<「庚寅」干支入り大刀>福岡で出土 日本書紀裏付け
毎日新聞 9月21日(水)11時43分配信
福岡市教委は21日、同市西区の元岡古墳群G6号墳(7世紀中ごろ)で、干支(えと)で570年を意味する「庚寅(こういん)」の文字を刻んだ象嵌大刀(ぞうがんたち)が見つかったと発表した。記された月日の表記は、朝鮮半島の百済から暦を導入したとする日本書紀の記述を裏付けるもので、暦使用の実例としては日本最古となる画期的な発見となった。
古墳出土の銘文入りの刀剣の発見は今回で7例目、うち干支や年号が入った紀年銘は4例目。いずれも1980年代までの発見で、出土自体も非常にまれ。
市教委によると、G6号墳(直径約18メートル)の横穴式石室を調査中、7世紀中ごろの土器と共に鉄製大刀(75センチ)が見つかった。X線撮影の結果、大刀の根元の背の部分に、「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果□」(□は「練」の可能性)の19字が、1文字5~6ミリ四方の大きさで約12センチにわたり見つかった。表面を細い溝で刻み、中に金か銀とみられる文字を作っていた。日本製の可能性が高い。
年号の干支を示す最初の「庚寅」と、「正月六日」の干支の「庚寅」から、年代は570年と判明。意味は「570年1月6日に刀を作った。およそ12回鍛錬した」という。大刀の製造は570年だが、同古墳造成の7世紀中ごろまでと時間差が認められる。
日本書紀によると、日本は553年に百済に暦博士の派遣を要請、翌年、暦博士が来日する。この時もたらされた暦は、中国・南北朝時代の宋で作られた「元嘉(げんか)暦」とみられる。
元嘉暦は、5世紀の雄略天皇の時代から既に使われていた可能性が指摘されている。今回の大刀に書かれた「庚寅正月六日庚寅」のうち、570年と1月6日の干支が「庚寅」というのは、いずれも元嘉暦と一致する。
坂上康俊・九州大教授(日本古代史)は「干支の入った確実な日付としては初の発見。具体的な暦が分からないと刻めないので、元嘉暦を知っていた証拠だ。暦博士の来日後、元嘉暦が普及したことを初めて確実に示す極めて貴重な資料」と話す。
大刀は9月28日~10月9日、福岡市博多区の市埋蔵文化財センターで展示される。【大森顕浩】
◇「空白の6世紀」埋める
暦使用の実例としては日本最古となる貴重な文字が、古墳から見つかった大刀に刻まれていた。福岡市西区の元岡古墳群G6号墳(7世紀中頃)で出土した「庚寅」銘の鉄製大刀。文字資料が極めて少ない時代で、年代が確実に分かる新たな文字資料であると同時に、朝鮮半島からの暦の導入も証明する画期的な資料だ。
大刀には「570年1月6日」を示す「大歳庚寅正月六日庚寅」の文字が刻まれていた。平川南・国立歴史民俗博物館館長(日本古代史)は「大歳」という文字に着目する。日本書紀が引用する百済の歴史書「百済本記」に同様の使用例があり、百済の寺跡から出土した石造舎利容器にも刻まれ「567年」を示す例があるという。「百済の暦の使い方と同じ。百済から暦博士が来たという日本書紀の記述の正しさを証明した大発見だ」と驚いている。
日本の文字資料について、6世紀は空白の時代と言われる。日本書紀(8世紀)以前では、7世紀は木簡があり、5世紀には埼玉県・稲荷山古墳の鉄剣▽熊本県・江田船山古墳の大刀▽千葉県・稲荷台1号墳の鉄剣などがある。しかし6世紀には島根県・岡田山1号墳の大刀程度しかない。「6世紀は日本の国家の転換期。日本書紀の記述が事実かどうか、当時の資料で確認する必要があるだけに、今回の発見は非常に重要」という。
大刀の性格について、福岡市教委の菅波正人係長は、古墳の場所に注目する。一帯は当時、日本が朝鮮半島に軍を派遣した際の根拠地だった。古墳からは今回12センチの銅製の鈴も出土しており、古墳時代では国内最大級。大きな権力を持った被葬者の存在を示す。「大和政権が、関係が深かった地元の有力豪族に授けた大刀だったのでは」と指摘する。
坂上康俊・九州大教授(日本古代史)は「大和政権の九州支配強化のためではないか」と想像する。
これに対し、平川館長は「朝鮮半島に近く、当時の高度な技術が北部九州にはあった。それを基に地元の有力者が大刀に銘文を刻んで残す文化があったのだろう」と推測する。【大森顕浩】
時間軸うーんと飛びこえて い ま、発見されたのです。
これを作った人が実際に生きて生活していたんです。1500年も前に。
1500年て簡単に言えるけど 私たち寿命高々80年程度の人間からみたらどんなに昔のことか でもそんなに昔でもないのです。
どきどきしてしまう♪
毎日新聞 9月21日(水)11時43分配信
福岡市教委は21日、同市西区の元岡古墳群G6号墳(7世紀中ごろ)で、干支(えと)で570年を意味する「庚寅(こういん)」の文字を刻んだ象嵌大刀(ぞうがんたち)が見つかったと発表した。記された月日の表記は、朝鮮半島の百済から暦を導入したとする日本書紀の記述を裏付けるもので、暦使用の実例としては日本最古となる画期的な発見となった。
古墳出土の銘文入りの刀剣の発見は今回で7例目、うち干支や年号が入った紀年銘は4例目。いずれも1980年代までの発見で、出土自体も非常にまれ。
市教委によると、G6号墳(直径約18メートル)の横穴式石室を調査中、7世紀中ごろの土器と共に鉄製大刀(75センチ)が見つかった。X線撮影の結果、大刀の根元の背の部分に、「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果□」(□は「練」の可能性)の19字が、1文字5~6ミリ四方の大きさで約12センチにわたり見つかった。表面を細い溝で刻み、中に金か銀とみられる文字を作っていた。日本製の可能性が高い。
年号の干支を示す最初の「庚寅」と、「正月六日」の干支の「庚寅」から、年代は570年と判明。意味は「570年1月6日に刀を作った。およそ12回鍛錬した」という。大刀の製造は570年だが、同古墳造成の7世紀中ごろまでと時間差が認められる。
日本書紀によると、日本は553年に百済に暦博士の派遣を要請、翌年、暦博士が来日する。この時もたらされた暦は、中国・南北朝時代の宋で作られた「元嘉(げんか)暦」とみられる。
元嘉暦は、5世紀の雄略天皇の時代から既に使われていた可能性が指摘されている。今回の大刀に書かれた「庚寅正月六日庚寅」のうち、570年と1月6日の干支が「庚寅」というのは、いずれも元嘉暦と一致する。
坂上康俊・九州大教授(日本古代史)は「干支の入った確実な日付としては初の発見。具体的な暦が分からないと刻めないので、元嘉暦を知っていた証拠だ。暦博士の来日後、元嘉暦が普及したことを初めて確実に示す極めて貴重な資料」と話す。
大刀は9月28日~10月9日、福岡市博多区の市埋蔵文化財センターで展示される。【大森顕浩】
◇「空白の6世紀」埋める
暦使用の実例としては日本最古となる貴重な文字が、古墳から見つかった大刀に刻まれていた。福岡市西区の元岡古墳群G6号墳(7世紀中頃)で出土した「庚寅」銘の鉄製大刀。文字資料が極めて少ない時代で、年代が確実に分かる新たな文字資料であると同時に、朝鮮半島からの暦の導入も証明する画期的な資料だ。
大刀には「570年1月6日」を示す「大歳庚寅正月六日庚寅」の文字が刻まれていた。平川南・国立歴史民俗博物館館長(日本古代史)は「大歳」という文字に着目する。日本書紀が引用する百済の歴史書「百済本記」に同様の使用例があり、百済の寺跡から出土した石造舎利容器にも刻まれ「567年」を示す例があるという。「百済の暦の使い方と同じ。百済から暦博士が来たという日本書紀の記述の正しさを証明した大発見だ」と驚いている。
日本の文字資料について、6世紀は空白の時代と言われる。日本書紀(8世紀)以前では、7世紀は木簡があり、5世紀には埼玉県・稲荷山古墳の鉄剣▽熊本県・江田船山古墳の大刀▽千葉県・稲荷台1号墳の鉄剣などがある。しかし6世紀には島根県・岡田山1号墳の大刀程度しかない。「6世紀は日本の国家の転換期。日本書紀の記述が事実かどうか、当時の資料で確認する必要があるだけに、今回の発見は非常に重要」という。
大刀の性格について、福岡市教委の菅波正人係長は、古墳の場所に注目する。一帯は当時、日本が朝鮮半島に軍を派遣した際の根拠地だった。古墳からは今回12センチの銅製の鈴も出土しており、古墳時代では国内最大級。大きな権力を持った被葬者の存在を示す。「大和政権が、関係が深かった地元の有力豪族に授けた大刀だったのでは」と指摘する。
坂上康俊・九州大教授(日本古代史)は「大和政権の九州支配強化のためではないか」と想像する。
これに対し、平川館長は「朝鮮半島に近く、当時の高度な技術が北部九州にはあった。それを基に地元の有力者が大刀に銘文を刻んで残す文化があったのだろう」と推測する。【大森顕浩】
時間軸うーんと飛びこえて い ま、発見されたのです。
これを作った人が実際に生きて生活していたんです。1500年も前に。
1500年て簡単に言えるけど 私たち寿命高々80年程度の人間からみたらどんなに昔のことか でもそんなに昔でもないのです。
どきどきしてしまう♪