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先祖を探して

Vol.8 エラブの地名伝承

世之主神社(世之主城跡)の付近には、島言葉で呼ばれるちょっと珍しい場所がいくつかあります。沖永良部の歴史民俗資料館の先田光演先生(島の歴史や世之主についての研究家でもあられます)に頂いた資料と当家の叔父様が書き残した資料から2つお話ししようと思います。

資料は先田先生に許可を頂いて掲載しております。


ウファチジ

この場所は世之主が自害されて最初に葬られた場所だと伝えられています。2月16日「逸話のある兜岩」ので紹介した兜岩のある場所の裏側の小高いところです。右手の奥のところから上へ登っていけるようですが、道は急な坂道だといいます。先田先生のお話では、木々に覆われた中を入っていくと、石が積まれた墓跡があるそうです。

世之主の墓は現在は別の場所にありますが、移転した理由がお爺様の書に書かれてありました。墓の下に居住している家々の人たちが(宗家の親族や島の役人だと思います)、いくら王様の墓であってもその山を伝って流れてくる水を飲料水として使っているわけなので、あまりよくないので墓を別の場所に移動して欲しいと役人に伝え、その話が通って別の場所に新しく作られたということです。それが「ウファ」と呼ばれる現在の墓です。

ウファの方は現在は他の琉球式の墓と共に建造年など色々と調査をされていますが、現在のところ16~17世紀ごろの建造と言われていますので、その移設の話が出たのもそのころでしょう。ちょうどその頃は島津藩が入ってきた頃なので、その相談相手の役人が、琉球側の人か島津藩の人なのか、そこはまだ不明です。かりに島津藩が管理し始めた頃にウファを作ったとすれば、よくそれを許したなと思う次第です。(ウファは琉球から墓職人を呼んで作らせたそうですから)

実は、うちの義母が興味深い話をしています。義母が昔に父であった義経爺様に聞いたそうなのですが、島を出るときに持ち出せないので宝を埋めてきた、世之主神社の横の小高いところに埋めてきたと話していたそうです。

宝はおそらく世之主時代から伝わる中国産の陶磁器類ではないかと思われます。そしてその宝を埋めた場所がこのウファチジではないかと。お墓だったら荒らされる心配が少ないですしね。

義母は当時まだ幼かったので世之主のことや当家のことが詳しく知らなかったので、父親にもしっかり話を聞いていたわけではなく、その話だけが記憶として残っているそうです。お爺様が生きておられたら、、、と実に残念なことです。

私自身はまだこの場所には入ったことが無いので、次回島を訪問する時にはぜひ調査をしたい場所の1つです。


世之主神社

城跡の建物がいつ頃まで現存していたのか、どうやって無くなってしまったのかは知られていません。島津藩が攻めてきた時に、他の近隣の島々は戦いをしたそうですが、沖永良部については戦いをせずに島津藩の領地になったそうです。その時に一役買ったのが当家の先祖であるらしいです。当家の先祖は代々、琉球から大屋子に任命され島を統括していたようですので、島民が争いによって命を落とす可能性があることを危惧したのでしょう。小さい島ですので、戦っても勝ち目はないでしょうからね。その島津藩がやってきた1609年にはどうだったのでしょうね。もう少し情報を探してみようと思います。

現在の神社の裏手(北側)の石垣跡には、二か所の抜け穴が残っているそうです。また昔は高い石垣があったと聞いています。高い石垣に囲まれた狭く急な坂道を登って神社まで行っていたと義母が覚えておりました。規模は小さいですが世之主の父である北山王がいた今帰仁城のような感じだったのかもしれませんね。

お爺様の書に「城の北側の下の方に宗川(そうご)という泉があって、当時の住家のほとんどがこの川の水を飲用したと語り伝えている。」と記述があります。現在はグーグルで見ても川や泉の存在は見つけられませんが、地図上には川の記載があるので、今もまだ細い川が流れているのかもしれません。当時を偲ぶ場所としてこちらも確認ポイントの1つですね。


薩摩藩侵略時のことは『大奄美史』『奄美大島史』『知名町史』に記載されています。是非、詳細に知りたい方はこの本を読んでください。
原文は難しいので現代文で概略をお伝えします。

時は1609年3月、島津家久は徳川家康に琉球征伐の許しを得ていたので前年秋、軍を整え華山権左衛門尉久高を総大将に、諸勢3000余名、五反帆の兵船100余艘で、3月4日山川港を出航。琉球の属島たる大島・喜界島・徳之島の順に攻める。大島笠利、名瀬、大和浜、焼内を落とし、更に
徳之島の秋徳港(現在の亀徳)へ、武器を持たない島民は飛び道具を持つ薩摩軍に敗れる。
沖永良部へは3月21日、武器のないえらぶ人は防戦協議をし、「粟粥を炊いてぶつかけよう」衆議一致し鍋に粟粥を炊き、煮だったまま海岸へ運び並べた。敵兵が上陸しこの鍋地獄を知らずに押し寄せ、足を大やけどするだろうと、そして蘇鉄の葉陰で待ち構えていた。夕暮れ時海岸に薩摩軍は押し寄せ無数に並べられた鍋を見て「粟粥」、空腹になっていたので「これは親切な島民が我々にご馳走するのか」と、それを食べる。島民は薩摩兵の姿を見て、戦わず平伏降参したと
記されている。

世之主の勘違いによる自害や薩摩藩侵略時のこのお話、なんともホッとするというかほのぼのとした話しですよね。
島の島民性が見えるお話だと思います。




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