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令和6年6月5日(水)午後12時20分頃、
丸亀城三の丸「延寿閣別館」をあとにして南側より城跡を降りた。
丸亀城は2回目の訪問ですが、大手門と反対側に石垣を降りるのは初めてです。
丸亀城跡から見えたのは、多分、讃岐富士(飯野山)でしょうね。
標高422mで、新日本百名山、四国百名山に選定されています。
平成21年、標高422mにちなみ4月22日を「讃岐富士の日」とし、
毎年「里山まつり」(山開き)を開催しているらしいです。
丸亀城跡(史跡名勝天然記念物)
1953年3月31日(昭和28年)指定
古く宇多津城主奈良氏がここに城砦を構えたと伝えられる。天正十五年生駒親
正は領地を讚岐国に遷され、慶長二年ここに築城、同七年子一正は高松城に移
り支城となった。生駒氏寛永十七年領地を没收され、同十八年山崎家治これを
領し、ついで同二十年、これより先き、元和元年廃城となった古城を修築して
現在の丸亀城を営んだ。山崎氏は明暦三年絶家、万治元年京極高和これを領し、
尓来相継いで明治維新に至った。海浜に近い丘陵によって営まれ、北を大手南
を搦手とする。頂上に本丸を置き、その東に稍々低く二の丸を配し、更に一段
低く山腹をめぐって三の丸を設け、また東南隅から南面、西南にかけて腰曲輪
を連ねる。藩主の居館は西麓に営まれている。この中枢部を囲んで方形状に堀
をめぐらし、南正面に大手門を開いている。規模は必ずしも大きくはないが、
層々相重なる石垣は壮観であって、天守閣、大手門、等と相俟って旧規を偲ば
せるに十分であり、近世城郭の一例として貴重である。
<国指定文化財等データーベースによる>
石垣の南西方向へ向かうと、三の丸石垣崩落現場の出合う。
平成30年7月豪雨により一部崩落していたものが、
平成30年10月9日、東西約25m、南北約30m、高さ17mの範囲で崩落を確認。
令和3年9月公表の完成目標は、令和7年3月末でしたが、
解体回収する石材数の増加や、なるべく石垣を元の位置へ復旧する方針であることなどから、
3年程度の工事延伸が必要となり、令和10年3月末の完成目標に修正されています。
それに伴い、概算事業費も約19億円増加し、約52億5千万円となったとのこと。
無事に石垣復旧工事が完成することを願っております。