上村悦子の暮らしのつづり

日々の生活のあれやこれやを思いつくままに。

7月 嫁のチチ

2019-07-24 11:35:55 | エッセイ
暑くなってセミが鳴きだすと、必ず思い出す話がある。
今は亡き母方の叔父が、岡山県庁に勤めていた現役時代のことだ。

確か産業課だったと思う。
岡山の名産品である桃やぶどうなど農作物促進の仕事をしていた叔父は、
その年の状況や収穫予想などを調査するため、地域の農家を一軒一軒回って、生の声を聞くのが仕事の一つだったようだ。

真夏の暑い日。
太陽が照りつける中、うるさいほどのセミの声を背に、いつものように1軒の桃農家を訪れた。

「こんにちは。お暑うございます。今年の桃の調子はどうですか」
 土間に入って、いつもの挨拶をしたという。

「ああ、これは◇◇さん。いつも、ご苦労さんです。あいにく若い者はみんな畑に出とりますが、
外は暑いですけー、まあ少し休んでお行きんなせい」
 と、愛想よく迎えてくれたのは、一人で留守番をするおじいさんだった。

額から汗を流す叔父の暑そうな様子に、おじいさんは冷たいものをとでも思ったのだろう。
奥に入り台所でカチャカチャという音を立てていたかと思うと、ガラスのコップに白い飲料水を入れて持ってきてくれた。
コップには水滴がついており、よく冷えておいしそうだった。

「何もありゃあしませんが、まあ、どうぞ」
「ああ、それはそれは・・・・・・」

叔父は「これは何だろう」と思いながら、瞬間的に「牛乳?、それとも乳酸飲料?」と考えたそうだ。
そして、土間に腰掛けさせてもらいながら、
「ああ、ありがとうございます。遠慮なくいただきます」とコップを手にした。
「どうぞ、どうぞ、お上がりなせい」

さあ、飲もうと口に近づけたとき、フッと何かが匂ったが、ノドが乾いていた叔父はゴクリ・・・。
一気に飲んだところ、それは摩訶不思議な味だったという。

牛乳のようでもあるが牛乳ではなく、口ではうまく表現しにくい味。
つまり、叔父の長い人生のなかでも、それまで口にしたことのない味だった。

味というのは、「この味!」と断定できなくても、
何かに似た味とか、妙に懐かしい味というのがあるものだが、それも思いつかなかったそうである。

「すいません、おじいさん。これはいったい何ですかのう?」
 思わず聞いてしまった叔父。

 おじいさんは微笑みながら、
「ヨメのチチですわー」
 屈託のない答えが返ってきた。

「嫁の?チチ・・・・・・?」
「ええ、うちの嫁の乳がよう出て捨てるのももったいないんで、冷蔵庫で冷して家族みんなで飲んどるります」

「・・・・・・・・・・・! ほう、それはそれは・・・」
 叔父にとって、ほのかに甘い初体験だったそうだ。
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7月 消臭

2019-07-08 17:32:03 | エッセイ

暑くなってくると、イヤな臭いが気になり始める。
日本人は昔から夏場でもなるべく悪臭が出ないように、いろんな工夫をして暮らしてきたはずだ。

ところが、何ということなのか。 
最近はイヤな臭いどころか、
生活臭を何でもかんでもワンプッシュで消してしまおうという消臭清浄剤が売り出されている。

スポーツをした後のユニフォームから、成長期の男の子の匂いがプンプンしそうな学生服、
ギューギューの満員電車にもまれ、タバコと屋台の酒の匂いが染み込んだお父さんのスーツ、
はたまた、カーテンから下駄箱の臭いまで、一時的に匂いを消してしまって「幸せ~」という商品である。
たとえ消臭・除菌はできたとしても、肝心の汚れは落ちていないのだかだから、気持ちがいいものではないだろうに。

2人の娘が幼い頃、ドロドロの運動靴を週末ごとに石けんとタワシで洗わせていた時期がある。
少し手間がかかるが、洗いたての運動靴が乾きやすいようにお日さまに向けて干していた子どもたちは
「気持ち良さそうだったのになあ」と思い出す。

なんだか今の薄っぺらい時代を象徴しているような気がして、「便利」ってなんだろうと思ってしまった。

何もかもが不便だった昔、「便利」という言葉は輝いていた。
でも、今は便利すぎて、失うものが多いのではないかと危惧してしまう。

携帯電話もそうだ。結婚当初、広告代理店勤めだった夫は夜のつきあいが多く、
子どもがまだ小さい頃など、急に熱を出したり、緊急の用事があったりと、連絡を取りたい時でも行方知れずで困ったりしたものだ。

でも、今ではいつでもどこでも連絡が取れる。連絡どころか、SNSを利用すればさまざまな情報を得て、
見ず知らずの人と交流ができる。緊急時にすぐに繋がらなくても発信記録は残る。
送りたい情報があれば、夜中だろうがいつでもクリックするだけで送信できる。
想像力を働かせて相手の都合を考えたりする必要なくなった。
人の気持ちや時間を慮るどころか、「待つこと」をしなくていいわけだ。
人間しか持ち得ない鋭い感性を鈍く、あるいは後退させてしまったような気がして仕方がない。

そういえば今、子どもの手先の器用さが失われているという。
子どもは誕生した後、成長段階に合わせて自然にいろんな行動ができるものではないそうだ。
自分の意思で「つかむ」「口に入れる」など体を繰り返し動かすことで動作を獲得していくらしい。

だからだろう。子どもが小さいうちから、洗う、切る、まぜる、こねるなどの動作が必要な台所仕事を一緒にさせると、
手の動きだけでなく、においを嗅いだり、味わったりするので五感も鍛えられるという話を聞いた。
それが生きていく上での自立につながっていくようだ。

今の子どもたちは小さい頃から器用になる要素を奪われている。
少し前まで石けんは自分で泡立てるものだったし、
学校では雑巾掛けがあったので雑巾は手で絞らなければならなかった。
おはじきやメンコ、お手玉。影絵、着せ替え遊びなど、かつての手遊びが消え失せて手先を使うことが減ってきている。

携帯やゲーム機の使い過ぎで親指ばかりが発達したらどうなるのだろう。
便利すぎると、「失うものも大きいなあ」とつぶやいてしまった。
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