新自由主義の考え方は、
自由を重視する
ため、
国家の関与を最小限にする
ものです。
これは、強者にとっては都合のよい考え方になります。
他方、弱者保護を重視し、
平等を強調する
と、
平等を実現するためには強大な国家権力(官僚組織)が必要となる
ため、
必然的に行政国家現象
を招きます。
ソ連も中国も
共産党の一党独裁体制であったこと
からも、分かります。
共産主義を実現するため、
官僚は自分たちが唯一絶対の正義とみなします。
その官僚組織を維持するために、
他者には不寛容であり、強い制裁を課す。
共産主義を実現する唯一の組織を守ることが正義だからです。
そして、
国民の平等を目指していたはずなのに、
官僚組織は肥大化し、
組織の幹部は富を得て、国民は貧しい
という状況を生み出します。
ただ、多くの国民は貧しくも、平等であるので、
平等という理念は実現している。
貧しいことに腹を立てた国民が、
官僚組織を破壊する
ことがないように、
監視を強化し、
二度と逆らわないように見せしめのため厳罰に書する。
監視社会と司法へが関与はセットになっています。
共産主義は、
組織内部でも権力を持たない者は迫害されやすい。
そのことを自覚しているため、
権力闘争が激しくなる
というわけです。
そんな共産主義社会より、
多くの国民にとっては、努力した者が豊かになれる
という自由主義の方が望ましい。
ただ、
自由主義も行き過ぎる傾向がある
ため、
修正して、富をうまく配分し、みんなが幸せになれるようにする
必要がある。
ここで、
功利主義の理念
が入ってくるわけです。
修正資本主義は、
資本主義に、福祉主義を加えることで、みんなが幸せになれるようにしよう
というものです。
おそらく、修正資本主義の概念が正しいことについては、
多くの人が納得する
はずです。
修正の道具として用いられるのが、
税と法律
です。
税は、豊かな人に税金を課して、貧しい人を助ける。
法律は、豊かな人が力を濫用することを防止したり(独禁法)、
貧しい人でも豊かになれるような機会を与えるために役立つ(教育制度)。
問題は、
どの程度の修正を加えるか
という点。
あまり修正をしなければ、自由主義と変わらない、弱肉強食の世界になる
修正を加えすぎると、共産主義と変わらない、国家権力に統制された自由のない世界になる。
ここで、
ロールズの無知のヴェール。
自分の境遇をヴェールで覆い、分からない状態で、判断する。
つまり、
自分が豊かであるか、貧しいか、若いか、年老いているか
有能であるか、そうでないのか
個人の情報が全く分からない状態で、
制度を制定する
のであれば、
自分が恵まれない環境であることを前提に、制度を制定する
ことになるため、
正義に適う判断ができる
ということ。
今はお金を稼ぐ能力を持ち、実際に稼いでいたとしても、
事業が破綻し、無一文になったり、
病気で働けなくなったり
老いて判断能力を失ったり
します。
そのときに、
福祉制度って重要なんだな
と実感することになります。
最初は、新自由主義が重要だと確信していても、
弱者の立場に立って世界を見たときに、自分の正義が間違っていた
と思い知らされる可能性があるわけです。
このような弱者の立場に立って、
制度を見る
ということは、
無知のヴェールをかぶって判断する
ことで実現できるわけです。
生活保護で暮らしていた人が宝くじが当たって1億円を手にしたものの、
数%の資産税が制定されて、預金にも税金がかかるようになり、数百万円ずつ減っていく
という経験した場合、
税金、取り過ぎだろ
と思うようになるはずです。
今まで受け取る立場だったのが、与える立場に立ったからです。
女性は、就職や昇進、キャリア形成で不利だと実感しつつも、
子供を産んで育てる経験ができて本当によかったと実感する人もいる。
男性も、責任が重いし、プレッシャーが多いとか思いながらも、
バリバリ働けるから、女性でなくてよかったと思っている人もいる。
結婚して、家族と一緒でよかったという人もいれば、
煩わしさがなく、お金も余裕があって、人生を1人でも楽しめるので独身でよかったという人もいる。
結局、いろいろな人がいて、いろいろな価値観をもち、いろいろな環境の中で、
それぞれ、よい面も煩わしい面も持ちながら、生きているというわけです。
いろいろな人のいろいろな面を理解しつつ、
自分がどんな立場だったとしても、まぁ、この程度の規制なら、受け入れられるかな
という
絶妙なバランスを取る
のが、
正義である
というわけです。
この程度の規制なら受け入れられるかな
という感覚は、
時代やそのときの財政状況などによっても変わってくる
ことになります。
かつては、
クーラーは贅沢品
という時代があったので、
生活保護者はクーラーを設置してはいけない
ということになっていました。
今から考えると考えられないわけです。
オフィスでの喫煙は当たり前の時代もあったくらいですから、
時代の感覚は変わっていく
ということです。
ただ、
メディアもSNSも、絶対的な正義を押しつける
傾向が強くなっています。
不寛容の時代になりつつあるということです。
いろいろな人がいるのだから、
あまりにも厳しい基準を設定する
と、
息苦しい時代になってしまいます。
喫煙の場合では、
オフィスで吸うというのは迷惑がかかる
ものの、
喫煙スペースをなくす
というのは、
行きすぎなような気がします。
最近では、建物内の喫煙スペースも、消えつつあります。
これは、
たばこを吸わない人が増えている
ため、
喫煙者の視点が欠けるようになっている
ためです。
無知のヴェールをかぶって、自分が喫煙者だったら、
ちょっと、やり過ぎだよな
と思うはず。
無知のヴェールの意識がないと、どうしても多数派の見解が
「正義」を決めてしまう
ということになります。
現在は、たばこを吸わないことが正義であり、
喫煙者は周囲の健康を害する悪である
というわけです。
僕はたばこを吸いませんが、行きすぎた規制は、
自由を侵害するリスクを孕んでいる
ので、
否定的な意見
を持っています。
たばこを吸わない人の強行意見は、
健康を害するから、規制すべきだ
ということになります。
ただ、こういう理論で規制が進むと、
将来はお酒も規制の対象となるリスクがあります。
IARC(国際がん研究機関)では、
アルコール飲料は、発がん性があり、
肝臓がん、口腔咽喉がん、喉頭がん、食道がん、
結腸がん、直腸がん、乳がんと関係している
という報告があります。
飲酒運転による死亡事故や、
アルコールによる暴行事件もあり、
アルコールに対する批判的な意見が多数派になる
と、
規制がどんどん進むおそれがある
わけです。
お酒が楽しみであるという人にとっては、
発がん性が認められても、晩酌をする自由を奪わないでくれ
と思うはず。
よりよい社会を作るためには、
いろいろな人がいることを念頭に、
みんな幸せに感じることは異なるのだから、
できる限り自由を認めようという寛容さが不可欠だと思います。
まぁ、いろいろな意見があるよね
そういう考え方もできるよね
それは、言い過ぎだけど、まぁ、目くじら立てて起こることでもないよね
この程度の規制なら、みんな妥協できるよね
その判断を
無知のヴェールをかぶって、自分がどの立場か分からない状態を想像して判断する。
この想像力と寛容性。
これを失うと、
共産主義者が自分の考えに反対する勢力を根絶やしする
のと同じように、
「暴力」でしか物事が解決しなくなる
わけです。
これが、
中国共産党が大多数の人が貧しい生活を送っていると認めながらも、
南シナ海に軍事費を使いまくっている
理由です。
話しても分からない人には、武力で対抗するしかないわけですが、
日本国内の同じ日本人であれば、もうちょっと寛容性があってもいい
と思います。
SNSの炎上や、批判ばかりで建設的な意見のないメディア、
反政府運動の活動家のような野党議員
等を見ると、その思いが強くなります。
特に、国会議員は
日本をよりよい社会にしたい
という目的は一致しているはずです。
あとは、手段を議論するだけなので、
無知のヴェールをかぶって、「正義」の選択をする
ことで、今よりよい社会につながるはずです。
日本国民しか、投票権がなく、
国会議員は、日本国民でなければなれないのは、
日本がよりよい社会になって、
日本国民が幸せに暮らせるようにする役割を担っている
からです。
隣国にどう思われるかというようなことは
判断要素にはなりえない
わけです。
敵地にあるミサイル発射台を攻撃することが、
日本国民の平和な暮らしを守るのであれば、徹底的に行うべきである
ということになります。
自由を重視する
ため、
国家の関与を最小限にする
ものです。
これは、強者にとっては都合のよい考え方になります。
他方、弱者保護を重視し、
平等を強調する
と、
平等を実現するためには強大な国家権力(官僚組織)が必要となる
ため、
必然的に行政国家現象
を招きます。
ソ連も中国も
共産党の一党独裁体制であったこと
からも、分かります。
共産主義を実現するため、
官僚は自分たちが唯一絶対の正義とみなします。
その官僚組織を維持するために、
他者には不寛容であり、強い制裁を課す。
共産主義を実現する唯一の組織を守ることが正義だからです。
そして、
国民の平等を目指していたはずなのに、
官僚組織は肥大化し、
組織の幹部は富を得て、国民は貧しい
という状況を生み出します。
ただ、多くの国民は貧しくも、平等であるので、
平等という理念は実現している。
貧しいことに腹を立てた国民が、
官僚組織を破壊する
ことがないように、
監視を強化し、
二度と逆らわないように見せしめのため厳罰に書する。
監視社会と司法へが関与はセットになっています。
共産主義は、
組織内部でも権力を持たない者は迫害されやすい。
そのことを自覚しているため、
権力闘争が激しくなる
というわけです。
そんな共産主義社会より、
多くの国民にとっては、努力した者が豊かになれる
という自由主義の方が望ましい。
ただ、
自由主義も行き過ぎる傾向がある
ため、
修正して、富をうまく配分し、みんなが幸せになれるようにする
必要がある。
ここで、
功利主義の理念
が入ってくるわけです。
修正資本主義は、
資本主義に、福祉主義を加えることで、みんなが幸せになれるようにしよう
というものです。
おそらく、修正資本主義の概念が正しいことについては、
多くの人が納得する
はずです。
修正の道具として用いられるのが、
税と法律
です。
税は、豊かな人に税金を課して、貧しい人を助ける。
法律は、豊かな人が力を濫用することを防止したり(独禁法)、
貧しい人でも豊かになれるような機会を与えるために役立つ(教育制度)。
問題は、
どの程度の修正を加えるか
という点。
あまり修正をしなければ、自由主義と変わらない、弱肉強食の世界になる
修正を加えすぎると、共産主義と変わらない、国家権力に統制された自由のない世界になる。
ここで、
ロールズの無知のヴェール。
自分の境遇をヴェールで覆い、分からない状態で、判断する。
つまり、
自分が豊かであるか、貧しいか、若いか、年老いているか
有能であるか、そうでないのか
個人の情報が全く分からない状態で、
制度を制定する
のであれば、
自分が恵まれない環境であることを前提に、制度を制定する
ことになるため、
正義に適う判断ができる
ということ。
今はお金を稼ぐ能力を持ち、実際に稼いでいたとしても、
事業が破綻し、無一文になったり、
病気で働けなくなったり
老いて判断能力を失ったり
します。
そのときに、
福祉制度って重要なんだな
と実感することになります。
最初は、新自由主義が重要だと確信していても、
弱者の立場に立って世界を見たときに、自分の正義が間違っていた
と思い知らされる可能性があるわけです。
このような弱者の立場に立って、
制度を見る
ということは、
無知のヴェールをかぶって判断する
ことで実現できるわけです。
生活保護で暮らしていた人が宝くじが当たって1億円を手にしたものの、
数%の資産税が制定されて、預金にも税金がかかるようになり、数百万円ずつ減っていく
という経験した場合、
税金、取り過ぎだろ
と思うようになるはずです。
今まで受け取る立場だったのが、与える立場に立ったからです。
女性は、就職や昇進、キャリア形成で不利だと実感しつつも、
子供を産んで育てる経験ができて本当によかったと実感する人もいる。
男性も、責任が重いし、プレッシャーが多いとか思いながらも、
バリバリ働けるから、女性でなくてよかったと思っている人もいる。
結婚して、家族と一緒でよかったという人もいれば、
煩わしさがなく、お金も余裕があって、人生を1人でも楽しめるので独身でよかったという人もいる。
結局、いろいろな人がいて、いろいろな価値観をもち、いろいろな環境の中で、
それぞれ、よい面も煩わしい面も持ちながら、生きているというわけです。
いろいろな人のいろいろな面を理解しつつ、
自分がどんな立場だったとしても、まぁ、この程度の規制なら、受け入れられるかな
という
絶妙なバランスを取る
のが、
正義である
というわけです。
この程度の規制なら受け入れられるかな
という感覚は、
時代やそのときの財政状況などによっても変わってくる
ことになります。
かつては、
クーラーは贅沢品
という時代があったので、
生活保護者はクーラーを設置してはいけない
ということになっていました。
今から考えると考えられないわけです。
オフィスでの喫煙は当たり前の時代もあったくらいですから、
時代の感覚は変わっていく
ということです。
ただ、
メディアもSNSも、絶対的な正義を押しつける
傾向が強くなっています。
不寛容の時代になりつつあるということです。
いろいろな人がいるのだから、
あまりにも厳しい基準を設定する
と、
息苦しい時代になってしまいます。
喫煙の場合では、
オフィスで吸うというのは迷惑がかかる
ものの、
喫煙スペースをなくす
というのは、
行きすぎなような気がします。
最近では、建物内の喫煙スペースも、消えつつあります。
これは、
たばこを吸わない人が増えている
ため、
喫煙者の視点が欠けるようになっている
ためです。
無知のヴェールをかぶって、自分が喫煙者だったら、
ちょっと、やり過ぎだよな
と思うはず。
無知のヴェールの意識がないと、どうしても多数派の見解が
「正義」を決めてしまう
ということになります。
現在は、たばこを吸わないことが正義であり、
喫煙者は周囲の健康を害する悪である
というわけです。
僕はたばこを吸いませんが、行きすぎた規制は、
自由を侵害するリスクを孕んでいる
ので、
否定的な意見
を持っています。
たばこを吸わない人の強行意見は、
健康を害するから、規制すべきだ
ということになります。
ただ、こういう理論で規制が進むと、
将来はお酒も規制の対象となるリスクがあります。
IARC(国際がん研究機関)では、
アルコール飲料は、発がん性があり、
肝臓がん、口腔咽喉がん、喉頭がん、食道がん、
結腸がん、直腸がん、乳がんと関係している
という報告があります。
飲酒運転による死亡事故や、
アルコールによる暴行事件もあり、
アルコールに対する批判的な意見が多数派になる
と、
規制がどんどん進むおそれがある
わけです。
お酒が楽しみであるという人にとっては、
発がん性が認められても、晩酌をする自由を奪わないでくれ
と思うはず。
よりよい社会を作るためには、
いろいろな人がいることを念頭に、
みんな幸せに感じることは異なるのだから、
できる限り自由を認めようという寛容さが不可欠だと思います。
まぁ、いろいろな意見があるよね
そういう考え方もできるよね
それは、言い過ぎだけど、まぁ、目くじら立てて起こることでもないよね
この程度の規制なら、みんな妥協できるよね
その判断を
無知のヴェールをかぶって、自分がどの立場か分からない状態を想像して判断する。
この想像力と寛容性。
これを失うと、
共産主義者が自分の考えに反対する勢力を根絶やしする
のと同じように、
「暴力」でしか物事が解決しなくなる
わけです。
これが、
中国共産党が大多数の人が貧しい生活を送っていると認めながらも、
南シナ海に軍事費を使いまくっている
理由です。
話しても分からない人には、武力で対抗するしかないわけですが、
日本国内の同じ日本人であれば、もうちょっと寛容性があってもいい
と思います。
SNSの炎上や、批判ばかりで建設的な意見のないメディア、
反政府運動の活動家のような野党議員
等を見ると、その思いが強くなります。
特に、国会議員は
日本をよりよい社会にしたい
という目的は一致しているはずです。
あとは、手段を議論するだけなので、
無知のヴェールをかぶって、「正義」の選択をする
ことで、今よりよい社会につながるはずです。
日本国民しか、投票権がなく、
国会議員は、日本国民でなければなれないのは、
日本がよりよい社会になって、
日本国民が幸せに暮らせるようにする役割を担っている
からです。
隣国にどう思われるかというようなことは
判断要素にはなりえない
わけです。
敵地にあるミサイル発射台を攻撃することが、
日本国民の平和な暮らしを守るのであれば、徹底的に行うべきである
ということになります。