上村悦子の暮らしのつづり

日々の生活のあれやこれやを思いつくままに。

4月 スタート⑷

2019-03-27 15:05:30 | エッセイ
男はまだまだ複雑だった。
私は今度こそと、コピーライターがいるデザイン事務所を見つけて応募した。
応募とはいえ、スタッフ募集などしていない会社に電話で問い合わせ、
「一度会ってみてもいいよ」という社長の好意に甘え、
しかも、作品が1枚もない私は、何編かの自作の詩を持参して面接に向かった。

若い頃の恐いもの知らず、厚かましいだけの「ダメでもともと精神」である。
ところが、その突拍子さが新鮮だったのか、ただの使いっ走りが必要だったのか、採用されることになった。
ただし、給料はわずか2万円。コピーさえ勉強できるなら安いとも感じなかった純粋な頃である。

小さなデザイン事務所だったが、かなり大手の広告を手掛け、
社長が自称、ひと文字何万円という男性コピーライターだった。
カッコいいイラストレーターの女性から、
「勉強になるから、いいコピーやフレーズは何でもノートに書き写してみるといいよ」と教えられ、
そのノートは私の宝物となった。

コピーライターの見習いは、私を含めて4人。
大卒で春に入社したばかりという男性2人は、共に作家志望という異色派で、
我々に与えられたのは試練の連続だった。

まず、文字は原稿用紙に書くものだと思っていたら大間違い。
渡されたのは、学校でよく使ったワラ半紙を四つ切りにした紙と鉛筆と消しゴム。
毎回社長からテーマが与えられ、そのテーマについてまとめる作業だ。
コピーとは程遠い「書く」訓練が始まったのである。

でき上がると順番に、社長の机まで「猛獣にエサを与えるかのように」恐る恐る持っていく。
自分の前に同僚が怒鳴られまくるのをイヤというほど見せつけられているからだ。
伏し目がちに「お願いします」と原稿を手渡すと、
読み始めた社長の顔がみるみるうちに赤みを増していく。

そして、嵐のような罵声が飛ぶのである。
「こんなモンしか書かれへんのか! キミはもう少しはマシなモンが書けると思ってたのに! 何や、これは!」
「・・・・・・・す、すいません。書き直してきます」

何がどう悪いかも理解できないまま、オズオズと席に戻るのみ。
次にまた新しい紙がもらえるのではなく、
そのワラ半紙に書いた文章を消しゴムできれいに消してもう1度、いや、何度も何度も書き直す作業が続いた。
クサクサして消していると、勢いあまってよく破れたものだ。
そうなると、セロテープを裏から貼って使うのである。

しかし、面白い勉強法も教えてもらった。
突然、社長に呼ばれ、ビクビクしながら社長の席まで行くと
「これから出掛けるから、ついて来なさい」といわれる。
上着を手に、再びビクビクしながら、しかも愛想笑いを振り撒きながらついて行くと、
梅田の繁華街を抜けて映画館に連れて行かれたりする。

映画がタダで見られるなんて思うと大変なことになる。
題名も分からない映画を途中から観始め、
「この女優さんだれやったけ」なんて考えているうちに、
社長が突然「帰るぞ」と言い出し、途中で慌ててを立つ。

そして、急ぎ足で会社に帰ると、「今の映画について思ったことを何でも書きなさい」となるのである。
「エッー! あれだけで何を書けっていうのよ!」
などと口答えは絶対できない。
あらすじもよく分からない映画について、何を書いたらいいのか悩みながら、それでも鉛筆を走らす苦しみ。
書いても、書いても、書けるわけはなく、また例の繰り返しで罵声を浴びることとなるのである。

その社長に家からよく電話がかかってきた。
「◇◇ですが、主人はおりますでしょうか」
「はい、しばらくお待ちくださいませ」

たまにその電話を取り次ぎながら、ある日、声の主が違うことに気がついた。
社内での噂を取りまとると、ひとりは不倫相手ということだ。
原稿ひとつまともに書けない私なのに、それからは電話が鳴るたびに興味津々。
段々慣れてくるにつれ、不倫相手の回数の方が断然多いことが分かってきた。

こんなことを面白がっている私も私だが、
社員にはとびきり厳しくしながら、不倫相手にぬけぬけと職場に電話させる社長も社長である。
ありがたいことにコピーの勉強はかなりさせてもらったが、
「公私混同も甚だしい」と私の男を見る目はまたまた厳しくなった。

『こんな男もいるんだ』
どういう因果か、社会人としてスタートしたばかりの頃、
私の一生の相手にはこんな男だけはイヤだという人に、立て続けに3人も会わせてもらったのである。
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4月 スタート⑶

2019-03-21 11:00:53 | エッセイ
若い時の身替わりの早さは、今から思うと我ながらすごいものである。
経済新聞社では記事校正や整理の勉強をさせてもらったが、
広告コピーを学びたいという思いが強くなった私は、何ともあっさりと辞表を提出。

小さなデザイン事務所の「見習いコピーライター募集」の記事を見つけて応募した。
見習いというだけあって、作品も何もない私でさえ簡単に採用されることになった。
そこで「ラッキー」と思ったのも束の間、簡単に採用されたのには、それなりの理由があった。

そこはデザイン事務所とは名ばかりで、完璧な版下屋さんだと、出勤1日目にしてわかったのだ。
今のようにコンピューターでデザインやレイアウトするのではなく、
当時は、デザイナーがケント紙上にデザインし、
コピーライターが原稿用紙に書いたコピー、カメラマンが撮影した写真などを添えて、版下屋さんに送付。

そこで写植屋さんが文字をレイアウト通りに打って、写真文字に。
そして製版に向けて、それぞれの写真やイラスト、写真文字などを、
1枚の台紙に手作業で張り込んでいく版下という行程があったのだ。

もちろん、その会社には、私が希望したコピーライティングの仕事もなければ、
教えてもらえる先輩のコピーライターもいなかった。
ところが、さすがに社長は抜かりがない。
「わが社でも近い将来、デザイン業もやりたいので、コピーライターが必要になるときが必ず来る。
そのときのために、自分で考えたコピーを文字として打つ写植を勉強してみないか」
というのである。

後で考えると、コピーライターが自分の原稿を自分で写植に打つことなどあり得ないのだが、
そこはいい加減なヤング思考。機械の前に座り文字を探して打つという行為はゲームっぽくて、
『長い人生やもん、写植を覚えておいても損はないやろう』
という安易な気持ちと好奇心だけでやることにした。

そこで、写植歴10数年のNさんという男性オペレーターに教えてもらうことになった。
ヘアスタイルはトニックをベッタリつけたオールバックで、肩に白いフケが目立つ男性だったが、
優しい物言いの人で丁寧に教えてもらった。
 
文字を探して原稿通り打てたら印画紙を取り出し、暗室で現像する。
当初、文字を探すのに随分時間がかかったが、予想以上に早く上達し、
与えられた仕事は適当にこなせるようになった頃のこと。
Nさんの態度が急変し、私に対して口を一切きかなくなったのである。

最初は冗談かとも思っていたのだが、どんな質問をしても無視され、
呑気な私には何の理由も思いあたらなかった。
Nさんの態度は数週間しても変わろうとせず、段々と腹立たしくなった私は
『よしっ、こうなったら全部覚えて、サッサと辞めてやる!』
と、挑戦的になってしまったのである

意を決した私は、社長に直接「会社を辞めたい」と申し出て、
「コピーをきちんと勉強したいから」という理由も説明した。
すると、社長はその場へNさんを呼び、私の気持ちを伝えてくれた、その時だ。

30歳も過ぎようとする男が拳を両膝にのせたまま、その場でうつむき静かに泣き出したのである。
当時の私にはその理由などまったく分からなかった。
分かろうともしなかった。
しかし、これが泣くほどのことなのか……。

またしても心底から感じた。『こ、こんな男もいるんだ!』。
そして、この時以来、せっかくマスターした写植技術を、
長いライター生活のなかで使うことは2度となかったのである。
                                               (つづく)
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4月 スタート⑵

2019-03-15 17:54:52 | エッセイ
そういえば、社会人としてスタートした時も、初っぱなからくねくね道。
今後の私の人生で絶対共に歩みたくない3人の男たちに出会ったのだ。
 
短大を卒業して入社したのは、小さな業界新聞社。
団塊世代の直後にあたる私たちの世代は、まだ学生運動のほとぼりが冷め切らず、
短大2年の半分ほどが休学で、就職活動などないに等しい状態だった。

米英語学科ということもあって、周りの多くは英語を活かした就職先を探していたが、
学生運動の余波が強く危険視されていた新聞部に属していた私は、
何の技術もコネもないのに気持ちだけがマスコミ志望。
数少ない募集要項からやっと見つけたのがその業界新聞社だった。

新聞社は、相当年季の入ったビルの3階にあった。
その年の新入社員は、女性2人だけ。大卒の女性が記者で、短大卒の私は整理などの内勤となった。
男性記者が4~5人、カメラマン1人、整理の女性1人という小さな新聞社で穏やかな人ばかりだった。

その中にもう定年間近いロマンスグレーの男性がいた。
温かい笑顔にたっぷりのユーモアセンスをもつ紳士で、
若い頃はきっと女性にもてただろうと思われる端正な横顔の持主だった。
かつては大手新聞社で活躍した人だとも、先輩にこぼれ聞いていた。
 
入社して初めて迎えた給料日。事務所のドアを静かにたたく人がいた。
「ごめんください。いつもお世話になっております」
手慣れた感じでドアを開け、もの静かに事務所に入ってきた中年の女性は、
笑顔をつくることもなく深々と頭を下げた。 

「ああ、いつも御苦労様です」
みんなの見慣れたやさしい視線。
ひとりの女性スタッフは、さっと自分の席を立ち、当然のように社長室に入って行くと、
給料袋らしきものを手に戻ってきた。
そして、その女性ににこやかに手渡したのである。

「ありがとうございます」
また深々と悲しいぐらい頭を下げる中年の女性。ほかに会話をかわすこともなく、
ごく当たり前のことのように見送るスタッフたち。
呆然とそれを眺める私に、ひとりの先輩記者が、あの人は定年間近い男性の奥さんだということを手まねで教えてくれた。

『ヘエー、奥さんがお給料を会社に取りにくるんや……』
きっと何かの事情で家に給料も入れなかった時期があったのだろう。
それにしても、経済観念のない夫の給料を、
わざわざ会社まで取りに行かなければならない妻の「貞淑な女房という役目」は寂しすぎるが、
その給料にすがって生きなければならない女性の生き方にも、疑問を持たずにはいられなかった。

『こういう男もいるんだ』
 まず入社して一番の社会勉強となった。
                                    (つづく)
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4月 スタート⑴

2019-03-12 09:18:31 | エッセイ
その日、私は新大阪駅の人ごみの中で立ち尽くしてしまった。
下の娘が幼稚園に入園したのを機に、またコピーライターの仕事に復帰しようと、
あれこれ模索し、新聞の求人でやっと見つけた会社を訪問する時のことである。

それまでも以前勤めていたデザイン事務所から頼まれた仕事を、
家事や子育ての傍ら少しずつこなしてはいたのだが、
その日は、フリーランスとして意気揚々と再スタートする晴れ晴れしい日だった。

たとえ数時間でもビジネス社会に復帰するのだと、
ファッションも家庭着から、ほんの少しでもオフィスレディ風にコーディネイトして颯爽と家を出た。

打ち合わせ用の手帳にペンケース、電車で読む文庫本も揃えて、準備万端。
会社のある新大阪に到着し、スーツ姿のビジネスマンが急ぎ足で行き交う空間にすまして降り立った瞬間、
そこで初めて気がついた。
引っ張り出せば、押し入れのどこかに入っていたはずの書類入れを用意することなく、
無意識に用意し、手にしていたのは巾着型の布製のバッグだったのである。

「私は何を持ってんの?」
「こんな巾着じゃあ、原稿もしわくちゃになってしまう」
「第一、これってオムツ入れやん!」

2人の娘の子育てを始めて7年。
どっぷり育児空間にはまり込んでしまっていた自分が見えた気がして、スタートから落ち込んでしまった。
人はどんな生活をしていても、アンテナの張り方次第でどうにでもなるものとイキガっていた私。
タガが緩んで、それなりの暮らしに慣れてしまうと、知らず知らずのうちに、その枠で落ち着いてしまうのだ。 
                                             (つづく)
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土筆摘み(2)

2019-03-09 10:01:56 | エッセイ
その中でも忘れられないのが、ブドウ酒である。
私が5〜6歳の頃だったはず。ぶどうの最盛期を迎える頃、
母は顔見知りの八百屋さんで安く分けてもらった大量のぶどうを、夕食後の片付いたテーブルに広げた。
ぶどう酒作りとは言っても、作り方はシンプルそのもの。
ぶどうを皮ごとつぶして、発酵を待つだけなのだ。

人間が最初に酒を発見したのは、神話の時代だそうである。
狩猟時代に、山や野から果実を持ち帰り、積んでおいていたら自然に野生酵母が発酵して、
いい香りを放ち、酒が発見されたというのだから、わが家で作るブドウ酒もその程度の工程である。

とはいえ、本格的な赤ワインも、果皮や種ごとつぶして発酵させるのだから原理は同じだろう。
赤ワインの赤は皮の色素が溶け出したものだし、皮や種に含まれるタンニンが深い味わいの渋みも生み出す。
もちろんワインにふさわしいぶどうの品種が吟味され、
発酵のための適温や時間など微妙なプロの技はあるのだろうが、
基本の作り方は同じである。ただ、わが家のブドウ酒はワインと比べられるほど高尚でもなく、
当時は少々お酒が飲めた母にとって、だれに遠慮もなく飲めるもお楽しみのひとつだったのだろう。

母がぶどう酒作りに用意したのは、確か、2〜3枚の白い布巾とアルマイトの大きなボール。
ぶどうをザルに入れてよく洗い、水気を切ると、房からぶどう粒をはずし、布巾に広げてさらに水気を切った。
そのぶどう粒をボールにすべて移し、手のひらでぶどうを丹念に押しつぶしていくのである。
 
私は、このつぶす作業が粘土遊びのようでたまらなく面白かった。
あたりには、ぶどうの甘い香りが立ち込め、なぜかほんわか幸せ気分。
時々、手につくぶどうの汁をなめながら、
絞りたてのジュースをほんの少しコップに入れて飲ませてもらえるのが、何より嬉しかった。

今から思うと、その小さな幸せが何度もほしくて、眠い目をこすりながら、
母のそばを離れなかったのだろう。
母はぶどうをつぶし終えると、きれいな布巾でこして、
残りをていねいに絞り、貯蔵ビンにお玉で手際よく入れ替えた。
最後に新聞紙を折りたたんで蓋代わりにし、口の回りを白い紐で何重にも結わえると、
眠らせ発酵させるために地下室に運んだ。 

指し物師だった祖父が建てた実家には、貯蔵用の地下室があった。
かつての防空壕だったようだ。

父が仕事用に使っていた4畳半の部屋の下にあたる。その部屋につながる廊下の下が、
地下室の入り口用の引き戸になっており、その戸を開けると、5段程の板の階段で地下室に降りることができた。

また、その廊下も、地下室への降り口の幅だけ、上に上げられる設計で、大きい物の出し入れには、
廊下も引き上げられたままの状態になり、銀行の集金や仕事の打ち合わせで父のもとを訪れた客人たちは、
珍しい家の構造にかなりびっくりしていたものである。

地下室内の壁は基礎工事の石積みのままで、その石が棚の役目をしており、
石の棚には母の手作りの漬物や味噌類が所狭しと並んでいた。
一歩地下室に入るだけで、空気は地上よりヒヤッと冷たくて、
いくつもの漬物が混ざった特有の匂いがプーンとして、
子どもにはあまり心地いい場所ではなかった。
 
大雨の年には地下室にまで水が溜まったこともあったようだが、幼い頃、この地下室には何か悪魔か、
幽霊が潜んでいそうな気がして、私ひとりでは決して入れなかった場所である。
母の後をついて入っても、まず辺りを見回し、誰もいないことを確認せずにはいられなかった部屋。
兄がいたずらをして押し入れに入れられることがよくあったが、
「これ以上悪いことをしたら、今度は地下室に入れるぞ」という父の声に、
私は兄以上にゾッとしたものである。
 
ただ、その後、ぶどう酒がどう減っていったか、幼い私は気に留めることもなかった。
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