1 日本書紀は「百済と倭は盟友関係にあった」とするが、倭と盟友関係にあったのは新羅であった。倭は間違いなく鳥取県中部なので、鳥取県中部に一番近いところに新羅は建国された。
新羅は紀元前57年に、稲飯命が建国し、その後も、天之日矛が新羅から但馬国に渡来し新羅の第4代王として但馬国から脱解が行く、など、倭国や但馬国と親戚である。天武天皇のころまで倭国と新羅は兄弟国として強い信頼関係にあった。以前にも書いたように、百済と高句麗は兄弟国であり、強奪することに喜びを感じる民族である。倭国歴史書原本には百済が強奪や妨害をしたと書いてあった。日本書紀を創作するときに、百済史官は倭国歴史書原本を見ながら百済と新羅を入れ替えた。
そもそも、自国の歴史書を造るのに、「一書に曰く」などという他所から来た者が書くような無責任な記述はしない。天武天皇の命によって造られた歴史書は原古事記である。原本はもっと膨大であったはずである。その古事記にしても藤原氏のもとに在った400年の間に、日本書紀に合うように(整合するように)改ざん・改悪・削除している。
九州の方は日本書紀によって宮崎県を天孫降臨の地にしてもらったなどの関係で、日本書紀の信奉者が多いが、そのよってたつ日本書紀がそもそも史実と違うことが書いてある、ということである。
2 日本書紀の中で改ざん創作(特に百済と新羅を入れ替えている)されていると思われる部分を挙げてみました。元の記述はカッコ内であった。
イ 垂仁紀2年是歳条
崇神天皇の65年に朝貢してきた任那の使いが国へ帰るというので、絹織物を持たせたら途中で新羅(百済)に奪われた。別の伝承では「崇神天皇の御世に、大加羅国(全羅南道4県の任那)の王子・都怒我阿羅斯等が来朝した。垂仁天皇の御世になって国へ帰るというので、天皇は「大加羅国(全羅南道4県の任那)は崇神天皇の名をとって任那とせよ。とおっしゃられて絹織物を持たせた。新羅人(百済人)がそれを奪った」という。
※ 百済は金品を強奪することに喜びを感じる扶余族である。絹織物を奪ったのは百済である。
ロ 神功皇后摂政紀47年4月条
百済と新羅が同時に朝貢してきた。新羅(百済)の貢物は多く、百済(新羅)の貢物は少なかったのでわけを聞くと、日本(倭)に来る途中で百済(新羅)の貢物を新羅(百済)が奪ったという。皇后と誉田別尊は使いをお出しになって新羅(百済)を責めた。
ハ 応神紀14年是歳条
秦氏の祖先といわれる弓月君が来朝して言うには、「百済(北方)から多くの人民を連れてきたが、新羅(百済)の妨害にあって加羅国(全羅南道の任那)から日本(倭)に来ることが出来ない。」と言う。
※ 百済から出港して北九州に上陸すれば新羅は妨害することはできない。そうではなく、渡来ルートは百済→全羅南道の任那→加羅国→新羅から船で倭国(鳥取県中部)であっった。弓月君を妨害したのは百済であった。
ニ 応神紀16年8月条
天皇は、「襲津彦が帰ってこないのは、新羅(百済)が妨害しているからである。」として、新たに将軍を加羅(全羅南道の任那)に派遣した。将軍は新羅(百済)との国境まで進軍して新羅(百済)を防ぎ、弓月が連れてきた百済(北方)の人民を連れ、襲津彦と共に日本(倭)に戻った。
※ ハで述べたように弓月君を妨害していたのは百済である。
ホ 仁徳紀53年5月条
新羅(百済)が朝貢しないので兵を出して討った。
※ 盟友関係にある新羅を倭国が討つことはない。
ヘ 雄略紀7年是歳条
天皇は、吉備の臣田狭を任那国司に任命し、田狭が留守の間に彼の妻をお召し上げになった。田狭は恨んで新羅(百済)に通じた。その頃、新羅(百済)と日本(倭)は不和であった。天皇は新羅(百済)討伐に田狭の子を差し向けられた。
※ 盟友関係にある新羅を倭国が討つことはない。百済は高句麗につく事があったので、そのときは倭国と不和になった。
ト 雄略紀9年3月条
天皇は、「新羅(百済)は今まで朝貢を欠かした事がなかったのに、自分が王となってからは高麗の我が国への朝貢を妨害し、百済(新羅)を攻め、我が国への朝貢もしなくなった。新羅(百済)を討て。」とおっしゃって、4人の将軍を派遣された。
※ 高句麗百済が本当に朝貢していたなら自国から船を出し、北部九州に上陸すれば、新羅は妨害できない。新羅と百済を入れ替えているからこのような矛盾が生じる。
3 その他
◎応神天皇7年(361年)百済人・任那人らが来て韓人池を造った。
※ 百済人の元は新羅人であった。百済人は扶余族だから労働力の提供はしない。
◎応神天皇25年(379年)25年の条は『百済記』の引用である。
※ 神功皇后62年と重複する。この年襲津彦(応神天皇)は新羅に行った。
◎神功皇后9年(326年?)・新羅出兵において、「高麗、百済2国の王は陣の外に出て頭を下げて『今後は永く西蕃と称して、朝貢を絶やしません』といった。それで内官家屯倉を定めた」とある。
※ 新羅を攻撃した事自体作り話だから、この部分は信用できない。高麗、百済2国は妨害する国なので攻撃したはずである。
◎神功皇后46年(361年)斯摩宿禰は卓淳国から百済にいった。
※ 百済は新羅・倭国を乗っ取るために高句麗が346年に建国した。建国から15年後に作戦を開始した。
◎神功皇后47年(362年)百済が初めて朝貢した。新羅人は百済と新羅の貢物を入れ替えた。
※ 最初に貢物を与え、おだてておいて、後で奪い取る六韜の戦術である。
◎神功皇后49年(364年)
※ 新羅再征とあるが、これは倭国ではなく高句麗と百済が卓淳国に集まり新羅を討ち破った。後ろにいたのは高句麗であった。百済の朝貢品を新羅が奪ったからというのは後の創作と思われる。
◎神功皇后52年(369年)百済は七枝刀などを奉った。
◎神功皇后62年(379年)新羅(百済)が朝貢しなかった。襲津彦を新羅(百済)に遣わしたが、新羅王(百済王)に美女2人を差し出された。
※ 六韜に基づく行為と思われる。
◎雄略天皇8年(463年)の記事では「日本府行軍元帥」の文字がみえ、倭の五王の三韓における軍事指揮権との関係が推察される。
※ 「倭府行軍元帥」を書き換えたものと思われる。日本(百済)という国号は669年に天智が近江で考えた国号である。遡って使用している。
◎雄略天皇9年(464年)、新羅(百済)討伐「狼のような荒い心があって、飽きると離れ去り、飢えると近づいてくる。王師をもって攻め討ち天罰を加えよ」といわれた。
※ 倭王武の官号より雄略天皇は、高句麗・百済と敵対していた。不比等・百済史官は「百済」とあったのを「新羅」に書き換えている。雄略が再興した国は新羅であった。百済の攻撃によって累卵の危うき状態になっていた国は新羅であった。
◎雄略天皇21年(476年)、「百済国(新羅国)は一族すでに亡んで、倉下にわずかに残っていたのを、天皇の御威光により、またその国(新羅国)を興した」といった。
※ 雄略天皇がまた百済国を興したのなら、百済は倭国に頭が上がらないはずだが。雄略天皇が興した国とは新羅国であった。反正、允恭、安康の時代、新羅は累卵の危うき状態になっていた。反正、允恭の帝紀・旧辞はヒントが見つからないくらい大幅に改ざんされている。
◎雄略天皇23年(479年)、「筑紫の安致臣・馬飼臣らは船軍を率いて高麗を討った」とある。
※ ここは改ざんされていないと思われる。
◎継体天皇21年(527年)の条は「磐井の乱」に絡んでの記事である。
※ 倭の軍を踏みとどまらせるために、賄賂を贈ったのは百済である。賄賂を贈るのは六韜に基づく行為である。
◎継体天皇23年(529年)、加羅国の多沙津(帯沙江)を百済がいただきたいといった。加羅の王は苦言を呈した。「新羅は刀伽・古跛・布那牟羅の3つの城をとり、また北の境の5つの城もとった」とある。
※ 近江毛野の派遣の条は改ざん無しと思われる。「詔して新羅に勧め、南加羅・㖨己吞を再建させようとした」とある。
※ 任那王が大伴大連金村に「・・・新羅は・・・」と言った「新羅」は原古事記では「百済」であった。新羅は多々羅・須那羅・和多・費智の4村を掠め取ったとするが、百済から取り返したと思われる。
◎継体天皇24年(530年)にも金官加羅の滅亡の前後をめぐる詳しい伝承がある。
※ 冬10月調吉士は奏上して「・・・加羅を・・・」は「・・・任那を・・・」である。
◎継体天皇25年(531年)、百済本記には「高麗は安羅に至り、安羅王を殺した。また、倭の天皇・皇太子・皇子皆死んだ」と。
※ 倭国の王はこの頃、戦の最前線で戦っていた。倭国王は戦死することがよくあった。
◎欽明天皇の段。
※ 欽明天皇の段は百済と新羅の入れ替えが特に多い。欽明天皇は百済王であり、この時の倭国王は蘇我稲目大王であった。原文の「新羅」を日本書紀では「百済」に入れ替えているため、原文の「新羅王」も「百済王」と入れ替えた。百済の聖明王(在位523~554)は、原文では新羅の法興王(在位514~540)であった。詳しくは別稿「日本書紀・欽明天皇の段の「百済」と「新羅」は入れ替えられている」を参照されたし。
4 私見
日本書紀を制作したのは、不比等と百済史官であった。百済系2世の藤原不比等と亡命百済史官である。彼らは原古事記を見て百済の悪行を改ざんすることを考えた。自分の母国を悪く書かれていて、改ざん出来る立場にあるなら改ざんするのは人間の本能である。母国を悪く書かれないために、新羅と入れ替えることを考えた。それが現在の日本書紀である。
倭国は鳥取県中部にあり、新羅から人力船で出港しても1日余りで到着する。紀元前57年から新羅と倭国は兄弟国(盟友関係)であった。