日本書紀・嶋王(武寧王)誕生において「6年春2月4日、天皇は泊瀬の小野に遊ばれた。山野の地形をご覧になり、深く感慨をもようされ歌われた。泊瀬の山は、体勢の見事な山である。山の裾も形の良い山である。泊瀬の山は、何とも言えず美しい。何とも言えず美しい。そこで名づけて道小野といった」とある。
1 奈良県桜井市の初瀬山について
雄略天皇の歌った泊瀬山は奈良では桜井市長谷寺の裏にある初瀬山であるとする。
奈良県桜井市の初瀬山(はせやまと言ったりはつせやまと言ったりいい加減である)。
ある方は「真北から30度ほど東を見ると、龍王山(585m)、その支峰の穴師山(409m)、龍王山に連なる巻向山(565m)、巻向山の支峰である三輪山(467m)がある。その奥にあるのは初瀬山だと思う」とされる。
また「泊瀬山は固有の山の名ではなく、桜井市初瀬を囲む山々のことである」とする方もいる。
※ 私見
桜井市長谷寺の裏にある初瀬山は人気がない。私もどれが初瀬の山なのかわからなかった。このような山を雄略天皇がわざわざ歌に詠むはずはない。山の体勢など全く分からない。本当の泊瀬(長谷)の山は鳥取県倉吉市の打吹山と思われる。
また「泊瀬山は固有の山の名ではなく、桜井市初瀬を囲む山々のことである」とする方もいる。
※ 私見
桜井市長谷寺の裏にある初瀬山は人気がない。私もどれが初瀬の山なのかわからなかった。このような山を雄略天皇がわざわざ歌に詠むはずはない。山の体勢など全く分からない。本当の泊瀬(長谷)の山は鳥取県倉吉市の打吹山と思われる。
「泊瀬の山は体勢の見事な山である。山の裾も形の良い山である。泊瀬の山は、何とも言えず美しい」とする山は倉吉市の打吹山であった。遠くに見えるのは蒜山(高天原)でありその向こうは吉備国である。藤原氏は湯梨浜町羽衣石にあった羽衣伝説をこちらに持ってきて「打吹山」と名付けた。天皇がいたことを隠すためである。倉吉も石上神宮(倉)にあった武器が良(吉)かったので「倉吉」と名付けた。
2 長谷寺について(ウィキペディアより)
(1) 奈良県桜井市の長谷寺(はせでら)(全国長谷寺の総本山)
長谷寺の創建は奈良時代、8世紀前半と推定されるが、創建の詳しい時期や事情は不明である。寺伝によれば、天武朝の朱鳥元年(686年)、僧の道明が初瀬山の西の丘(現在、本長谷寺と呼ばれている場所)に三重塔を建立、続いて神亀4年(727年)、僧の徳道が東の丘(現在の本堂の地)に本尊十一面観音像を祀って開山したというが、これらのことについては正史に見えず、伝承の域を出ない。
(2) 鳥取県倉吉市の長谷寺 (ちょうこくじ)
「伯耆民談記」等に伝える寺伝によれば、奈良時代の養老5年(721年)、法道を開山として創建されたという。当初は長谷(ながたに)村(現・倉吉市長谷、長谷寺の西方)にあり、後に現在地に移されたという。草創の詳しい事情や中世までの沿革は判然としないが、中世には禅宗寺院であった。堂には重要文化財に指定の厨子内に秘仏の本尊木造十一面観音菩薩坐像を安置する。
3 私見
奈良県桜井市では「はせでら」と言い、鳥取県倉吉市では「ちょうこくじ」と読ませる。「伯耆民談記」は信用できるので、創建の詳しい事情は判然としなくとも721年の創建は間違いないものと思われる。総本山のほうが創建が新しいのは嘘になってしまうから、寺伝で686年の創建の伝承を作った。倉吉の長谷寺は「ちょうこくじ」と読ませて別の寺のようにしているが、十一面観音菩薩坐像を本尊にしているので同じ系列の寺として作っているはずである。創建時は「はせでら」といっていたと思われる。
藤原氏は桜井市の一帯を日本書紀にある「泊瀬」のテーマパークとした。泊瀬朝倉宮も造らなければならなかった。白山神社をその宮跡とした。ウィキペディアには「その所在地は考古学的には確定していない。宮の場所については古くから2つの説があり、『帝王編年記』などは磐坂谷(桜井市岩坂)、『大和志』などは天の森(桜井市黒崎)とするが、立地条件などから、どちらの場所も宮の所在地としては疑問視されている。黒崎の白山神社境内にも「泊瀬朝倉宮伝承地」の碑がある。」とある。
2 長谷寺について(ウィキペディアより)
(1) 奈良県桜井市の長谷寺(はせでら)(全国長谷寺の総本山)
長谷寺の創建は奈良時代、8世紀前半と推定されるが、創建の詳しい時期や事情は不明である。寺伝によれば、天武朝の朱鳥元年(686年)、僧の道明が初瀬山の西の丘(現在、本長谷寺と呼ばれている場所)に三重塔を建立、続いて神亀4年(727年)、僧の徳道が東の丘(現在の本堂の地)に本尊十一面観音像を祀って開山したというが、これらのことについては正史に見えず、伝承の域を出ない。
(2) 鳥取県倉吉市の長谷寺 (ちょうこくじ)
「伯耆民談記」等に伝える寺伝によれば、奈良時代の養老5年(721年)、法道を開山として創建されたという。当初は長谷(ながたに)村(現・倉吉市長谷、長谷寺の西方)にあり、後に現在地に移されたという。草創の詳しい事情や中世までの沿革は判然としないが、中世には禅宗寺院であった。堂には重要文化財に指定の厨子内に秘仏の本尊木造十一面観音菩薩坐像を安置する。
3 私見
奈良県桜井市では「はせでら」と言い、鳥取県倉吉市では「ちょうこくじ」と読ませる。「伯耆民談記」は信用できるので、創建の詳しい事情は判然としなくとも721年の創建は間違いないものと思われる。総本山のほうが創建が新しいのは嘘になってしまうから、寺伝で686年の創建の伝承を作った。倉吉の長谷寺は「ちょうこくじ」と読ませて別の寺のようにしているが、十一面観音菩薩坐像を本尊にしているので同じ系列の寺として作っているはずである。創建時は「はせでら」といっていたと思われる。
藤原氏は桜井市の一帯を日本書紀にある「泊瀬」のテーマパークとした。泊瀬朝倉宮も造らなければならなかった。白山神社をその宮跡とした。ウィキペディアには「その所在地は考古学的には確定していない。宮の場所については古くから2つの説があり、『帝王編年記』などは磐坂谷(桜井市岩坂)、『大和志』などは天の森(桜井市黒崎)とするが、立地条件などから、どちらの場所も宮の所在地としては疑問視されている。黒崎の白山神社境内にも「泊瀬朝倉宮伝承地」の碑がある。」とある。
桜井市岩坂である。
白山神社である。
白山神社にある案内板「が立地的に見て、宮を営むのに適地ではない」とある。
私は、立地条件(葛城山や久米川や長谷山の登り口の存在、長谷寺は打吹山の中腹にあること)などから、泊瀬朝倉宮跡を倉吉市長谷寺の地に比定している。藤原氏はそれを隠すために読み方を変えさせたり、寺伝で創建年を古くしたりしている。つじつま合わせ(整合)をしているが、最後に泊瀬の山は造ることができなかった。
初瀬から少し下った出雲の十二柱神社に「武烈天皇泊瀬列城宮跡」の石碑を造った。
また長谷寺の近くに一言主が見送ってくれた長谷山口坐神社を造った。由緒では「長谷山」の「口」神社ではなく、「長谷」の「山口」神社という、とする。苦しい説明である。
これらはみな倭国(鳥取県中部)を乗っ取ってから藤原氏が造った「泊瀬(初瀬)」というテーマパークである。泊瀬(長谷)の本物は鳥取県倉吉市中心市街地であった。
私は、立地条件(葛城山や久米川や長谷山の登り口の存在、長谷寺は打吹山の中腹にあること)などから、泊瀬朝倉宮跡を倉吉市長谷寺の地に比定している。藤原氏はそれを隠すために読み方を変えさせたり、寺伝で創建年を古くしたりしている。つじつま合わせ(整合)をしているが、最後に泊瀬の山は造ることができなかった。
初瀬から少し下った出雲の十二柱神社に「武烈天皇泊瀬列城宮跡」の石碑を造った。
また長谷寺の近くに一言主が見送ってくれた長谷山口坐神社を造った。由緒では「長谷山」の「口」神社ではなく、「長谷」の「山口」神社という、とする。苦しい説明である。
これらはみな倭国(鳥取県中部)を乗っ取ってから藤原氏が造った「泊瀬(初瀬)」というテーマパークである。泊瀬(長谷)の本物は鳥取県倉吉市中心市街地であった。