上村悦子の暮らしのつづり

日々の生活のあれやこれやを思いつくままに。

「緩和ケア」って?

2024-09-03 15:20:15 | エッセイ


久しぶりに緩和ケア医(ホスピス医)である関本雅子さんに取材させてもらった。
関本先生は関西での緩和ケア医として先駆者的な存在で、
これまで在宅患者さん4000人近くを看取ってきた医師。

24時間の訪問診療を続けてこられた方で、
がん治療などに伴う心身ともの「苦痛」「痛み」を取り除く医師だ。

ご長男も母の背中を見て同じ緩和ケア医となられたが、
クリニック院長を譲られた矢先のこと。
肺がんを発症し、2年半の闘病で亡くなられた。

母親である関本医師たちの行き届いた緩和ケアで、
闘病中もずっと仕事を続け、家族や友人たちとも楽しい時を持ち、
自分の葬儀の準備までされての旅立ちだった。
この辛い体験で関本先生は、「症状緩和の大切さを新たに痛感した」と話しておられた。

しかし、緩和ケアの大切さは一般的にはあまり広まっていない。
多くの人は、がんなどで治療不可能になって行うものと思われているようだ。
関本先生によれば、「治療とともに始まるのが緩和ケア」だそう。

私は父をはじめ、「がんに痛みはつきもの、ガマンするしかない」
という現実を見てきたので、まるで夢のような話だった。

現在、仮に総合病院でがん治療を行いながらも、
普段の痛みなどは連携する地域のクリニックで診療してもらえる。
がんだけでなく、苦痛を伴うほかの病気の場合も同様だそう。
関本先生のクリニックはそういう場。

ただ、緩和ケアができる医師はまだまだ少ない。
近所で探したい場合は、ムック本『さいごまで自宅で診てくれるいいお医者さん』(朝日新聞出版)で、
緩和ケアができるクリニックを参照とのこと。

先生に教えられた。「生活背景まで大切にしてくれる医師を選びなさいね」

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80歳からの二世帯住宅

2024-06-29 10:05:30 | エッセイ
もうすぐ80歳という知人に、笑顔で打ち明けられたのは2年前のこと。
「子どもが生まれた長男が、今後のことも考えて、
家を二世帯住宅に建て直して一緒に暮らさないかと言ってるの」
こう聞くと、ほとんどの人は年老いた両親の介護のことを考えてだろうと思いがちだ。

その時、見せられたのがクリクリの目が愛らしい初孫さんの写真だ。
ところが、
長男夫婦が共働きで、子どもの保育園の送り迎えが難しいため、
二世帯住宅にして、元気なうちは手伝ってもらえればという話だった。

周りの多くの友人に言われたそうだ。
「その年齢で引き受けたら潰れてしまうよ」
「絶対に無理だから断ったほうがいい」

それから2年、久しぶりにその知人とランチに行った。
若々しく、元気そうな彼女。
長年、家でピアノ教室を開いてきた人だが、今も生徒さんが4人いるそう。

「お孫さんは元気?」
「ええ、もう元気に保育園に通ってるの」
建て替えた真新しい二世帯住宅の玄関で、
色とりどりのお花に囲まれて微笑む可愛いお孫さんの写真を見せてもらった。

この2年の間に、住み慣れた家の細々とした片付けをこなし、
一時的に近所のマンションに引っ越して生活。その間に家を二世帯住宅に建て直して、また引っ越し。
昨年から夫婦2人に息子さん家族3人との新しい生活を再スタートしているのである。

絶対そうは見えないが、現在、81歳。
毎日ではないにしても、お孫さんの送り迎えをし、帰宅してからの世話や食事の準備までこなす。
「おばあちゃん、おいちい!」のひと言で、元気が出てくると笑うのだ。
なんて人だろうと思う。

まったく嫌味がなく、ただただ一生懸命。
つい数年前まではボランティアの民生委員も務めてきた人なのだ。
人のために動くことが何の気負いもなくできる人というのだろうか。
「無理なんかしてないのよ」
「やってて楽しいの」
そういう彼女の存在があるだけで、幸せな気持ちになれる。
不思議と私まで頑張らなきゃと思わせてくれるのである。
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書き続けるということ

2024-03-22 11:45:16 | エッセイ

仕事の資料を整理していたら、
古い原稿に混じってレポート用紙に走り書きした文章が出てきた。
異質感があって恐る恐る読み始めると、なんと若き日に夫へ宛てた手紙だった。

27歳ごろだろうか、長女が誕生してからの育児期間中の気持ちを綴ったもの。
記憶の中では、お座りができるようになり、よく笑う子で、離乳食をペロリと平らげて……
といった楽しい思い出がある一方で、
一時期、人に話せない負の気持ちが心の底にはびこっていたことが蘇ってきた。

ワンオペという言葉もない時代。
出産後は郊外がいいのではと、大阪市内の都市型高層マンションから、
抽選で当たった緑あふれる古い団地に引っ越しての新しい暮らしだった。
広告代理店勤務の夫の帰りは毎日遅く、
友人もすぐにはできず、人間らしい会話のない毎日。

憧れていた子育てで小さな娘は可愛くてしょうがないと思いながら、
仕事を続けていない焦り、社会と離れてしまった不安……。
チームごとに慌ただしく仕事をしていた光景が頭をよぎり、
育児だけでは満足できない日々だった。

商売人の家で育ったせいか、人が出入りするのが当たり前だった家庭像。
常に娘と2人だけの寂しさに、夫の帰りは遅く、
大した会話もできない日々が更なる重しとなった。

手紙を読み進めると、私自身のはずなのに、得体の知れないもう一人の若い自分がいる。
夫は仕事が忙しいだけなのに、
「私のこの気持ちになぜ気づかないの?」
「そんなに鈍感な男だったの?」と責め立て、
夫の帰りだけを待つ日々の侘しさや日々の唸りのような気持ちを切々と文字にしているのだ。

一方で、夫に当たる自分を反省し、蔑んでいるという複雑な内容。
毎日の24時間の自然なリズムに乗れず、
それどころか逆回転しているようだとも綴っている。
私はその想像し難い底からどう抜け出して行ったのだろう。

記憶は鮮明ではないのだが、
夫は仕事帰りに、その手紙を読まされ、こんなことをサラッと言ったと思う。
「また仕事始めたらいいやん……」
「あいた時間で少しずつやったら……」

今から思えば、たったそれだけの言葉。
幸い、出産前に勤務していた会社から、コピー原稿の依頼があったり、
夫もラジオCMのナレーション原稿の仕事を紹介してくれたり。

育児をしながら細々とでも仕事を続けられる環境が徐々にできていった。
と同時に、気持ちが安定していったのだと思う。
自分がやる気になれば、どんな形でもできると思えるようになった。
ライターとはそういう仕事でもあったのだ。

ただ世の中には
「育児中は子どものために育児に専念すべき」
「三つ子の魂、百までと言うでしょ」
「女性は家事を疎かにしないほうがいいよ」
「ご主人のお給料だけでは足りないの?」
等など、好きなこと言う方も多いのだ。

その頃から、もう40年以上、
多少の波はあっても書き続けてこられたことに感謝である。
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村上春樹チャン!?

2023-12-25 15:22:58 | エッセイ

ある集まりに参加した時のことだ。
2~3人ほど離れた場所に座る高齢の女性が、
隣の人に話しているのをこぼれ聞いた。
「作家の村上春樹って知ってる?」

『えーえー、知っていますとも! 大好きな作家です!』
と、心の中で即、反応してしまった私。

村上春樹の小説に出会って、もう何十年になるだろう。
デビュー作の『風の歌を聴け』を皮切りに、新作が出るたびに買い求め、
時には夫とどちらが先に読むかともめながら、それでも読み終わると独特な世界の余韻に浸った。

70年代のジャズ喫茶、こだわりのスパゲティーやビール、
反逆と自由、独特な気怠さーーなど、同世代的な共鳴感が強く、
また謎めいた言葉の渦の中に巻き込まれていく不思議さが心地よく、
小説、エッセイ集、ノンフィクションなどほとんどの本を読んできた。

その女性は、こう続けた。
「春樹ちゃんの家、うちの実家と隣同士やってん」
『えー、春樹チャン!?』
もう黙っていられず、人越しに質問してしまった。
「あのー、村上春樹とお家が隣同士やったんですか?」
「そう、うちの父親が教師やって、春樹ちゃんのお父さんも同じ学校の国語教師でお隣さんやったんよ」
「ヘエーー」
「私が5歳の頃やけど、記憶にあるのはベビーカーに座ってる春樹ちゃん」
『村上春樹がベビーカー……?』
「ということは、赤ちゃんの村上春樹なんですかー?」
意味不明の質問をする私。
彼女は、
「そうやねん」と笑った。

赤ちゃんの村上春樹を想像することなど絶対できないし、
あえて想像もする必要もないだろう。
村上春樹にまつわるあれこれが網羅された辞典的な本もあるが、
まさか赤ちゃんの村上春樹までは出てこないはずだ。

女性の話はそれだけだったが、その後数週間、私の頭の中には
ベビーカーに座った想像上の春樹チャンが何度も登場した。

私たちは生まれて成長していく間、その後も社会で働き、
新しい家庭を持つなど、その後もずっといろんな人と出会っていく。
その小さなシーンごとにさまざまな人とすれ違い、関わっていくわけだが、
それぞれの人の記憶の中に、あらゆるシーンのさまざまな顔の自分自身が残されていくのだ。

想像もしていない誰かの記憶の中に、泣いたり、笑ったり、怒ったり、偉そぶったり遜ったり、
それどころか目を覆いたくなるような無様な私が
現れている可能性があることを思い知らされた……。

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4月 お別れ会

2023-04-05 14:35:34 | エッセイ

昔、一緒に仕事をさせてもらった人の訃報が突然舞い込んできた。
6歳上のイラストレーターの女性。

一番に思い出したのが、
お酒が似合って、いつもガハハと大きな声で笑う人だった、そんな光景。
美味しいものが好きで、すべて講釈付き。
黒門市場でふぐの買い方から、ポン酢の選び方、食べる順番まで、それはうるさかった。
いわゆる鍋奉行だ。
丹波の猪鍋、近江八幡ですき焼きを食べつつの屋形船、京都の〇〇の湯豆腐……、
「どや、ええやろ、美味しいやろ」とドヤ顔で教えてもらった。

他にも、上級者向けの映画や舞台に誘ってもらったり、
一緒にお酒を飲んだり、大笑いしながらいっぱいしゃべったり。
その女性がしばらく暮らしていたニューヨークへの旅に連れて行ってもらったことも。
それは私にとって子どもたちを残しての、初めての海外旅行だった。

2年ほど前に電話して、「またランチしましょね」と話したのが最後。
ご両親は早くに他界され、ずっとシングルでお付き合い仲間がいっぱいの暮らし。
最期は従姉妹さんが「身内だけで小さなお別れ会をするので、
それでもよかったらご参加ください」という会に行かせてもらった。

葬儀といえば、親族以外では義理で参加させてもらうことが多い。
「お世話になったんだから」「あの方も行かれるんやし」と。
でも、彼女のお別れ会には、
どうしてもお顔を見て「ありがとう」と言いたい、
そういう人たちだけが参加されていたのだと思う。
私は、彼女が「わー、素敵やん!」と言ってくれそうな、
白と紫と黄緑色のお花を選んで花束にしてもらった。

遺影も、お経もない、何の演出もない小さな家族葬。
「私、彼女とニューヨークでアパートをシェアしてたの。本当に楽しかった時代!」
「いつも寄席に誘われました」
「いろんな仕事、一緒にしてきたんです」
「お花見にいろんな名所に連れて行ってもらったよね」
それぞれが口々に彼女とのやさしい思い出を語って、
温かい静かな空気が流れていた。

予期しない死を迎えて、
それぞれの時代に共に生きて来た人ちと別れとはこういうものなのか。
言葉では表せない、物言わぬ人との突然の対面と別れ。
それでも何かその人と繋がろうとするやさしい空気が流れていて、
その人らしいお見送り方だなあとしみじみ感じた。
ありがとうございました!
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