昔、一緒に仕事をさせてもらった人の訃報が突然舞い込んできた。
6歳上のイラストレーターの女性。
一番に思い出したのが、
お酒が似合って、いつもガハハと大きな声で笑う人だった、そんな光景。
美味しいものが好きで、すべて講釈付き。
黒門市場でふぐの買い方から、ポン酢の選び方、食べる順番まで、それはうるさかった。
いわゆる鍋奉行だ。
丹波の猪鍋、近江八幡ですき焼きを食べつつの屋形船、京都の〇〇の湯豆腐……、
「どや、ええやろ、美味しいやろ」とドヤ顔で教えてもらった。
他にも、上級者向けの映画や舞台に誘ってもらったり、
一緒にお酒を飲んだり、大笑いしながらいっぱいしゃべったり。
その女性がしばらく暮らしていたニューヨークへの旅に連れて行ってもらったことも。
それは私にとって子どもたちを残しての、初めての海外旅行だった。
2年ほど前に電話して、「またランチしましょね」と話したのが最後。
ご両親は早くに他界され、ずっとシングルでお付き合い仲間がいっぱいの暮らし。
最期は従姉妹さんが「身内だけで小さなお別れ会をするので、
それでもよかったらご参加ください」という会に行かせてもらった。
葬儀といえば、親族以外では義理で参加させてもらうことが多い。
「お世話になったんだから」「あの方も行かれるんやし」と。
でも、彼女のお別れ会には、
どうしてもお顔を見て「ありがとう」と言いたい、
そういう人たちだけが参加されていたのだと思う。
私は、彼女が「わー、素敵やん!」と言ってくれそうな、
白と紫と黄緑色のお花を選んで花束にしてもらった。
遺影も、お経もない、何の演出もない小さな家族葬。
「私、彼女とニューヨークでアパートをシェアしてたの。本当に楽しかった時代!」
「いつも寄席に誘われました」
「いろんな仕事、一緒にしてきたんです」
「お花見にいろんな名所に連れて行ってもらったよね」
それぞれが口々に彼女とのやさしい思い出を語って、
温かい静かな空気が流れていた。
予期しない死を迎えて、
それぞれの時代に共に生きて来た人ちと別れとはこういうものなのか。
言葉では表せない、物言わぬ人との突然の対面と別れ。
それでも何かその人と繋がろうとするやさしい空気が流れていて、
その人らしいお見送り方だなあとしみじみ感じた。
ありがとうございました!
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