長尾和宏医師が原作の映画「痛くない死に方」の試写を観た。
人を診ることなく、カルテだけを見るようになった現代医療に警鐘を鳴らす映画、
そして、自分の最期をじっくり考えさせられる映画だ。
ストーリーは、
家族の病状が悪化し、
延命治療のない穏やかな最期を望んで在宅介護を望んだものの、
選んだ医師に「技量」がなく、とんでもない最期となる。
その在宅医が後悔の念にかられ、真の在宅医へと成長していく物語。
主演の柄本佑が、いい味を出している。
自分らしい最期を考えたい人には、観てほしい映画だと思う。
在宅医の技量の差は、
痛みを取る「緩和医療」や「過剰な治療をしない終末期」に大きく影響する。
医者選びがどれだけ大切かが伝わってくるのだ。
長尾和宏氏は、尼崎市の超安売りスーパー玉出の隣に建つ長尾クリニック院長。
開業以来、在宅医療に力を入れ、26年間で約1500人もを看取ってきた。
「終末期が穏やかなら、穏やかな最期につながる」と、
穏やかな看取り、つまり「平穏死」を提唱する医師である。
しかし、この平穏死をどれだけ主張しても、大病院の医師らには見向きもされなかった。
それが今回、高橋伴明監督によって映画化となった。
同時に公開となるドキュメンタリー「けったいな町医者」を観れば、
どちらが真実か明確になるだろう。
長尾医師は終末期の人々や不安を抱える家族に、分け隔てなく温かい笑顔で寄り添うのだ。
聴診器よりも、普段着のかけ声やふれあいで患者と接していく。
また、往診先の各家庭の着飾らない味わい深い光景。
多くの人たちは「こんな医者が本当にいるの?」と思うに違いない。
実は、長尾医師との共著がある。
本をまとめるにあったて往診に同行したことがあった。
医者の往診といえば、大抵は白衣で仰々しい。
ところが、長尾氏は正面の玄関ではなく、ベランダ側から「来たで! 長尾やで!」と入っていくような医者なのだ。
病気を診るだけでなく、その人の暮らしや介護する家族の生活まで診てアドバイスする。
気難しそうな独居の老人とは、帰りに「また来るから元気でいときや」と数分ハグをしていた。
まさに町医者。
もうおばあちゃんが死にそうと、親戚中が集まっている家に同行した時、
「お母さん、来たで!」「生きてるか!」と長尾医師が大きな声をかけると、
おばあちゃんは「はい」と答えて、ご家族を驚かせた。
「まだ、死んだらあかんで!」とさらに声かけすると、しっかりうなずいたおばあちゃん。
長尾医師は「まだ今日、明日ではなさそうやなあ」と家族に伝えていた。
私は、これが本来の看取りの光景なのだと思った。
多くの病院では、今も終末期の人であれ、回復が見込めない人であれ、延命治療が続いているのだろう。
過剰な治療は、「最善を尽くしました」という医師の言葉で美化されがちだが、
実は本人を苦しめているとはあまり知られていない。
たとえば、
衰弱してからの過剰な点滴は、心臓や腎臓に負担をかけて本人は苦しくなる。
鼻腔チューブなどを使った栄養補給は、チューブが苦しいだけでなく、胃腸の負担になる。
脱水症状だからと点滴をすると却って苦しむことになる。
等など、長尾医師から教えられた。
もし自分だったらどうしたいか。
できるだけ自宅で過ごしたいと思うが、自分の力だけではどうしようもない時期は必ず来る。
その時のために、夫や娘たちとよく話し合っておかなければ。
そして、
近隣で長尾医師のような在宅医を探さなければ。
それが難題だ……。
人を診ることなく、カルテだけを見るようになった現代医療に警鐘を鳴らす映画、
そして、自分の最期をじっくり考えさせられる映画だ。
ストーリーは、
家族の病状が悪化し、
延命治療のない穏やかな最期を望んで在宅介護を望んだものの、
選んだ医師に「技量」がなく、とんでもない最期となる。
その在宅医が後悔の念にかられ、真の在宅医へと成長していく物語。
主演の柄本佑が、いい味を出している。
自分らしい最期を考えたい人には、観てほしい映画だと思う。
在宅医の技量の差は、
痛みを取る「緩和医療」や「過剰な治療をしない終末期」に大きく影響する。
医者選びがどれだけ大切かが伝わってくるのだ。
長尾和宏氏は、尼崎市の超安売りスーパー玉出の隣に建つ長尾クリニック院長。
開業以来、在宅医療に力を入れ、26年間で約1500人もを看取ってきた。
「終末期が穏やかなら、穏やかな最期につながる」と、
穏やかな看取り、つまり「平穏死」を提唱する医師である。
しかし、この平穏死をどれだけ主張しても、大病院の医師らには見向きもされなかった。
それが今回、高橋伴明監督によって映画化となった。
同時に公開となるドキュメンタリー「けったいな町医者」を観れば、
どちらが真実か明確になるだろう。
長尾医師は終末期の人々や不安を抱える家族に、分け隔てなく温かい笑顔で寄り添うのだ。
聴診器よりも、普段着のかけ声やふれあいで患者と接していく。
また、往診先の各家庭の着飾らない味わい深い光景。
多くの人たちは「こんな医者が本当にいるの?」と思うに違いない。
実は、長尾医師との共著がある。
本をまとめるにあったて往診に同行したことがあった。
医者の往診といえば、大抵は白衣で仰々しい。
ところが、長尾氏は正面の玄関ではなく、ベランダ側から「来たで! 長尾やで!」と入っていくような医者なのだ。
病気を診るだけでなく、その人の暮らしや介護する家族の生活まで診てアドバイスする。
気難しそうな独居の老人とは、帰りに「また来るから元気でいときや」と数分ハグをしていた。
まさに町医者。
もうおばあちゃんが死にそうと、親戚中が集まっている家に同行した時、
「お母さん、来たで!」「生きてるか!」と長尾医師が大きな声をかけると、
おばあちゃんは「はい」と答えて、ご家族を驚かせた。
「まだ、死んだらあかんで!」とさらに声かけすると、しっかりうなずいたおばあちゃん。
長尾医師は「まだ今日、明日ではなさそうやなあ」と家族に伝えていた。
私は、これが本来の看取りの光景なのだと思った。
多くの病院では、今も終末期の人であれ、回復が見込めない人であれ、延命治療が続いているのだろう。
過剰な治療は、「最善を尽くしました」という医師の言葉で美化されがちだが、
実は本人を苦しめているとはあまり知られていない。
たとえば、
衰弱してからの過剰な点滴は、心臓や腎臓に負担をかけて本人は苦しくなる。
鼻腔チューブなどを使った栄養補給は、チューブが苦しいだけでなく、胃腸の負担になる。
脱水症状だからと点滴をすると却って苦しむことになる。
等など、長尾医師から教えられた。
もし自分だったらどうしたいか。
できるだけ自宅で過ごしたいと思うが、自分の力だけではどうしようもない時期は必ず来る。
その時のために、夫や娘たちとよく話し合っておかなければ。
そして、
近隣で長尾医師のような在宅医を探さなければ。
それが難題だ……。