上村悦子の暮らしのつづり

日々の生活のあれやこれやを思いつくままに。

6月 ジュンブライド(2)

2019-06-06 14:24:40 | エッセイ

もったいないといえば、思い出すのが結婚して間もない頃のこと。
もっとも苦手だったのが魚の調理である。
というより恐くて仕方がなかった。

あの魚の目がいけない。
こちらは視線を無理にでもそらすのだが、魚の方は凝視しているようで、
つい視線を合わせてしまうのだ。
それも生きている魚ならともかく、死んでしまって動かない目玉というのは、
何も見ていないはずなのに妙な力強さがある。

少しでも包丁を入れると、死んでいるはずの魚の目だけが生き返り、
「ワレ、イイカゲンニセンカイ」とにらまれそうで、
顔をそむけ、目もしっかり閉じて、見て見ぬふりの精神で一気にやっつけていたものである。

さらにやっかいだったのが、活きている魚だ。
ある日、夫の会社関係者から活きたヒラメが送られてきた。
付属品の「おいしい活け造りの仕方」という説明書によれば、
まずは包丁の背でヒラメの頭をたたいて気絶させ、それから手早く調理を始めよという主旨である。

私は美しい白身の薄造りを頭に描きながら出刃包丁を握り締めた。
居心地悪そうに機敏に動くヒラメを、まな板の真ん中に乗せるだけでも、ため息の2つや3つは出る。

ひとまず精神統一。
ヒラメの動きが止まったと思われた瞬間、生き物を殺すという後ろめたさから半分目をつむり、
それでも力を込めて、包丁の背で「コーン!」と一発、頭を直撃した。

ところが、ヒラメはビクともせず、まな板の上で元気にはね回るだけ。
「ああ、ごめんなさい。ごめんなさい」
と念仏を唱えるように繰り返しながらも、出刃包丁を握った手は、
意に反するように2回、3回と挑戦した。

たたく力も足りないうえに、たたく場所も悪いのだろう。
人間の一方的な襲撃に、ヒラメは逆に元気を増したようだった。

そうして台所の片隅で格闘しているうちに、頭に浮かんできたのが、
いつか観たテレビドラマの殺人バラバラシーン。

包丁の切れ味はさらに悪くなり、薄造りになるはずだったヒラメは、
姿カタチの鮮明でないグチャグチャ造りと、
身をいっぱいつけたあらの空揚げに姿を変えてしまった。

魚屋さんでさばいてもらえばよかったと後悔しても後の祭り。  

それにしても、生きているうちにまな板に乗った魚の目には、人間がどのように映っているのだろう。
人間世界で想像される地獄の大魔王といったところだろうか。
我々はご飯をいただくときに、食事を準備してくれる人や、
生産物の収穫者に「いただきます」と手をあわせる。
それにプラス、
材料そのものにも「食べさせていただきます」と、感謝の気持ちを心から表したいものだ。
コメント
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