」と、突然自白した。稲冨さんは思わず、「先生ウソだろ。誰かをかばってるんじゃないの」と問いかけたが、林受刑者はその後、ほかの実行犯の名前も明かしていった。麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚(56)を指す「尊師」という言葉は徐々に出なくなり、時折笑顔も見せるようになった。 (読売新聞)
林受刑者は主観を取り戻していっています。麻原彰晃に預け客観になった己の感覚を己の中にもう一度置くのです。そうすることで取り戻した己で罪を償うべきであると思います。
芝居は人との繋がりを考える良い機会です。
演出をしていますと、己の感性で役者という他人を支配しようとしてしまいます。他の芸術は物を使って構築しますが、演劇は人を使って構築します。心を持つ人を扱うのですから、支配による創作ではいけないのです。仮に100%演出家のことを信頼しきっている役者がいたとして、その人間を扱うのであるならば問題ないでしょうが、果たしてそんな人間がいるのか、そして逆にそういう役者では面白くない。衝突することで役者の感性と演出家の感性の中庸の位置を目指すことを考えて、わたしは演出をしています。衝突によって生まれる新しい奇跡が見たいのです。
前回の「lab~亀井戸~」では主観を放棄した「ワタシ」「神の御子」を出しました。不思議なことに主観を持つためには他者が必要です。他者との関わり合いの中で、そして「神の御子」を客観的に見ることで「ワタシ」は主観を取り戻します。主観には苦しいことや辛いことも含まれます。それから眼をそらしては取り戻すことは出来ないと思うのです。
稲冨功さんの行為は本当に凄いことであると思うのでした。
地下鉄サリン事件の実行犯でありながら、事件解明につながる供述が評価され、極刑を免れた元教団幹部の林郁夫受刑者(64)は、無期懲役刑を受けている千葉刑務所でその日を迎える。供述を引き出した警視庁の取調官は、林受刑者と面会や文通を続け、事件といつまでも向き合っていくよう語りかけている。
事件当時、同庁機動捜査隊の警部補だった稲冨功さん(65)は年に1~2度、刑務所の面会室で林受刑者と会っている。6月の面会では、林受刑者の手紙にあった「犯罪はなぜ起きるのか」という問い掛けに、自らの考え方を20分にわたり語った。坊主頭の林受刑者は時折うなずきながら、真剣に聞き入っていたという。
石川県内で1995年4月8日、自転車を無断で使った容疑で逮捕され、移送されてきた林受刑者と、連日、向き合った。表情はこわばり、目はうつろだった。
医師だった受刑者を「先生」と呼び、同い年として思い出の音楽やドラマの話をして心を解きほぐした。5月6日夜、林受刑者は「サリンをまきました」と、突然自白した。稲冨さんは思わず、「先生ウソだろ。誰かをかばってるんじゃないの」と問いかけたが、林受刑者はその後、ほかの実行犯の名前も明かしていった。麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚(56)を指す「尊師」という言葉は徐々に出なくなり、時折笑顔も見せるようになった。 (読売新聞)
林受刑者は主観を取り戻していっています。麻原彰晃に預け客観になった己の感覚を己の中にもう一度置くのです。そうすることで取り戻した己で罪を償うべきであると思います。
芝居は人との繋がりを考える良い機会です。
演出をしていますと、己の感性で役者という他人を支配しようとしてしまいます。他の芸術は物を使って構築しますが、演劇は人を使って構築します。心を持つ人を扱うのですから、支配による創作ではいけないのです。仮に100%演出家のことを信頼しきっている役者がいたとして、その人間を扱うのであるならば問題ないでしょうが、果たしてそんな人間がいるのか、そして逆にそういう役者では面白くない。衝突することで役者の感性と演出家の感性の中庸の位置を目指すことを考えて、わたしは演出をしています。衝突によって生まれる新しい奇跡が見たいのです。
前回の「lab~亀井戸~」では主観を放棄した「ワタシ」「神の御子」を出しました。不思議なことに主観を持つためには他者が必要です。他者との関わり合いの中で、そして「神の御子」を客観的に見ることで「ワタシ」は主観を取り戻します。主観には苦しいことや辛いことも含まれます。それから眼をそらしては取り戻すことは出来ないと思うのです。
稲冨功さんの行為は本当に凄いことであると思うのでした。
証言席で身体を折り曲げて号泣した姿に、真の反省を見た、と思ったのですが・・・長年の「カン」なのでしょうか。何かしっくりこないものを感じているそうです。
もし彼が表現者なら、反省も涙も思うままに表現できたでしょうが・・・果たして。
真実は、彼の心の中だけにあるのでしょうね。