演劇知

劇的考察譚

「夢見るクリスマス」とは

2011-12-31 07:36:30 | Weblog



今年最後の日、最後の作品「夢見るクリスマス」上演を振り返る。

今年も昨年と同様に半年前からオファーを頂く。10月末に亀戸での公演を控えているので準備期間は相当に短い。亀戸の稽古中から動き始める。金曜平日なので学生は使えず、また進路のかかっている輩も使えず、自然とact orchの年配チームでの公演となる。年配と言えば亀戸ですっかりact orchファミリーとなって下さった竹田氏がカダフィ大佐役で出たいと言ってきやがったが、そこは一蹴。

今回は皆のやりたいこと100%に応え、それをジグソーパズルのようにはめ込み上演するという手法を使った。此方の楽しさがお客様にも伝わるはすである。

皆から頂いた要望をはめ込んだ結果出来た作品。


物語作家の男は自身の創作で悩んでいる。友人の師走ケイジに相談するも話しにならない。落ち込んで寝ると1ヶ月遅れでやってきたスティーブジョブズと名乗る白髪赤服の老人、ソリ、トナカイのナカーイがやってきて、作家の願い「創作の手伝い」を叶えてくれる。本からキャラクターたちが飛び出すが、地獄の帝王サタン、変身妖怪のたぬっき、木のモンスターのモミ男は暴走し始める。それを止めるべく盗賊のベル、神父も飛び出し、師走、チームジョブズたちと協力しサタンを懲らしめる。仲良くなった一同は作家を励ます。「皆がいるから大丈夫。」




夢溢れるファンタジーな仕上がりになった。

本番。役者として舞台に立つ。「OWL」より1年ぶりか。



舞台冒頭。本来は動かずに舞台奥の椅子に座ったまま台詞を言う予定だったが、ここで保育園芝居特有の現象に陥った。前回、犬井やすはらやらが体験した「観客のベクトル」である。わたしが今まで携わってきた小劇場での公演、そのどれよりもお客様の重圧が掛かる。「何が起こるのだろう」という100%純粋で無垢なそのベクトルを肌で感じたのである。圧倒的な力。「演じる」という自尊心が飲み込まれていく。

これはやばい。

舞台後方、座ったままではやられると直感的に思い、直感的に動いてしまった。一挙手一投足を観られている。ストーリーの中の役ではなく、眼前にいる人間として観られている。こんな経験をすることになるとは、役者とは凄い生き物だと改めて感じた。


役者の石井千里とは明大劇研から足掛け10年芝居をしている。昔はわたしもちょこちょこ出演していた。芝居を共にしていながら舞台で共演する経験は少なく、さらに絡む経験となるともっと少ない。覚えている限りで大学卒業公演の時以来、舞台上で目を合わすのではないかなと。稽古から思っていたが、石井の芝居はベクトルがしっかりと出る。それを「受けて」芝居が出来るということはとてもやりやすくもあり、また己をしっかりと持っていないといとも容易くそのベクトルに飲み込まれていく。



ということでわたしは本番、オープニングから観客、舞台双方からのベクトルと戦うこととなったのだ。








それぞれが本当に愛すべきキャラクターになった。






子どもたちの想像力を刺激したいと思ったのだが、子どもたちにとっては目の前で起こっている「事実」こそが全てである。効果音を使い、動きを工夫しても「空を飛ぶ」という現象を子どもたちに想起させるためには文字通り空を飛ばなければならない。勉強になった。


今回の保育園芝居も無事に終了した。子どもたちに夢を与えるつもりで書いたこの作品、しかし与えられているのはこちらの方で、本当に感謝の限りです。ありがとうございました。




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