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アテマチガイパーマネント
『身勝手な王国』
脚本:山村遊哲・ヲザキケンタロウ
演出:ヲザキケンタロウ
@お茶の水アートスタジオ
後輩の芝居を観に行く。時間の都合でゲネプロを見学。子どもたちも連れて行き見せてもらう。配慮の心、誠にありがたい。
わたしの子どもたちも多く出演している。個人的には父兄参観の気持ち。どのような一面を見せてくれるのか、非常に楽しみ。
感想、役者へのコメントはアンケートにみっちりと記載させて頂いた。課題は「会話にする」ことと「出力レベルの相違」であろう。
劇作、演出について。すこしまじめに。
山村パートは架空の王国の勘違い系シチュエーションコメディ。
気になった点が二つ。
シチュエーションコメディなのだが話の軸となる「勘違いの素」が「文字の読みづらさ」という観客にとってはイメージを沸き立たせないと面白みが半減するもの。プロジェクターなどで一度でも表記してもらえれば凄く分かりやすいのになぁと。そこに加えて「あるない遊び」というマイムを駆使した、こちらも観客のイメージ力に左右されるネタを含ませている。更には国家間の思惑、人物個人の思惑という二重にも三重にも設定を考えなければいけないもので包まれている。つまりは話全体に理解力が問われ、シチュエーションコメディ特有の「観客がピンッとくる・ピンッときている」状態、気持ちよく解決に向かえない構造になっていたのではないかと思った。
二つ目。架空の王国に対して「包丁」での殺害計画、そもそも「殺す」の連呼が作品の色とのアンマッチさを産んでいたようにも思える。作家にとっての「ズレ」が、役者の本気さによって、リアルになってしまったのかなと。
これまで山村さんの劇作を数本見てきた。その手法として結論、展開を言葉によって一から十まで丁寧に伝える。「アルナイ王国」というファンタジー要素との兼ね合いが難しいところだ。ただこれまで見てきた作品としての成長は充分に伺える。そもそもわたし、イメージ芝居好きだしね。
尾崎さん脚本は、現実と非現実、物語のつなぎ目を消した、不思議ではあるが象徴的な世界観芝居。「作家」と「編集」の立場から表現することについて、生きることについてを掘り下げる。
山村さん芝居で頭を使った前半。挿話として突如始まるこの物語、展開を理解するのに頭を使う。
そして暗い。
わたしは思う。
あれ、チラシにはコメディって書いてあったよな。
見直すわたし。
あ、「山村のワンシチュエーションコメディを中心に、ヲザキの挿入形式のブリッジ芝居」と書いてあった。
そうか、これならなんでもありだ。
身勝手な王国
本編を通してとにかく暗い印象があった。恐らく小屋の広さと舞台の重厚感、そして音響が少なかったことにあると思う。音響のあるなしは作家、演出の趣向である。ないならないなりに役者が「音」を奏でなければならない。
ここまで書いてきて思う。
身勝手な渡辺
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